宇都宮市の宇都宮美術館で開かれている「イヴ・ネッツハマー ささめく葉は空気の言問い」展を訪れた。イヴ・ネッツハマー(1970年スイス・シャフハウゼン生まれ)は、2007年にスイス代表として参加したヴェネチア・ビエンナーレをはじめ、欧米の多くの芸術祭や美術展への出品歴を持つ世界的な美術家である。
ネッツハマーの代表的な表現技法は、コンピューターで制作したアニメーションだ。人物や動物などのモチーフが様々に変形・変容して、作品によっては異次元の世界を渡り歩くかのように場面が展開する。筆者は、本展でもそうした作品を鑑賞するつもりで宇都宮美術館を訪れた。ところが、同館での展示は少し違っていた。
展示は、館の受付近辺から展示室入口に至る回廊ですでに始まっていた。その回廊は、外に面した側がガラス張りになっている。ネッツハマーは、17のガラス面に、コンピューターで制作したという落書きのような線によるドローイングを貼り付けた。映像で知られる美術家が極めて簡素なドローイングで出迎えてくれたことには、少々虚を突かれた。展示の全体を眺めた後で回廊に戻ってくると、シンプルなドローイングにネッツハマーの表現の本質が表れていることに気づいた。
窓の向こうには、冬でも葉を茂らせている森や過日降った雪の残る原っぱが見えるいっぽうで、同館が所蔵するクレス・オルデンバーグの彫刻作品《中身に支えられたチューブ》に目が向く。大きなガラス窓を通して見る風景には、ネッツハマーのドローイングがないときとは異なる心持ちで臨むことになる。
では、これらの落書きのような線は、いったい何を表しているのだろうか。鑑賞者は、自由に想像を膨らませることになる。これは鹿なのか、人なのか。想像を巡らせるのはじつに楽しい。単純な描写だからこそ多様な想像ができるのだ。油絵具にチューブが支えられて立っている様子を表したオルデンバーグの奇妙な彫刻作品との響き合いを感じる人もいるだろう。
宇都宮美術館は長方形の3つの展示室が放射状に配置されており、その中央は円形のホールになっている。ホールの真ん中に設置された作品《奇妙な空間混合》は、天井から吊り下げられた金属製のモビールと床に寝かせたディスプレイで構成されていた。モビールは全体がゆっくりと回転している。モビールのポールの先端部分のうち3ヶ所に、高速で回転するファンが取り付けられていた。そして、それぞれのファンには、まるで先ほど通路で見てきた線が生きて動き始めたかのように、線画によるアニメーションが映し出されていた。
じつは、この線画は写真に撮るのが極めて難しい。ファンに付けられたたくさんのLEDが動きに合わせて光ることによって、線画の動きが表現されているという。人間は残像を見て線画を認識するが、カメラで普通に撮っているだけでは、なかなかうまくとらえられない。本記事では、ネッツハマー自身が撮影した写真と動画を掲載した。
いっぽう、床にはゆっくりと回転するディスプレイが設置され、人体が柔らかな動きを見せている。しかし何かが不自然だ。ディスプレイの長方形の枠の中からはみ出すことなく動いているので、狭く窮屈な箱の中でもがいているように見えるのだ。人体の手の部分が当たるディスプレイの中央にはりんごを模した彫刻が置かれていた。
りんごは何を暗示しているのだろう。宗教的なものなのか、人間の欲望を象徴しているのか……。ここでまた鑑賞者は想像力を呼び覚まされる。
円形のホールを通って最初の展示室に入ると、思わぬ光景が広がっていた。ネッツハマーが取り組んできたと聞く映像やハイテク機器がもたらす表現とは異なる、リアルな世界がそこにあったのだ。小さな体育館くらいはあろうかと思われる展示空間に、竹の構築物が低くしつらえられている。ところどころに赤と青に塗られたドラム缶が配され、竹を支える足の役割を果たしている。
ネッツハマーは2019年に来日して宇都宮を訪ねた際に、観光スポットとして知られる大谷採石場跡を訪れ、その地下神殿のような趣からインスピレーションを得たという。とはいっても、地下空間を模した作品を制作したわけではなかった。ネッツハマーは空間作りの素材として竹を使った。来日した際に栃木県北部の大田原市の竹芸工房を訪ね、地域の伝統工芸に興味を示したという。竹の構造物は美術館を特殊な空間に変えた。鑑賞者は、中を歩くこともできる。
構築物のそばに寄ると、竹にも色が塗られていることがはっきりわかる。日本の竹細工ではあまり見ない類の加工だ。ネッツハマーの映像作品には、鮮烈な色遣いをしているものも多い。色を塗ることで、竹を自身の世界に引き寄せたのだろう。ネッツハマーはまた、「竹から筏(いかだ)を想起した」という。そして、そのまま作品名にした。
