築90年の家は、何世代の生活を見続けるのだろう。現実の時間はリニアにモノラルで流れ、一つの家は一つの物語を順に紡いでゆく。しかし清原惟(ゆい)監督『わたしたちの家』では一つの家の中に、二つの時間二組の生活が、お互いを知らずに営まれる。それは別々のメロディが一つの音楽を奏でるように。
映画『わたしたちの家』を監督した清原惟は、1992年に東京で生まれ、武蔵野美術大学映像学科卒後、東京藝術大学大学院映像研究科に進み、黒沢清、諏訪敦彦両監督に師事する。本作は、藝大の修了作品として制作され、第39回ぴあフィルムフェスティバル(PFF)に出品、みごと「PFFアワード2017」のグランプリを受賞した。また2018年2月に開催される第68回ベルリン国際映画祭にも正式出品される。今回、清原惟監督にインタビューを試みた。
―こんにちは。映画を観させていただいてありがとうございます。インタビューは初めてと聞きました。よろしくお願いします。
インタビューを受けるのは今日が初めてです。直接(観客からの)フィードバックをいただくのも楽しみですし、自分がもう感知できないような、知らないような。知らない人がどこかで観て、何か思ったということを想像するのもすごく楽しみだなって。どういう風に受け入れられていくのか、不安もありますけれどもね。
―映画『わたしたちの家』では、二つの物語が一つの家の中で交わることなく、重層的に展開されます。一つ目の物語は、14歳のセリと、母親の桐子との二人暮らしを続けている。新しい恋人ができた母親に、セリは反抗した気持ちを持てあます。そして二つ目の物語は、記憶喪失のサナは、船の中で出会った透子を頼り、二人で暮らしを始める。謎の男夏樹がサナに近づき、透子との生活に介入しようと試みる。
さまざまな憶測がつまった物語ですが、特にセンセーショナルな事件が起こることはない。途切れ途切れのエピソードが、全体を表すことなく、映画の背景として垣間みれる。まるで物語が始まる前の、「物語前夜」といった興味深い印象です。この映画の着想はどこから来ているのですか?
構造的なテーマが出発点になっています。バッハのフーガが好きで。フーガみたいな構造の映画にできないかな、というのがありました。フーガというのは複数の声部にメロディーラインがあるポリフォニー音楽です。そのどれもが独立し、かつ全部が主旋律というか、主役でありながらも、それらが重なった時に一つの音楽になる。すごく興味深い構成の音楽です。
映画もそれと同じように複数の声部というか物語がありつつも、それらが直接的に物語として繋がらずとも、お互いに影響し合って、何かひとつの形を作れるのではないかっていうのが着想点でした。
ひとつの塊として映画にするのに、オムニバスだと弱さがある、群像劇だとそれぞれの話の接点がありすぎるなって。もうちょっと違った形で映画を構想したいというのがあって。『わたしたちの家』は、オムニバスのようにテーマでくくられているものではなく、構造的なテーマというか。内容的なテーマ、というよりはどちらかというとコンセプトで、ポリフォニック的な映画を作りたかった。それぞれの話が自立して、連絡しあっているような感じを目指しました。
―バッハのフーガは、映画の中でも流れていましたね。今までの映画制作も構造的なテーマを持っていたのですか。
そうですね、(映画の中で曲を)直接伝えるのはちょっとあれかなと思ったのですが、どうしてもどこかに使いたくて。今までは、必ずしもそう(構造的なテーマ)ではないです。ただ構造的なことは興味があって、過去の作品にも今回みたいに明確な形ではないのですけれども入っていると思います。
―サナの服のタグに「A.P.C.」のロゴがみえたので、現代の映画かなと思ったのですが、オープニングや映画の全体は80年代的です。セリのナイトウェアや音楽、ダンスの動きまで。
時代設定は一応現在なのです。でも美術とか、かなり時代が分からない感じですよね(笑)。感覚が少しずれているのかな。確かに最初の曲は完璧にシンディ・ローパーを意識しています。シンディ・ローパーの曲を渡して「これみたいなの、お願いします」って作ってもらったので、もう完全にそうなのですけど。それは確かに完璧に親世代のものなのですけれども、親の影響受けて聞いているみたいな設定にしたくて。でも音楽でも今ちょっと80年代ポップスみたいなのが流行ってるっていうのもありますけれどもね。現代っぽい感じの流行りっぽくない感じにはしたくなかったというか。
―撮影はどのように進めていたのですか?
