増田の作品は、まずそのビビットな色使いに目が行く。その極彩色はネオン街の享楽を思い出させる。実際、増田は今回の作品群を描くにあたって、春画の図像を参考にしたという。印刷当時はビビットであっただろうその色彩は現代の春画と呼べる部分もある。また、日常の性生活を描いたコミカルな春画のポップな印象をも引き継いでいる。
しかし、そこに描かれている身体は一つの体を成していない。部分が強調され、性交をしているうちにお互いが入れ替わってしまう。性的快楽が一つの身体を基点にしているとすれば、増田の描く快楽は身体が分解されることによって得られる快楽に向かっている。その上に塗られたビビッドな色彩から、見るものをトランス状態へと誘い、絵画が躍動し始める。
ところが、その身体は太い輪郭で切り取られている。この輪郭が身体の重さを強調する。この重さは鶴岡政男の『重い手』を思い出させる。鶴岡が描いた肉体の重さが戦争からきているとすれば、増田の身体は戦後の享楽の中にある。もはや身体を主体の基点とする必要もなく、自らの身体を分解し、身体の部分を主体と見立てて、トランス状態へと自らを誘うこと。戦後の軽さが太い輪郭によって強調されているのである。没落しゆく消費社会を象徴するネオン街の懐かしいビビッドな光の中で、統一的身体を忘れて享楽を思い出す。未だ戦後が続く日本で地中海的享楽をスクリーンに照射する。どうしようもない現代の軽さがそこに描かれている。
増田の作品が見るものをトランス状態へと誘うのは、色彩の濃淡と筆のタッチの差によって生み出される奥行きにある。ときに野獣派的に、ときに表現主義的、ときに日本洋画的に塗られた面によって焦点を撹乱する。見るものは画面に仕掛けられた様々なレイヤーの間を行き来することの快楽に身を浸すように仕向けられている。
おそらく私たちは近代的主体を解体して遊ぶことに慣れてしまった。そして、その享楽に飽きてしまった。なんとなく、バブル時代は楽しかっただろうと思う。しかし、少なくとも私は当時に戻って欲しいとは思わない。当時を回想することで得られるトランス状態には快楽があるとしても、その画面に切実さがない。どんなに気持ちよくても、絶頂に至ることなくだらだらと持続するトランス状態でしかない。
慎重に配置された図像と色彩は構成的にはよくできている。しかし、その分そこから切実さを感じない。増田には今後ペインターとして切実な色を追及して欲しい。
増田の個展が開催されている万画廊は、2年前に名古屋から銀座に移転してきた。銀座の企画画廊に新風を起こしてくれる存在に成長してくれることが期待できる画廊だ。毎月企画展示を開催しているとのことなのでぜひ訪れて欲しい。