筏は映像作品にも登場するネッツハマーの重要なモチーフである。ネッツハマーは、ルーヴル美術館が所蔵しているテオドール・ジェリコーの油彩画《メデューズ号の筏》をも念頭に置き、この作品を制作したという。《メデューズ号の筏》には、漂流のイメージがある。2012年にミラノで発表した映像作品《身体の外縁》では、筏を思わせる板らしきものに乗った潜水夫が、次々に水に潜る。潜水夫たちはどこまで潜っていくのだろうか。
ネッツハマーはしばしば、「深層への潜航」を訴求する。潜水夫たちは、深海のように深い人間の心の奥に潜ろうとしているのではないだろうか。
竹の空間の中には、様々なオブジェが透明のアクリルケースを利用して展示されている。ここで、もう一つ重要な表現が生まれたことに気付かされる。「影」である。影に注目しながら歩き始めると、また新しい世界が見えてきた。
入口から見て右側の展示ケースには、アニメから切り出したようなモチーフがびっしりと描かれた屛風状の作品が展示されている。ただし、これほど長い屛風は世界のどこにもないだろう。六曲一双、二曲一隻などの日本の屛風の呼び方にならうなら、「二十八曲一隻」という形式になるという。28の画面がジグザグ状に折れた状態で一続きになっているのである。
描かれているモチーフは人間だったり、動物だったり、得体の知れないものだったりする。戦っている人間たちの姿も見える。リアリズムとはかけ離れたシンプルな線と色彩による表現だが、描かれているのは、決して平穏な世界ではない。いまの世の中でもほうぼうで戦争が起きていることからもわかるように、人間はいつもどこかで戦っている。いや人間だけではない。動物たちもしばしば戦っている。抽象化されつつある絵の中に、生物の本質が埋め込まれているように見える。
この作品には、通常の美術作品にはない特殊な側面がある。もともとは、屛風に描くための作品ではなかったことだ。コンピューターグラフィクスとして制作されたこの作品は、スイスでは同じ図柄の作品が壁画として展示されているという。ネッツハマーはおそらく日本の屏風を見てその形状にたいそうな面白みを感じたのだろう。
竹の展示室を通り抜けて扉を開くと、外光が降り注ぐガラス張りの休憩室がある。ネッツハマーはこの空間にも目をつけた。そして、壁に囲まれた部屋ではできない展示を実現した。
台の上に、動くオブジェが置かれている。よく見ると、人間の形をしている。台も人型も白い。人間を限りなく単純化したようにも見える。降り注ぐ外光が、美しさを増している。ガラス窓のすぐ外に並んでいる木立の影がオブジェや台に映る様が、また美しいのだ。まるで、人間が自然の中でうごめいているようにさえ感じられる。
2つめの展示室で展示されていたのは、映像作品のみ4点。スクリーンとしてのジグザグ状の仮設の壁面を部屋の中央に立て、鑑賞者がネッツハマーの作品を座ってじっくり見られるようにベンチが設置されていた。ヴェネチアやカッセルに出品した作家の代表作は、ここで見ることができた。
ネッツハマーが描く人間のモチーフには顔がない。そして、その人間が置かれている環境は、ときとして厳しい状況下にあるように見える。例えば、先に触れた映像作品《身体の外縁》では、ベンチの上に寝ている人間が描写される。一体何者なのだろうか。ベンチの下には、この人間が消費したと思われる飲食物の残骸が転がっている。横には少々古いタイプの自転車が街灯のような柱に立て掛けられている。自転車で移動しながら野宿をしている人間なのだろうか。目・鼻・口がないので表情が見えない。抱えている感情は鑑賞者が類推することになる。
ネッツハマーの映像表現で特徴的なのは、血と思われるものが描写される場面がしばしば出てくることである。血は、人間の生命を支える液体である。そして、血はしばしば暴力性を象徴する。描写されている血が大量であるならば、生命の存続にもかかわる事態が展開されているようにも見える。
しかし、こうした描写が救いようのない苦しみや悲しみばかりを表現しているのかと問われれば、否と答えたい。人間も動物も宇宙も、つねに変容し続けている。その中で血を流すような「戦い」をしながらも、皆、生き続けようという強い意志を持っているのだ。いっぽうで、ふだん体の中を流れていて見えない血が、外に噴き出ることでその大切さを知らせてくれることもしばしばある。
人間は多くの矛盾を内包したじつに複雑な心を持つ動物である。映像、オブジェ、ドローイングなどの様々な技法による表現を駆使して、その人間の深層にどこまで迫ることができるか。ネッツハマーの表現の神髄は、そこにあるのではないだろうか。
小川敦生
小川敦生