会場に並ぶ、石岡瑛子が手がけた様々な映画衣装、ポスター、資料。そのどれもが力強いエネルギーに満ちている。石岡の活動は世界的かつ非常に多岐にわたり、権利関係も複雑なため「この規模での回顧展はもう実現しないのではないかと思う」と話すのは、本展担当学芸員の薮前知子だ。
そんな、世界で最初で最後かもしれない回顧展「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」が東京都現代美術館で11月14日に開幕した。タイトルは、2003年の世界グラフィックデザイン会議で石岡が発した次のような言葉に由来する。
「血がデザインできるか、汗がデザインできるか、涙がデザインできるか。・・・別の言い方をするならば、『感情をデザインできるか』ということです。・・・私の中の熱気を、観客にデザインというボキャブラリーでどのように伝えることができるだろう。いつもそのように考えているわけです」
このページでは、3章と33のキーワードからなる本展を紹介していく(参照:「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展覧会解説、藪前知子執筆より)。まずは、1章「Timeless: 時代をデザインする」。
石岡瑛子は東京藝術大学に在学中の1960年、東京で開催された世界デザイン会議で、国際的に活躍するデザイナーたちの「デザインとは社会に対するメッセージである」という発言に大きな影響を受け、将来の道を定めたという。第1章では、デザインを通じて人々に新しい価値観と生き方を示すと同時に、時代を超える自らの核を模索した石岡の仕事を、日本での展開を中心に紹介する。
入社面接で「男性と同じ仕事と待遇を」と主張したという石岡は、男性ばかりだった資生堂の宣伝部にデザイナーとして加わり、女性を観客・受け手ではなく、送り手の立場へと逆転させようとする日々を送った。そして、男性目線でのキャンペーンが目立った資生堂の広告のなか、自立した女性像を新たに提示。旧来的な美人像を打ち破るべく前田美波里を起用したポスターは盗難が相次ぐ社会現象にもなった。
65年に若手デザイナーの登竜門であった日宣美展に応募、最高賞を獲得し注目を集めるなど、石岡は国内におけるデザイナーとしての地位を着実に確立。70年の独立後は、大阪万博のポスターや、映像、テキスタイル、装丁などへと活動領域を広げていくが、70年代初頭、パルコの仕事を通して広告に立ち返り、人々に行動を促すコミュニケーションとしてのその可能性を追求していった。
いっぽう、当時より「スノッブな、少数の特殊な人たちに向けた空間作りには興味がない」と語り、生涯、広告やエンターテインメントの領域で大衆に向けたデザインを追求した石岡にとって、ファッションや文学を広く開かれたものにしていこうとしたパルコや角川書店との70年代の仕事は、その方向を定める大きな指針となった。また、アートディレクターとしての共同作業の経験は、他者とのコラボレーションに賭けたその後の仕事へとつながっていく。
こうして第1章は、のちに世界へと拡張していく石岡のクリエイションのスタート地点を、多数の資料を通して知る章となっている。同時に、東急百貨店のロゴマーク、山本海苔のパッケージデザインなど、身近なところに石岡デザインが浸透していることに気づかされる章でもあった。
石岡は、アメリカにてアカデミー賞とグラミー賞の両方を受賞した人物であることを知っているだろうか。2章「Fearless: 出会いをデザインする」は、石岡が日本に見切りをつけてアメリカに渡り、各分野の表現者たちとのコラボレーションにより自らの表現を磨いていった時期の仕事を、主要なプロジェクトごとにたどる。
80年、石岡は「すべてをゼロに戻したい」と、日本を離れてニューヨークに拠点を移し、自分の仕事と実力を世界に問い、次のステップへ進みたいと強い意志を持つようになった。3年後には、日本でのこれまでの仕事を総まとめした『石岡瑛子風姿花伝 EIKO by EIKO』を自ら構成、編集して日米で出版。これを名刺がわりに新たな出会いをつくっていったが、本著に魅了され石岡に仕事を依頼したひとりが、かのマイルス・デイヴィスだ。
