「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」展が、東京・東村山市にある国立ハンセン病資料館で8月31日まで開催中だ。同展は、手足の不自由なハンセン病患者・回復者らが自身の暮らしのために作った様々な道具を紹介する展覧会。たとえば両下肢を切断した入居者によって考案・製作されたブリキの義足、スプーンやフォークといった食事のための道具などが並んでいる。作った人の創意工夫と試行錯誤の跡がうかがえるそれらは一見すると素朴で、ある種のかわいらしさや個性も感じられる。しかし、それらを造形としてのユニークさで受け止めて理解する以前に、ハンセン病そのもの、それを取り巻く社会的背景について伝えておきたい。やや長くなるがお付き合い願いたい。
そもそもハンセン病とはなんだろうか? 国立ハンセン病資料館の常設展示図録にはこうある。
1:乳幼児期に、未治療の患者と繰り返し接触することによって感染する、慢性の感染症です。
2:社会の状態から強く影響を受ける病気です。栄養や衛生状態のよい今の日本のような社会では終息に向かっています。しかし飢餓・戦争状態などの状況では大人でも感染し発病に至ることがあります。
3:感染した人が発病した場合、最初の状態は皮疹と知覚麻痺です。
4:有効な治療薬のある現在では、治る病気です。
5:治療せずに進行すると変形などの症状が出ます。
かつて「癩(らい)」と呼ばれていたハンセン病に対しては、発症の原因・責任を患者個人や血縁に負わせようとする社会からの偏見が根強く、古代には「感染」、中世には「仏罰」、近世になると「血筋」に由来すると見なされてきた(歴史が進むごとに誤った理解が強まっているのが皮肉とも言える)。
近代以降、発症の理由が「らい菌」の感染・発症にあることが認められ、治療法の研究が続くいっぽうで、国策として患者を隔離するための療養所が設置され、その隔離収容を促進するために「恐ろしい伝染病」という誤った認識が社会に広められていった。入所した患者が回復したとしても社会復帰を進める仕組み自体がなく、終生隔離という誤った対策が1996年まで継続されてきたのだ。
現在ハンセン病は、通学や仕事も続けながら半年から数年間の通院治療で治すことのできる「治る病気」となり、社会環境や国民の栄養状態の発達した日本では発病することの極めて稀な病気となった。しかし、先述したような偏見はいまも消えてなくなったわけではなく、病気そのものよりも、社会構造として醸成される病気に対する偏見や知識の乏しさによって人々の差別の感情が露呈する。それが現在のハンセン病を取り巻く状況と言えるだろう。
実際のところ、筆者も偏見の度合いや無知さに関してけっして褒められるような者ではない。例えば、写真や映像で見られる手足の欠損や変形がハンセン病による直接的な症状に由来すると思い込んでいた。たしかに変形は運動神経麻痺によって起こることがあり、ハンセン病そのものによる障害ではある。だが、それだけではない。「生活のデザイン」展の図録から引用する。
ハンセン病にかかると末梢神経障害による知覚神経まひ、運動神経まひ、自律神経まひを起こすことがあります。(中略)これらの後遺症が原因となってさらに傷や炎症などを起こし、手指の欠損、足の切断、あるいは弱視・失明などの視力障害などを招く場合もあります。
患者や後遺症に悩む回復者は、症状の進行によって痛みや熱さを感じる手足や顔面の感覚を失ってしまうことがあり、障害物や刃物にぶつかるなどして知らず知らずのうちに身体を傷つけてしまい、最悪の場合、切断手術や失明にまで至る。そうして生じた四肢の傷や欠損を補い、日常生活動作(ADL)の不自由をカバーして生活するために必要なのが、この展覧会で紹介されている数々の自助具・義肢・補装具なのだ。
展示のレポートに移っていこう。最初の「療養所における自助具、義肢、補装具」では、ハンセン病療養所における、生活のデザインの歴史と変遷を見ることができる。
展示された《ブリキの義足》(制作年不詳)を見てみる。これは1911年の開設まもない第一区府県立全生病院(現在の国立療養所多磨全生園)で両下肢を切断した木村庄吉さんが考案・製作した、初期の義足である。見た目は長靴か細身のバケツ。ブリキ、木片、和紙といった、療養所内で手に入る安価な材料で簡単に作ることのできる義足は、高価な革製の義足を買えない入所者たちから多く愛用されていたという。トタン製の義足もあったそうだ。
