上野の森美術館で「VOCA 展2008」が開催されている。VOCA展は全国の美術館学芸員・ジャーナリスト・研究者などに40才以下の若手作家の推薦を依頼し、その作家が平面作品の新作を出品するという方式で行われており、今年で15回目を迎えるものである。賞は「VOCA賞」1名、「VOCA奨励賞」2名、「佳作賞」2名、その他に「大原美術館賞」と「府中市美術館賞」が1人ずつに授与されており、公式サイトでは受賞作品の画像も見ることができる。
今回は36人の作家からの作品の提出があったのだが、それだけの人数の作家の新作を目の前にすると、まさに作家の数だけ表現のフロンティアがあるのだということを実感させられ、軽い頭痛を覚えるのだった。だが36人全てにクリティカルマインドで向き合う必要はない。その作業は選考委員にまかせて、イソギンチャクの触手のように様々な方位に広がったこの表現たちの中で、自分はどれが気に入ったのか、今の自分の琴線に触れるのはどれなのか、ということを探りながら見るだけでも楽しい。
そのような視線で見た時に私が密やかに授賞した作品を紹介したい。下道基行《Pictures―遺された祖父の絵を旅する》である。「日曜画家であった祖父の絵の現在における持ち主を訪ね歩き」撮影したという説明もあるとおり、これは亡くなった過去の人への鎮魂の意味を見せながらも、その実、遺されたものが存在する「今」であり、「私」なのである。下道のこの作品は、中流という表現がしっくりくるような、あまり洗練されていない3つの生活空間を撮影している。3枚のうち2枚は生活風景の中に祖父の絵が飾られている様子を、そして残りの1枚には絵にかぶせられた透明なガラスかアクリルの額に玄関先の風景が反射しているところを写している。
その写真達にはどれにも「私」が静かに滲んでいる。この写真は、灯りの位置が黒マジックで書かれている電気のスイッチにふっと頬が緩むおかしみを感じ、だるまとトロフィーのある部屋に座る女性の顔に浮かぶ無表情の表情に未来を感じさせない気だるい絶望を想う、そんな日常の風景を見つめる極めて私的な視線の表現である。そしてその下道の視線としての「私」は、生活に必要なものを配置したり少々大事なものを乱雑にならない程度につめこんだりした「私」の空間、そして「私」が描きたいから描いたという絵という、他の2つの「私」と共に作品を構成し、この作品に私的な安らぎを与えているのである。それは3枚目の、絵のガラス(もしくはアクリル)の額に玄関が写った写真の中で、その絵に描かれた水の中にほどよく混ざり合って溶けていくように感じられた。
等身大の「私」に回帰した写真。エッジの効いた表現ではないが、その穏やかさが逆に心地よく見ている者の中に広がってくるのである。それは必ずしも、幾分かの「権威」になったVOCAにおいて賞を授けるか否かといった時の議論の俎上に載ったり、多くの票を獲得したりする表現ではないかもしれない。だが、見る者と作品の関係性という線上で考えた時、その私的な表現に共鳴するものがあったならば、たとえ少人数であっても見る者の中に残るのであれば、それは結果としてその表現にとっての幸福なのであろう。
この他にもいくつか印象に残った作品があった。ジャンボスズキ《待望の品》は早春を思わせる緑でありながらもどこかくぐもった色合いの草原に廃墟のような建物を配置し、ピンク色の雲が浮かんだ紫がかった空を描いている。そしてこの作品の主役ともいえるのが、画面の大部分を占める、青い紙袋から顔を出したパンである。「待望の品」は果たして間に合ったのだろうか、”it’s too late”であったのではないだろうか。色彩や画題に露骨に毒々しいものがあるわけではないのに、じわじわとした焦燥感と不安感を感じさせる作品だ。
藤原裕策《from SKY, to the SKY》は原始的な命のエネルギーを感じさせる絵だ。画面いっぱいに踊る色彩は、色とりどりの無数の花や鳥のようだ。しかし空は黒である。だがそれは光がない空間としての黒ではなく、未知なる光をもった黒であった。真っ赤な太陽、もしくは月と共に、原初の花と鳥達はこの知らぬ空を目指し、高みを目指したのではないだろうか。なお、この作品は「佳作賞」を受賞している。
見る人の数だけ「賞」がある、などと言っては陳腐だろうか。同時代に生まれた数多の表現の中から「私」に必要な―安らぐために、警戒するために、高みを仰ぎ見るために必要な―アートを見つけるために訪れてみたい展覧会である。
Hana Ikehata
Hana Ikehata