今年のモスクワの冬は、100年に一度の暖冬だそうである。とはいえ、12月現在で日中気温は氷点下を下回り、各建物からは湯気が立ち上り、いつもの冬と何ら変わるところはない。だが、急激な経済成長に伴い、モスクワの生活形態は変化している。特に日々の物価上昇というかたちで、我々外国人にも目に見えて認識できる。その中でモスクワのアートシーンは確実にビジネスとして成り立っており、情報媒体も増え、アートイベントが週ごとに開催されている。そのことが気温の上昇に寄与しているかどうか関連性はないだろうが、高まりが熱気に変わりつつあると言えよう。だが、十月革命のようにその熱気がいつまで続くのか、皆目見当がつかない。
モスクワのコンテンポラリーアートシーンは、おおよそ次の言葉に集約されるといってよい。
すなわち「西欧を向くべきか独自の道を模索するべきか」。
この言葉はやや古めかしく、もはやステレオタイプに響くかもしれない。だが、ことロシアに関して当てはめるのであれば、宿命としか言いようのない問いである。17世紀のピョートル大帝の西欧化政策とその反動、18世紀から19世紀にかけては哲学界における西欧派とスラヴ派の論争。20世紀のフルシチョフ政権下では「鉄のカーテン」に閉ざされた東欧での覇権を確立する一方で、「アメリカに追いつけ追い越せ」とする西欧指向の舵取り。そして今日では、西欧諸国からすると目を覆うべく、メディアを支配した政権による独自の「資本主義」。
(Suprematist composition eight red rectangles after Malevitch, Pictures of pigment)
10月から11月と期間を限定すると、個人コレクターやギャラリーもしくは美術館によるソッツ・アートの回顧展とロシア・アヴァンギャルドに関する企画展が同時多発的に開催されていた。一方で、日本で知ることのできるコンテンポラリーアーティストの個展もしくはグループ展は、報告者の知る限り、今回紹介する〈Vik Muniz展〉しか行われていない。今年初旬に開催されたモスクワ・ヴィエンナーレによって我々の知るコンテンポラリーアートとは異なる流れを形成しようとする勢いが未だ冷めやらない。これが報告者の第一印象である。
このギャラリーはモスクワの中心部「赤の広場」のすぐ脇にあり、政権との繋がりを匂わせそうだが、ロシアのアーティストを扱うことはあまりなく、むしろ西欧でも知られたアーティストをロシアに紹介するといった趣がある。また「西欧コンテンポラリーアートシーンを反映したモスクワ唯一のギャラリー」との謳い文句通り、アートオークションでも確実に売れるであろう作品を揃えている。
(The Apotheosis of War after Vereshagin, Pictures of pigment)
(Pro eto after Rodchenko, Gordian puzzles)
結局のところ、作品を判定する基準は鑑賞者自らで構築しなければならないということが生じる。この点はギャラリーがかつて標榜した「自分の美術館を創ろう!」という流れを踏襲し、ロシア人にも馴染みのある「名作」を下敷きにした作品を展示することでロシア人鑑賞者が固持する美の基準を揺さぶっているかのようだ。この点を勘案すると、西欧寄りとはいえこの方向性をロシアという文脈に落とし込もうとする試みとして、<Vik Muniz展>を捉えることができよう。
その揺さぶりによって目にする状況は、「花も紅葉もなかりけり」と詠われる郷愁感であろうか。その郷愁感の裏返しとして空虚感があるわけだが、その間隙を埋めるのが今日のモスクワのアートシーンの「揺れ」ではなかろうか。この間隙が如何に埋まっていくか、他ギャラリーの動向とキュレーターの動向を今後報告することによって明らかにしていこう。
-写真はすべてGallery Tatintsianの許可を得て著者が撮影。