83年、石岡は、マイルス・デイヴィスから、レコード会社移籍第1弾の重要なアルバムアートワークを依頼される。ファッショナブルなイメージを切り取ってもらいたいマイルスに対し、石岡は最初から彼の「マスク(顔)」と「手」だけに焦点を当てるアイデアに確信を持っていた。そのためいくつもの案を挙げつつ、駆け引きの中で自分の目論見通りにマイルスを導いていく。石岡が神様と崇めてきたアーヴィング・ペンも参加したこのアートワークは、グラミー賞最優秀レコーディングパッケージ賞を受賞した。
映画の世界での華々しい活躍で知られる石岡だが、そのきっかけをつくったひとりが映画監督のフランシス・フォード・コッポラだ。その出会いは、石岡が『地獄の黙示録』の日本版ポスターを手がけ、これをコッポラが大いに気に入ったことが始まりだったという。
そんなコッポラとジョージ・ルーカスが総指揮を執り、ハリウッドと日本で共同制作した85年の異色作が映画『Mishima: A Life in Four Chapters』だ。本作は、三島の遺族の意志を含む様々な理由により日本公開が中止になったが、その世界観は会場で体験できる。「三島を視覚的に実験したい」という監督のポール・シュレイダーの意図を汲み、石岡は、芸術性ばかりを追求できないハリウッド大作の枠組みで、映画美術に主役をさせる難題に挑戦した。
その後、コッポラは石岡に映画『ドラキュラ』の衣装デザインを依頼。92年に公開された本作はアカデミー賞で3つの賞を受賞、内ひとつが石岡による衣裳デザイン賞だ。会場では、東西文化も含めて種々のイメージが交差する衣装に加えてスケッチも展示され、イメージの源泉がよりはっきりと見えてくる。本展のメインビジュアルにもなっている、筋肉そのものを衣装化したような2つのツノのような造形を持つスケッチは、この『ドラキュラ』セクションで見ることができる。
「衣装デザイナー」と呼ばれることも多い石岡だが、自らをそう呼ぶことはなかった。それは、石岡は衣装ではなく、キャラクターや身体、人間自体をつくり直しているという意識があったからであり、第3章「Borderless: 未知をデザインする」では、その意識を石岡自身が深めていった様子を総覧できる。
アカデミー賞受賞後、石岡には多数の映画衣装や美術のオファーが届くようになるが、彼女は「本当に冒険に乗り出す勇気のある映画監督や演出家」を求めていた。そこで選ばれたのは、いわゆる巨匠の大作ではなく、インド出身の気鋭の映像作家、ターセム・シンのハリウッドデビュー第1作目だった。会場で衣装や資料が展示される『ザ・セル』『落下の王国』は、ターセムと行った4作のコラボレーションのうちの2作品となる。
本章は、映画にとどまらずオペラ、ポップミュージック、サーカス、オリンピックなど、多ジャンルに縦横無尽に展開していく石岡のクリエイションを堪能できる章でもある。例えばグレイス・ジョーンズによるコンサートツアーのステージコンセプトや衣装、シルク・ドゥ・ソレイユの衣装、ビョーク「コクーン」のミュージックビデオとアートワークや、その「コクーン」とテーマが通底する、ソルトレイクシティオリンピックのウェアなど。その幅の広さには、あらためて驚かされる。
展覧会のクライマックスを飾るのは、グリム兄弟の原作に立ち戻りつつ、自分で道を切り開く女性の成長譚として生まれ変わらせた『白雪姫と鏡の女王』。本作はターセムと石岡の最後のコラボレーションでもあり、石岡自身の最後の仕事でもある。
そして展覧会は彼女の「最初の作品」で閉幕する。『白雪姫と鏡の女王』と同じスペースに展示された《えこの一代記》は、石岡が高校生時代につくった絵本。生誕から戦中の疎開生活、小学校の学芸会、感動した映画やサーカス、女学校の生活、夢。少女時代に英語でつくられたこの絵本と、最晩年に参加した『白雪姫と鏡の女王』の物語は途切れることなくつながっている。展覧会自体が、ひとりの人間の創造の旅であり、日本から世界への飛躍の記録であったようにも感じられる構成になっている。
なお、石岡は2012年に亡くなる半年ほど前、自叙伝『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』のため、5時間にわたるインタビューに応じている。凛とした口調で普遍的なクリエイティビティやデザイン、サバイブすることについて語るその声はBGMのように会場に流れており、そのことで彼女の気配が充満しているように感じられる。
コロナ禍でなにかと距離を謳われる昨今だが、感覚をフル動員して石岡の魂に接近してほしい。