(撮影の方法としては)話を前後半で二つに分けて撮影しました。ひとつの物語をほぼ撮り終わって、次の物語に行くという。だから演じている役者さんたちは、他の話の役者さんたちと会ったことがない状態、映画の中と同じ状態です。もちろん脚本ではどのようになるかというのは読めるのですけど、実際にどういう風になっているのかというのは、想像するだけというか。
―花瓶を投げるシーンがありますが、受け取る方はどんな花瓶を投げられているのか全く知らないまま投げられているわけですね。
でもあれは実は花瓶は(別の世界に)すり抜けてなくて、花瓶は跳ね返されているのです。実は花瓶のほうだけ、その世界がすり抜けられなくて壁にあたってしまった。花だけが通り抜けられた。花瓶があたるって言うのは、攻撃みたいに観えると思うんですよね。花瓶が当たったって事になると何か、そういう風にみえてしまう。で、花だったら投げているけれど、でも一種の贈り物みたいな。そういう風にみえるといいなと思って。
―男性性の不在性についてもこの映画は描いていますが、その「彼」に贈り物を届けるという回答は意外です。
そうですね。異質や排除しているようにもみえますが、どちらかというと女性だけでも成立する世界、そういうのを描きたいというのがあって。男性をどうこうしたいというよりも、女性だけで成り立つ世界というような家の中を想像していて。そういうものをやりたいとなった時に自然と、というのも変なのですけれども、男性が家の中に住んでいないという状況、外に外にと、男性がある意味排除されているようにみえる状況になっている。
でも男性というのはすごく重要な存在で、排除されているようにみえるけれどもすごく求められてもいる存在でもあって。お父さんもセリちゃんにとっては求めている存在でありつつも、求めているけれどももうここにはいられないような存在。お父さんも、例えばあの状態でお父さんが戻ってきていたとして、そこにはもう居場所がないような感じが、私はするのですけれども。
父親がいなくなった理由は、はっきりとは描いていないのです。けれども彼は戻ってこられない存在です。ただそれを希求している人もいる。そしてサナは(男性の)なつきを家の中に入れようとする、入れたいという気持ちがある。
―なぜサナを記憶喪失として描いたのですか?
サナが年上で、透子が年下という設定なのですけど。あの家に二人で新しい生活を始める時に、透子のほうが親というわけでは無いけれど、サナにとって何か絶対的なものになる。それによって二人だけの世界が成立すると言う風にしたくて。それでサナという人物は記憶を失って、自分自身を失っている人物として描くことによって、どこか幼い子どものような存在として描きたかったというか。記憶がないというのは、自分が自分であることの確信を得ていない、自分への不安みたいなものがすごくある。後は誰かなしには生きていけないという存在になってしまうということなのですかね。
―そこは未成年のセリと共通しているところですね。
セリも一人ではあの家の中では生きていけない、そこに母親がいないと。自立して生きていきたいという思いはあるのですけれども。でもそれは今のところできないという共通した部分がありますね。
―この映画は、家が軋む音や、「気のせい」など、気配などが効果的に使われています。清原監督は家の声をどのように考えているのでしょうか。
木が軋む音など、わりと細かく音作りをしているので、劇場じゃないと聞こえない音はありますね。家に記憶が宿る。宿ると言うより家自身が持っている、もちろん脳みそはないですけれども、記憶を持っているという感覚があって。撮影現場としての「もともとの家」も記憶を持っているし、「映画の中の家」もいろいろな記憶があると思うのですけれども、それをどのように映画で表現しているのかって言った時に、音を一番に表現して使ったのです。
徐々にどこからか分からない音みたいなのが聞こえてきて、基本的には向こう側の世界の音が聞こえているって言うことでもあるのですけれども。それが通り抜けて聞こえてくることもあるし。家に吸収された音が、出てくるというような。単に中で起きていることだけではなくて、家というのはスピーカーみたいな感じで、振動を伝えるようなもの、みたいなイメージですね。
