公開日:2023年2月25日

「訪問者」クリスチャン・ヒダカ&タケシ・ムラタ展レビュー。既知の訪問者と錯視作成(評:南島興)

1月31日まで銀座メゾンエルメスフォーラムで開催された「訪問者」クリスチャン・ヒダカ&タケシ・ムラタ展。日本の血を引き、それぞれロンドンとアメリカで活動するふたりのアーティストによる本展を、横浜美術館学芸員の南島興がレビュー。

クリスチャン・ヒダカの風景風景 

クリスチャン・ヒダカ(1977年千葉県野田市生まれ、イギリス・ロンドン在住)とタケシ・ムラタ(1974年アメリカ・シカゴ生まれ、ロサンゼルス在住)の二人展「訪問者」が、銀座メゾンエルメス フォーラムで2022年10月21日~1月31日に開催された。日本の血を引き、英語、米語圏の文化のなかで育った両アーティストのまなざしを、「日本を拠点としている私たちの文化や言語へのアプローチとは、ある一定の距離を持った訪問者のものであり、またそれ故に、私たちのまなざしをも彼ら固有の世界への訪問者へと変えるもの」ととらえてその作品を紹介する本展。絵画やCG画像、映像などによってリアリティを揺さぶる両作家による展示を、横浜美術館学芸員の南島興が論じる。【Tokyo Art Beat】


絵画の伝統とイリュージョン

クリスチャン・ヒダカとタケシ・ムラタは訪問者であったが、既知の姿をして現れた。

ヒダカは言うまでもなく既知を愉しむ作家である。展示会場におかれた作品ファイルをめくっていて、目についたのは彼が2016年に描いたジョルジョ・モランディの形而上絵画を模した作品だ。テンペラという古典技法を用いたモランディへの接近は初期ルネサンスの系譜に連ねることで自身の「イタリア性」を演出した画家への正しいオマージュと言うべきかもしれない。同じく形而上絵画派のジョルジョ・デ・キリコやカルロ・カッラはそれぞれ古典回帰したとされているが、なるほどヒダカほど、今日の美術における古典回帰を思わせる作家も珍しい。彼の絵画空間は、とりわけ数学と建築術に長けていたルネサンス期の名だたる古名へと私たちを誘うし、ヒダカはその参照を包み隠さずに開陳し、図示してみせてもいる。

クリスチャン・ヒダカの風景風景 

本展「訪問者」において、ヒダカはこうした既知の小宇宙のなかに別の仕掛けを取り入れている。それは全体の部分化と部分の全体化、ふたつの視覚的転置によって生み出される、入れ子の構造である。作品リストで1番と振られている《Siparium》が展示空間全体の描き込まれた見取り図として考えられる。絵のなかには四方を回廊に囲まれた広場の中央に簡易な舞台があり、そのうえで踊る男女、その背景に垂れ下がる幕がある。タイトルのもとになっている「シバリウム」とは、この後幕のことであろう。舞台の周囲には白や灰色のタイルが敷き詰められ、ミニチュアの塔や幾何学的な立体部が置かれ、笛や太鼓をたたく人物、回廊の隠れて踊る女性なども点在している。

クリスチャン・ヒダカ Siparium 2020 リネンにオイルテンペラ 178×255cm Photo: Vincent Everarts

作品リスト順にしたがえば、この絵を構成するいくつかの事物や人物がつづく実際の展示空間の中に単独の絵画となって登場する、これが本展における入れ子の構造である(*1)。幕は舞台上のイリュージョンを作り出すが、ひとたび幕が下ろされてしまえば、その世界はすぐさまに消え去ってしまう。この作品自体もまた、すなわち本展全体の入れ子世界を受け止める後景としてのシバリウムだと考えることもできるだろう。

クリスチャン・ヒダカ Tambour Ancien 2021 リネンにオイルテンペラ 251×178.5 cm Photo: Hugard & Vanoverschelde

ただし、ひとつのミスがある。いま述べたような作品リスト順にそった鑑賞は実際には行われていないと思われるのだ。一般的な日本の美術館がそうであるためか、順路とは逆に個別の作品をはじめに見て、最後に《Siparium》に遭遇する左回りをしているひとが大半であった。順路と逆路では、入れ子の構造に対する理解の順番も逆転してしまうことは言うまでもない。前者(順路)では全体から部分へ、後者(逆路)では「部分」から全体へというように、私たちは全体からの解体と部分からの綜合の両方からその構造を把握していくことになるのだ。

繰り返せば、全体の部分化と部分の全体化、両方の絶えざる転置が入れ子の錯視効果を作り出していた。本展におけるふたつの「順路」は、まさにそうした全体と部分の両方に引き裂かれる入れ子の錯視性を引き出す構成になっていたのである。本展は「訪問者」と題されているが、その意味は、こうした美術作品を見る文化的な慣習のずれを作り出す主体ということかもしれない。日本で母の同姓と出会ったことをきっかけに「クリスチャン・ヒダカ」と改名した人物の作品が企図する、東西の異なる透視図法、それらの並置とその間に生まれる視差の端的な現れとして受け取るのがよさそうだ。