戦後の1950年代になると複数の療養所に専門の義肢工が配置され、患者と相談しながら義足や自助具を作るようになっていくが、戦前のこの時期は患者自らが自分のために道具を作るほかなかった。療養所での暮らしは「相愛互助」「同病相憐」をスローガンにした自助努力が強いられ、障害の重い人はほかの患者の手を借りて生活していた。世話を必要とする人は世話をしてくれる人を気づかい、極力迷惑をかけないよう、目立たずに暮らすことを強いられてきたのだ。
そのような「公助」のセーフティネットから排除された、「自助」と制約の厳しい「共助」の環境の逆境が、先に紹介した《ブリキの義足》や、大工として働いていた患者が失われた「ものを握る力」の代わりに、ごく簡単な「腕の力」だけで引っ張れるように自作した《取っ手付き鉋》といった、工夫とクリエイティビティに溢れた道具を生み出したとも言えるかもしれない。しかしそこには、それ以外の選択肢を国や社会から許されなかったという事実、そして「自分たちの力で生きるための道具/自分たちが奪われた自由を表現する道具」という両義的な性質が宿っていることを、鑑賞者は見落としてはならない。道具と共に、入居者がうたったこのような短歌も紹介されている。
覚えなき指の傷より垂るる血を教へられ 額より汗滲みきつ 山岡響(多磨全生園)
手にはさむピンセットで布を押へつつ 君は上手にミシンを使ふ 壱岐耕(長島全生園)
発明された様々な道具の製法は入居者自身によって受け継がれた。そして戦後、患者・回復者ごとにまったく異なる症例に応じて義肢工がオーダーメイドした義足や靴型の装具のなかには、ゼブラ模様や花飾りがあしらわれた、使用する人の個性や好みが強く反映されたものも見られるようになっていく。
歩くための道具の変遷を見た後は、手で使う道具のコーナーが続く。手はもっとも生活や仕事に身近な部位だ。字や絵を書く、着替える、物を持ち運びする、針仕事をするなど手の役割は多岐にわたるが、もっとも重要なのは「食べる」ことだろう。
手指の運動神経障害によって手指が屈曲したり、手首から先が垂れ下がってしまう垂手の障害のある入居者にとって箸の使用はきわめて困難で、多くの人が代わりにスプーンやフォークを使っている。個人によって症例が異なるために道具の形状や機能は変わるが、あえて展示品のなかから多数派のタイプを示すとしたら、手のひらに挟んで固定するためのホルダー型が目につく。さらに垂手の場合、手首を固定するためのホルダーが追加されるものもある。また、料理を口元に運ぶために柄を長く、そして持ちやすいように太くしたものも多い。繰り返すが、そういったかたちや大きさはもちろんバラバラだ。
この他にも、手からの滑り落ちや転倒の防止、火傷の防止のためにウレタンカバーや輪ゴムをつけた湯呑みやどんぶりも展示されており、「食べる」ことの生活における比重の大きさが伝わってくる。企画展示を担当した学芸員の西浦直子さん、吉國元さんはこのように説明する。
食事はプライバシーにかかわることで、きれいに食べたい、自分で食べたいという思いが入居者には強くあります。唇が閉じられない人や視覚障害のある人にとっては、料理をこぼさずに食べることは難しく、その姿を人には見られたくないから個室で食事をする、という人もいます。
入居者のなかには食器に顔を突っ込むようにして食べるしかなかった人もいたという。しかしそうであっても「自分の力で食べる」ことは、個人の尊厳を保つ力と理由になる。
料理を作ることに積極的な入居者も大勢います。自分が食べたいものを自分で作るってことが本当に重要な自己表現になっているんです。
このコーナーに限らず、展示された道具から感じるのは「自分の身の回りのことは自分でやりたい」という思いの強さと切実さだ。多磨全生園に住んでいたある女性は、失明しても縫い物を続け、身の回りが整っていることを大切にしていたという。ペットボトルを切って作った筆立てには、種類の異なる複数のはさみ、ニッパー、編み物用かぎ針、ピンセットなどがぎっしり詰め込まれ、なかには鈴のついた道具もあった(音で区別するためだろうか)。それぞれの用途や、どのようにそれを使っていたかを現在知る術はなく、道具のたたずまいのようなものから鑑賞者は様々な想像を巡らせるしかない。
各プッシュボタンに突起をつけて高さを変え、番号の違いがわかるようにした《電話機》や、ボタンを引っ掛けて止めるための大きな《ボタンかけ》、あるいはトイレの後に尻を拭くために考案された《用便後の清拭器》(と、それを使うための複雑な手順が記された説明書き)などからは、道具とそれを使っていた人たちの強いつながりを感じ取ることができる。
