赤レンガが美しい三菱一号館美術館は、東京駅丸の内駅舎や日本工業倶楽部会館とともに、いにしえの丸の内の景観をしのばせる貴重な建物だ。元々は英の建築家コンドルが設計し1894年、丸の内初のオフィスビル「三菱一号館」として誕生した。戦後の高度成長期に取り壊されたが、当時の設計図や保存部材を元に復元され、2010年に美術館に生まれ変わった。昨年開館10周年を迎え、19世紀の西洋美術や東西交流を主題にした企画展の開催、ロートレック、ルドンなどの所蔵作品でも知られている。
その三菱一号館美術館で「三菱創業150周年記念 三菱の至宝展」が開かれている。三菱創業150年を記念し、創業した岩崎家4代のよりすぐりの収集品が一堂に会する企画展で、収集品を所蔵する静嘉堂(東京・世田谷)と東洋文庫(同・文京区)が全面協力した。「国宝、集結。」とうたう通り、国宝12点、重要文化財31点を含む名品の数々が見どころだが、その展観を紹介する前に日本近代化の一翼を担った岩崎家について簡単に振り返っておきたい。
三菱の創業は、土佐藩の海運業を引き継いだ九十九商会が設立された1870年に遡る。創業者の初代、岩崎彌太郎(1835~85)は土佐の貧しい下級武士の家に生まれた。志を抱いて学問に励み、曲折を経て30歳過ぎて藩に登用され、長崎へ派遣された。長崎では外国の商人相手に武器・艦船の買い付けや土佐物産を売り込んで商才を磨き、また「海援隊」の経理も担当して創設者の坂本龍馬と交流を深めた。維新後は九十九商会が前身の三菱商会の社主となり、世界航路を開拓して、日本の海運業を制した。まさに幕末動乱期が生んだ風雲児であり、起業家の走りともいえる人物である。
彌太郎が52歳で没した後、跡を継いだのは弟の彌之助(1851~1908)、続いて彌太郎の長男・久彌(1865~1955)、次いで彌之助の長男・小彌太(1879~1945)だった。兄弟家が交互に社長を務め、その体制は戦後に三菱財閥が解体されるまで続いた。その間、それぞれが事業を発展させる一方、そろって文化芸術に深い関心を抱き、作品収集や文化財の保護に努めた。
展示は4章構成。第1章は「三菱の創業と発展―岩崎家4代の肖像」と題して、各人ゆかりの品が並ぶ。冒頭に置かれるのは彌太郎が揮毫した《一行書「猛虎一声山月高」》。事業に邁進した初代は作品を収集する余裕はなかったが、漢籍に親しみ、漢詩を良くしたという。隣のブロンズ像は岩崎家が海外留学を支援した彫刻家の大熊氏廣によるもので、彌太郎の精悍な面差しを伝える。2代目の彌之助が入手した《唐物茄子茶入 付藻茄子》(*)は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の手を経たいわゆる「大名物」の茶入れ。3代目の久彌が愛用した英国製の帽子、4代目の小彌太が自作した茶道の茶杓もあり、それぞれの人となりをしのばせる。(文中の*は前期展示、以下同)
続く展観は、彌太郎以降の各人に章を割き、それぞれの収集と文化的貢献をたどる。第2章が取り上げる彌之助は兄同様に漢学を学んだ後、米国留学を経験した。学問を好む温厚な人柄だったと言われるが、兄の没後に政争のあおりを受けて海運業を手放した三菱を舵取りし、多角経営へ導いた。丸の内ビジネス街の建設もその一つで、広大な空き地に三菱一号館をはじめ、最新式のビルを次々と建て、西洋風の街並みは「一丁ロンドン」と呼ばれた。彌太郎の陰に隠れがちだが、彼に劣らず、先見の明に優れた経営者だったと言える。
ビジネスでは西洋文化を積極的に取り入れた彌之助だが、コレクションに関しては日本と中国の古美術や漢籍に注力しているのが興味深い。収集を始めたのは刀剣からで、帯刀禁止令(1876)に伴い価格が暴落し、海外に流出する状況を憂いたのが契機になった。次第に対象を茶道具や中国書画、古陶磁器へと広げ、廃仏毀釈のため荒廃した寺院に援助も行って、その返礼に贈られた品もコレクションに加わった。1892年、古典籍を収集する静嘉堂文庫を創設。収集に際しては専門家から助言を受け、中国清朝の著名な蔵書家が残した4万冊超を一括購入するなど、貴重な蔵書を散逸させないように心を砕いたという。そうした謙虚な姿勢も名品を招き寄せたのかもしれない。