―ありがとうございます。次に清原監督ご自身のことについてお聞きしてもよいですか?キャリアはいつから始まりましたか。
最初の映画製作は高校二年生の時に友達と、遊びのような感じで自主映画を撮りました。普通のハンディカムのカメラで、DVでもなくメモリーカードで撮ってパソコンで編集していました。完全にデジタルでスタートしたっていう感じです。自分で脚本も書きまして、そして友達に出てもらって。学校の文化祭で上映したというぐらいです。私が監督という立場で、もう一人が出演して一緒に考えてくれたっていう。
30分から40分位の映画で、それも女の子が主人公の映画で、一人の女の子がちょっとした旅に出るというロードムービーなのですけれども。途中で幽霊なのか生きているのかよくわからない自分の分身のような女の子に出会って、その女の子と一緒に時を過ごすという様な話です。
―監督として、各セクションにどれくらい指示や干渉をしますか。
今回、『わたしたちの家』に関しては最初のコンセプトみたいなところは、がっちり共有したのですけれど、その後はそれぞれに任せているという部分が大きくて。二つの話の書き分けじゃないのですけれども、美術においても照明撮影においても、差をつけている部分があったりして。そういうところは根本的なアイディアをまずまとめて、一緒に話して決めて。その先はそれぞれのスタッフに任せている。そういう部分が大きいですね。
そして、出てきたものに対していろいろ言ったりしますね。美術に関しては細かく作っていったかなっていうのはあって。美術のメインスタッフの子は、すごく優秀と言うか、すごくいろんなアイディアを持っている子だったので、おおまかなアイディアは任せて、細かい修正をやりましたね。例えば花瓶の種類とか。
いくつかの花瓶の候補がありますけれどもどれにしますかって言われたときにそのどれも全部違うから、「もうちょっとサイズが小さくて、口がもっとすぼまっているほうがいい」と言うような細かいレベルですけれども、印象的な小物の選び方を。花も自分で選んだ部分があって。花束の種類、花の種類。最初そこは任せようかなと思ったのですけれど、印象的な小物に関しては気を使いたいなと思って、自分で選んだり細かく指定したり。
―俳優たちにはどんな演出をされているのですか。
そうですね。演出的なことで言うと、細かい感情の演出などはしていなくて。言い方自体とかよりは、細かい動きだったり、セリフとか間みたいな。そういうところは細かく演出するという方法でしたね。細かく登場人物のバックグラウンドまで話すことはしていなくて。脚本を読んでもらって、役者さんが受けた印象を元にやってもらうということが多いですね。
―映画『わたしたちの家』は、大学の修了作品ですが、学内の発表と違い、多くの人たちの目に触れていくことになります。
多くの人に観てもらえれば、観てもらうだけ、映画そのものが変化していくような、広がっていくっていうのですかね、もちろん一個の映画なのですけど、たくさんの映画が生まれていくともいえますし。観られないと映画にならないというような気持ちがあって。観てくれる人がいて、それが映画という存在として確立されていくのだと。作っているうちにだんだんでてきた実感なのですけれども。
―次回の展望について何かありますか。
次もポリフォニックな世界観と言うか、自分たちの世界っていうのと、他にもまだ世界があるという感覚というか。一つじゃないっていうか、自分の世界も不確実と言うか、というのがあるので。そういう複数の世界みたいなものを、さらに違う映画でも発展させていけたらいいですね。
―ありがとうございました。
清原惟が監督した『わたしたちの家』は、2018年1月13日(土)より渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる。
また、清原惟がDJとして参加する『わたしたちの家』前夜祭イベント「『わたしたちの家』はわたしたちの映画である!」は、2018年1月12日(金)渋谷 7th FLOORにて開催。詳しくは公式ウェブサイトをチェック。http://www.faderbyheadz.com/ourhouse.html
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