これ以外にも、展覧会では視覚障害のある人が使う白杖、刈り込みの高さやかたちを変えて白杖の目印にする盲導樹、音色で場所を判別するための鈴、看護職員を呼び出すためのブザーなど、生活の様々な場面で使われてきた道具が並ぶ。
ここで挙げた白杖はたびたび街中でも見かける道具だが、療養所のなかではほとんど壁や床に叩きつけるように使われているのだという。知覚麻痺のある手は、白杖で対象を強く打ち付けなければ感覚が伝わらないからだ(触覚は失われても、骨に響く振動覚はなくならない)。ブザーの使い方も同様で、ある女性がブザーを押す……というよりも叩きつける様子を収めた写真は、叩くスピードの速さのために手元が大きくぶれている。
こういった姿を目にすることは療養所以外では稀だと思うが、もし仮に筆者がその様子をなんの知識もなく見ることがあったとしたら、見た目の「乱暴さ」にギョッとしてしまうだろう。そして「かれらの病気とその不幸な境遇がそうさせている」と短絡的に納得し、それより先の理解を放棄してしまうのかもしれない。しかし、それが患者や回復者にとって必要な当たり前の動作なのだと知れば、その印象や感じ方も変わる。
この展覧会では具体的な事物や事例を通して、ハンセン病をめぐる偏見・差別の様々な検証がなされているが、企画者が語った言葉で強く印象に残ったのが「パターナリズム」に対する批判だ。
作り手(義肢装具士)と使い手(入居者)が協働することで、新たな道具が作りだされていくのが、この企画展のテーマのひとつです。両者のやりとりからは、長く療養所にしみこんできた医療者による支配的な体制を内側からこわそうとする意志のようなものがうかがえます。本展の制作において、我々自身気をつけなければいけなかったのが、医療者が陥るパターナリズムの危うさでした。
隔離政策は、医療者や行政側の「療養所のなかの生活を維持していれば、入居者は社会に出て直面するだろう差別を受けず、幸せなはずだ」という考えによって長期にわたって継続されてきました。私たちも差別のない社会の方が楽なのではないかと思ってしまうこともあるでしょう。けれども入居者は「そうではないんだ」ということを訴え続けています。その関係性がわかるのが、作り手と使い手の道具の使い方・作り方に関する対話を収めた映像展示で、ここ(療養所)を「自分たちの居場所」として作り替えていこうとする入居者の姿を伝えたかったんです。
パターナリズムは「強い立場にある者が弱い立場の者の意志に反して、弱い立場の者の利益になるという理由から、その行動に介入したり、干渉したりすること」(「看護roo! 用語辞典」のパターナリズムの項より引用)という意味だが、ここに示された問題は医療の現場に限ったことではないだろう。自分から見て相対的な他者と出会った時、人は自分にとって落ち着ける理解を得るために、ときには良心や善意をもって一方的なレッテルを貼る。ハンセン病に関する知識を欠いたまま「ハンセン病とはこういうものだ」という先入観を持っていた筆者自身がその典型例だ。
現代美術においてもハンセン病に関わる作品・表象は少なからずある。それを作るに至った理由やプロセスは様々だとしても、そこに直接的に示された患者・回復者の表象の強さ、あるいは当事者の肉声の直接性ゆえに、鑑賞者の理解がその表面でストップしてしまうこともある。
この「生活のデザイン」展で示されるものは、ハンセン病そのものの表象ではなく、その患者・回復者の手を介して作られた、あるいは義肢装具士らや介護者と共に作られた道具、「当事者性」と呼ばれるものからは少し距離を置いたところにある産物である。たとえばスプーンや歯ブラシがどのように使われたのかをずばり言い当てるのは難しい。だが、その形状や工夫の痕跡は、鑑賞する側に立つ「わたしたち」に、これらを作った人たちの暮らしを想像させると同時に、創造(クリエイティビティ)の可能性を与えてもいるように感じた。それは、自分たちの「当たり前」のなかで生きる時間において得難い経験だと私は思う。
国立ハンセン病資料館もその敷地の一部である多磨全生園には、現在117名の入居者が暮らし、その平均年齢は87.7歳になる。そして全国の療養所の総入居者数が1000人を割ったのも、今年がはじめてだという。少なくとも日本国内から消えつつあるハンセン病同様に、患者・回復者の人々もいずれはいなくなり、その記憶や経験も失われていく(直接的な接触が断たれた近年のコロナ禍は、その勢いを強めたという)。
国立ハンセン病資料館で開催される企画展には、そのような記憶をどのように受け継いでいけるかという問いがあるはずだ。同館では、次回開催される予定の、入居者が作った「文学」にまつわる展示の準備が進んでいるそうだ。