第2章は国宝「太刀 銘 包永」(*)など鎌倉、南北朝期の名刀が披露され、中国の書画が続く。中国絵画で注目したいのは山水画の佳品の国宝《風雨山水図》(*)。南宋の宮廷画家・馬遠の作と伝わり、濃淡の水墨表現を基調にそびえ立つ山々と樹々、吹き付ける風雨が精緻に再現されている。
圧巻は日本の仏教美術や古美術、工芸品、日本画の大作が並ぶ展示室。琳派の祖、俵屋宗達による国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》は、京都の醍醐寺が彌之助の寄進に対する返礼として贈ったとされる。前期展示の《澪標図》は、住吉詣の光源氏の一向に遭遇した明石君が、一行の華やかさに気後れして参詣せずに船で去る場面を描く。曲線を大胆に用いた構図や線を重ねた波の表現、明石君や源氏の姿は描かずに「すれ違い」を示唆するなど、宗達らしい斬新な意匠に満ちている(《関屋図》は後期展示)。
明治時代には刀剣だけでなく、多くの貴重な美術品が海を渡った。同じ宗達作で国宝級とされる《松島図屏風》もその一つで、米国の鉄道王フリーアの手に渡っている(現フリーア美術館蔵)。そうした時代背景も考え合わせると、その収集の意義が一層感じられるのではないだろうか。
彌之助の関心は同時代美術の振興にも向けられた。草創期の洋画家の山本芳翠や原撫松らに作品制作を依頼し、内国勧業博覧会では日本画家に対する出品支援を行った。本展では、出品作の一つであった橋本雅邦の代表作《龍虎図屏風》(重文、*)や撫松が描いた彌之助の肖像画などを見ることができる。日本の裸体表現の歴史に残る作品もある。黒田清輝《裸体婦人像》で、警察の指示により下半身を布で覆って公開されたいわゆる「腰巻事件」で知られる。のちに岩崎家の所有となり、高輪邸の撞球室に飾られた。
3代目・久彌の貢献として特筆されるのは、東洋学の発展に大きな役割を果たした財団法人「東洋文庫」の設立だろう。2万4000冊ものアジア関係の文献資料を一括購入したのを機に、敷地と資金を提供して1924年に発足させた。現在では100万冊にのぼる蔵書を擁する、アジア最大級の東洋学の専門図書館になっている。
久彌に焦点を当てる第3章は、マルコ・ポーロ『東方見聞録』の各時代の刊行本や、チベット仏教の経典・仏画、14世紀に書写された『コーラン』など、東洋文庫が所蔵する希少な資料を紹介する。若い時から読書を好んだ久彌は和漢の古典籍の収集に打ち込み、大航海時代の世界地図や江戸の古地図、自然科学に関する書誌も集めた。会場には国宝に指定されている司馬遷『史記』の平安期の写本や長崎出島の医師シーボルトによる『日本植物誌』なども出品されており、久彌の広い視野がうかがえる。
最後の第4章の主役の小彌太は本格的に茶の湯を嗜んだ。茶道史に残る秀吉の大茶会を350年ぶりに再現しようと、1936年に名だたる茶人や財界人が参集した「昭和北野大茶湯」では茶席の一つを担当し、大きな評判を呼んだという。会場にはその時用いた小彌太の茶道具や名器が並び、組み合わせの妙が追体験できる。さらに父彌之助が集めた東洋陶磁器へ関心を深め、特に各時代の中国陶磁の系統だった収集に努めた。
国宝《曜変天目(稲葉天目)》も見逃せない。内部に浮かぶ大小の斑紋とそれを取り巻く虹色の光彩は偶然の所産で、「奇跡の茶碗」とも呼ばれる。曜変天目は南宋時代の中国福建省建窯で焼成されたもので、完品は本作を含め日本の3点しか現存しない。小彌太は昭和初期に本作を入手したもの、「天下の名器を私に用うべからず」として生前一度も使用しなかったという。本展では照明を落とした一室に1点のみ展示され、夜空に瞬く満天の星のような美しさが堪能できる。
父が設立した静嘉堂文庫の拡充にも努めた。1924年に文庫を今の世田谷区岡本に移設し、後に財団法人化。現在、岩崎家のコレクションは静嘉堂文庫美術館(1992年開館)において広く一般に公開されている。
時代の趨勢に目配りつつ文化の保護に努めた彌之助、学術発展に寄与した久彌、自家コレクションの後世の活用に道を開いた小彌太。それぞれの足跡は個人コレクターの社会貢献を考えるうえでも示唆に富んでいる。なお静嘉堂文庫美術館の展示ギャラリーは2022年、丸の内に立つ重要文化財の「明治生命館」に移転する予定になっており、今後の展開にも期待したい。
*「三菱の至宝展」の前期展示は8月9日まで、後期展示は8月11日から9月12日まで。展示替えあり。