東京都現代美術館で12月9日から2024年3月10日まで「豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表」が開催中だ。企画は同館学芸員の鎮西芳美。
初期作品から新作まで、所蔵作品や個人蔵の作品も含めて一堂に会する、美術館での待望の個展となる。事前の資料ではおよそ400点とのことだったが、実際には500点を超えそうだという圧倒的なボリュームだ。
豊嶋康子(1967〜)は、1990年から30年以上にわたってコンプチュアルな作品を発表してきた。お絵描きが好きな子供として育ち、東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修士課程修了という経歴を持つが、在学中から絵画という形式にとらわれない作品を制作。1990年に西武高輪美術館で作品を展示し、デビューを飾った。今回は当時の作品も出品されているが、現在に至るまでの関心のつながりや一貫性が感じられる。
その特徴は、この社会で自明のことと思われている制度やルール、物の使われ方、価値観といったものを、自身の独自の視点や方法でとらえ直し、問い直すというものだ。そこでは「社会」というものと「自己」というものが、たんに対立するものではなく、干渉しあい、入れ子状態であるような、複雑な有り様が示される。
本展はタイトルの「天地左右の裏表」という言葉にも表れているように、普段私たちが表だと思っているものは本当は裏ではないのか? 天と地を入れ替えることはできるのか? 右と左と規定しているものとはなんなのか?……そんな世界と自身の認知に対するめくるめく問いかけに満ちている。
そうした思考は、絵画のためのパネルに絵が描かれず、剥き出しになっていたり、その裏側に様々な細工が施され、むしろそちらが鑑賞者の注意を引くように作られていたりする、一連の作品からも見て取れるだろう。
広い展示室を取り囲むように、壁に長い長いそろばんが這っている。藝大生だった1990年に西武高輪美術館(軽井沢)で展示した、デビュー作といえる《エンドレス・ソロバン》だ。同時期に発表された〈マークシート〉とともに、初期作2点が本展のために修復され、オリジナルのインスタレーションを受け継ぐかたちで展示されている。
受験会場をコンパクトに再現したような〈マークシート〉は、白い机の上を見ると、鉛筆で真っ黒に塗りつぶされた解答用紙が置いてある。本来塗りつぶすべき解答欄“以外”の場所を塗るという行為は、なされるべき行為を反転させたものであり、少し前まで受験生として一方的に優劣を判断されるという経験を経た豊嶋の、既存の評価システムへの批評精神が早くも発揮されている。
プレス向け内覧会で、豊嶋はこのように語る。
「この展覧会は年代順では構成しておりません。今回は30年ぶりに1990年の作品を公開することになり、これまでの制作でずっと一貫してきたことや、最近のより抽象的な類の作品とのつながりをご覧いただきたいと思います。この初期作は本当に処分ギリギリのところでいつも迷っていたのですが、いまやってることにもその内容が根付いていることもあり、自分でも確認のためにも取っておきたいなと。おかげで今回修復もできました。
私が40代になってから制作した木のパネルの作品も裏側が表になっていたりしますが、基本的な枠組みのなかで、自分なりの動きをするということを継続してきました。自由に動いているようで、じつは何かの大きい法則に従って、自分がぐるぐる動かさそういった枠があるんだけれども、自由に動いているんだけれども、それはもしかしたら自由ではなくて何か埋め込まれたプログラムに自分が乗っているのではないか」(豊嶋)
展示室の最後にあった、スピログラフを使った作品はこうした視点を端的に表している。曲線による幾何学模様を描くための定規であるスピログラフは、決まった法則によって図を導き出すが、最初にペンをどの位置に置くかは自分で決められるし、どんな図になるかに影響を及ぼす。
1996年から行っている《口座開設》や《ミニ投資》といった経済・金融システムに「私」という存在を通して介入する作品群も、既成の仕組みや枠組みに則りながら、そこにオルタナティヴな見方を挟み、本来想定されている物事の意味作用を撹乱させる作品だ。
銀行での口座開設や株式の購入、生命保険への加入といった行為それ自体は一般的なものだが、それを執拗に繰り返したり、金額の変化を観察し続けるといったちょっとした過剰さと逸脱によって、そこに発生する意味と認識が「普通」からズレていく。展示室にずらっと並んだ銀行通帳やカードは端正なミニマル・アートのようだが、そこにサンリオやディズニーのキャラクターがにっこり微笑む絵柄が混ざることで脱力感や笑いも誘う。
世界や社会の表面的な有り様や見え方を鵜呑みにせず、独自の批評眼と身体性をもって対峙する豊嶋の姿勢には、両親の影響も大きいという。
「両親は子供時代に敗戦があった世代で、彼ら彼女らの親の世代に対して何かしらずっと怒り続けていた」(豊嶋)
それまで正しいとされていたことが一瞬で変わってしまう。そうした戦中・戦後の経験が、ひとりの人間に及ぼすインパクトは計り知れない。
戦時中のアーティストを題材に扱った《前例》(2015)という作品もある。これは日中戦争から太平洋戦争までのあいだに渡航した作家の名前が、いわゆる大東亜共栄圏の地図上に垂れ下がっている。この地図は作家の故郷である埼玉県比企郡小川町で作られる和紙を使っており、同地の和紙はかつて風船爆弾の製造にも使用されたという。
目の前の事象や価値判断に対し、それを単純化せず、自身の行為を通して新たな見方を開くこと。こうした実践の軌跡である豊嶋の作品は、決して理解しやすいものではないかもしれない。ただ、だからこそ、いつの時代も「先行きが見えない時代」である私たちの人生に置いて、大きなヒントや知恵、ときにユーモアをも与えてくれるのではないだろうか。
同時代のアーティストたちからも熱い支持を受け続けてきた作家の記念すべき個展を、ぜひその身で体験してほしい。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)