クリスチャン・ヒダカの風景風景 

現代のヴァニタス画

錯視を用いた絵画といえば、西洋美術の伝統ではヴァニタス画が挙げられる。その寓意の前提を無化したうえで、ヴァニタス画を再演しようとするのが、タケシ・ムラタの平面作品だろう。ペンローズの三角形と呼ばれる不可能図形が登場する《Bullseye》、赤い風船が上昇する瞬間とチェス盤が傾けられ卓上に並べられた林檎のように駒が流れ落ちていく瞬間が重ねられる《Deep Blue》。

タケシ・ムラタの展示風景

またトロンプルイユ的な演出がさらに強調されるのは、その種明かしとも映る、ある球体においてである。暗室の中に作られた通路の途中にある《Melter 3-D》は光が明滅し始めると、それまで見えていた球体の動きの向きが変わったように見え、点滅が終わるとまた元に戻る、目の錯覚を利用した単純な作品である。

タケシ・ムラタの展示風景

ここで明確になることはムラタが企図しているのは、見る者の没入を目的とするイリュージョンではないということだ。《Melter 3-D》による明滅が作り出す錯視効果がそうであるように明滅の終わりとともに、それが没入から醒めることを意識させる。この醒めがはっきりと示されることで、ムラタの作品の向かう先はイリュージョンではなく、トリックとしての錯視であると理解できるのだ。

暗室を出ると、小さいディスプレイでショートムービー《I, Popeye》が上映されている。ポパイを模したキャラクターの原作とは異なり、自死するまでをコミカルに描いたアニメーションである。ポパイを主題とした作品のあるジェフ・クーンズへのオマージュだろうか。ポパイは力強いアメリカ的なもののアイコンであり、戦時中には日本を駆逐するための反日プロパガンダにも利用された闘争的な暴力の象徴でもある。そのポパイが、本作ではいとも簡単に?自殺してしまう。映像はリピート再生されることで、幾重にもインスタントな死が再演されてゆく。それも本展のなかでもっとも小さいディスプレイで、ひとから見下ろさせる場所で。この扱いはポパイが生と死という地平にたっておらず、今度はそれにもかかわらず、死んでいる(=死ぬことができない)ことを私たちに印象づけるだろう。

タケシ・ムラタ Still from Larry Loop #7  2022 デジタル・ヴィデオ ループ再生 Collaboration with Christopher Rutledge
タケシ・ムラタの展示風景

この小さな映像との対比で、本展でもっとも大きい作品であり、ムラタ自身の自画像とも説明されるバスケットボールのユニフォームを着た犬のキャラクター、ラリー4部作《Larry Cove》《Larry Dunks》《Air Larry》《Larry Loops》は見ることができる。バスケットボール選手への文化的な視点のあり方についてはクーンズの《Three Ball Total Equilibrium》や、犬が姿を変えるゴジラらしきモンスターには飼い慣らされた日本の特撮とかわいい文化へのオマージュが感じ取れる。ほかにも様々な文化的コードが読み取れるだろうが、それらをまとったラリーがここでも生と死の地平の底が抜けてしまった空間を、今度は生きている(=生きることができない)ことが重要である。

タケシ・ムラタ Larry Cove 2021 デジタル・ヴィデオ ループ再生 Sound by Black Dice

おそらくそれゆえに、ラリーの映像は私たちの集中を集め続ける。その理由は実在しないラリーの表現が真新しいものだから、ではない。むしろ逆に、私たちが今日そうしたリアリティによく慣れ親しんでいるからだ。生と死なしの生と死というリアリティに対して、ある具体的なフォームが与えられているために、ラリーの挙動を見続けられてしまう。既知だからこそ、心地よい。ムラタの作品を見る時の心地よさは、こうした表現が一種の古典になったことの現れだと言ってよいだろう。

展示風景

錯視的構造が導く「別の世界」

「訪問者」の展覧会タイトルのもと、日本にルーツを持ち、現在はイギリス、アメリカを活動拠点とするという以上の共通項を探ることにどれほど意味があるかは定かではないが、ヒダカとムラタは既知のイメージを利用しながら、錯視的な構造を巧みに織り込むことで、別の世界なり、リアリティを見るものに「受け取り可能な」かたちで提供していたと思う。

錯視、あるいはだまし絵といえば、もはや現代美術でさしたる価値を与えられておらず、エンターテインメントでも扱われることの少ないものかもしれない。けれど、飛躍のように聞こえるだろうが、それ以外に選択肢がないと言われる制度やシステムのなかにありながら、別の場所へのアクセスする方法を探ることが、現代美術のひとつの役割だとすれば(私はそうだと思っている)、新しい錯視作成法について思考することは決して、無駄な作業ではないはずだ。

訪問者とは既知のなかで、未知を見せる存在のことであろう。

*1──完全な入れ子の場合には、絵の中の絵の中の絵の中の絵……といったように無限後退へと向かっていくはずだが、本展では《Siparium》にはない外部、すなわち鬱蒼とした竹林もまた準備されていた。深い暗闇をもっとも奥にある地として、その手前に入れ子となった2つの図として《Siparium》的空間が仮設されている。ヒダカは、入れ子による、無限後退を望んでいるわけではないことは指摘しておくべきだろう。

南島興

みなみしま・こう 横浜美術館学芸員。1994年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。全国の常設展・コレクション展をレビューするプロジェクト「これぽーと」主催。「アート・ジャーナリズムの夜」毎月配信。『アートコレクターズ』にてレビュー連載中。旅行誌を擬態する批評誌「LOCUST」編集部。