マン・レイのオリジナル写真を初めて見たのは1980年4月、日本橋「ツアイト・フォト・サロン」の展覧会だった。たしかソラリゼーションやレイヨグラフのヌードが中心で、精緻な陰影にいっぺんで惹かれ、その日からマン・レイという奇妙な名前が脳裏に刻みこまれた。
日本初の写真画廊「ツアイト・フォト」を主宰する石原悦郎にとって、マン・レイのオリジナル・プリントの展示はギャラリストとしての力量を世間に問うものだったろうし、じっさい、膨大なマン・レイの写真作品を収集していた。たまに画廊を訪れると、石原がときどきコレクションの一部を保管庫から取り出して見せてくれることがあり、キキや女性たち、セルフ・ポートレイトと対面しながら時間を忘れたのは、私にとって宝物のような記憶だ。
しかし、いくらオリジナル・プリントに魅了されても、マン・レイを写真家と呼ぶことには抵抗があった。なぜなら、多彩な技術によって印画紙に定着された像は極めてオブジェ的で、写真はイメージの表現手段のひとつに過ぎないというマン・レイの声が聞こえてきたからだ。
ずっと不思議に思ってきた。
マン・レイとは何者なのか。
そもそも実名を棄て、パリを舞台に活躍したユダヤ系アメリカ人芸術家は、シュルレアリスムの文脈のなかで謎めく存在だ。生涯の盟友マルセル・デュシャンによれば、「マン・レイ、男性名詞。〈喜び・遊ぶ・享楽する〉の同義」。人物そのものが芸術性を帯びているというわけで、さらに紗幕がかかる。また、驚くべき綿密な記憶によって綴られた『マン・レイ自伝』には、ニューヨークやパリでの芸術活動と人物交流がくわしく記録され、オブジェについての記述にしばしば出会う。だから、奇妙な話だけれど、写真家として世評が高いのに、写真以外の作品によってマン・レイを知りたい欲望が強くなっていった。
DIC川村記念美術館で開催中の「マン・レイのオブジェ 日々是好物|いとしきものたち」展は、そんな欲望を長く抱いてきた私にとって、覚醒をうながされるすばらしいものだった。50代を迎えたマン・レイが「我が愛しのオブジェ」と呼んだ夥しい制作物の数々が、生涯を芸術に捧げたひとりの男の姿をゆっくりと浮上させてゆく。
まず、オブジェの前に立つと、オブジェはそれそのものと直接対峙しなければ核心にはけっして届かないという認識が、あらためて補強された。質感。色。曲線。直線。高さ。幅。奥行き。光と影……量感や温度まで雄弁に伝えてよこす、指も触れないのに。
しかも、マン・レイには「特別な事情」がある。複製についてのトピックだ。たとえば、ニューヨーク時代、ダダの実践として制作した《ニューヨーク 17》。制作年号は「1917/66」と記され、つまり再制作されたものであることを示す。会場に展示された1966年の制作物は、1917年に使用された木材ではなく、シルバーの硬質材が選ばれ、摩天楼を連想させながら街の変貌をも表している。とかく複製物は、芸術において下位に置かれるが、生涯にわたって繰り返し複製を制作したマン・レイにとっては、オリジナルな創造の変奏曲だったのだろう。
今回の展覧会の中軸のひとつ、4つのオブジェ《贈り物》から受けとるメッセージは、マン・レイの人間味に誘い込むものだ。1921年、アイロンの底に鋲14個を膠で貼りつけた、パリでの最初のダダのオブジェ。作曲家、エリック・サティに頼んで雑貨屋で買ってもらい、初めての展覧会場に持ちこんでオブジェに仕立てて並べたが、たちまち盗まれてしまった。そのほかの展示物も、2週間経ってもまったく売れず、自伝には「狂乱にとらわれんばかりだった」とある。だから、《贈り物》は忘れようとしても忘れられないメルクマール。もちろん、生地を平らに均すアイロンが、鋲で布を無残に切り刻む発想をいたく気に入っていただろうし、そもそもマン・レイは仕立屋の息子だった。1960~70年代にも《贈り物》を制作し続けたのは、巷間揶揄されたりもする金儲けの目的など超えていましたよね、と問いかけたくなる。
きわめて先鋭的で硬質、しかし、表現の攻撃性より、優美さ、優しさが宿るのは、オブジェにも写真にも共通している。この発見もまた、私にとってマン・レイを理解するうえで大きな助けになった。シュルレアリスムのシンボルとしても著名な、メトロノームに瞳を取り付けたオブジェにしても、発表の発端は失恋の痛みに突き動かされてのことだったが、永遠の時間を刻み続ける規則正しい音と動きのなかに、マン・レイ自身の心臓の鼓動が反響するかのようだ。
歳月が過ぎても手放せなかった「我が愛しのオブジェ」の数々。身近に接するうち、迷宮だと思い込んでいたマン・レイの謎解きが始まる。驚きと興奮の感情のなかに、親しさ、とりわけマン・レイそのひとへの愛おしさを見出したときの感銘を忘れない。