1895年に発足し、以来世界で最も長く続いている現代美術の祭典「ヴェネチア・ビエンナーレ」。第60回目が、11月24日まで開催中だ。
今回の国際展のテーマは「どこにでもいる外国人(Foreigners Everywhere)」。これはフランス・パリ出身、イタリア・パレルモを拠点に活動するコレクティヴ、クレール・フォンテーヌ(Claire Fontaine)の作品に由来しており、その作品はまた、2000年代前半にレイシズムやゼノフォビア(外国人嫌悪)と戦ったトリノのコレクティヴから採用されているという。
昨年は女性や、男女という二元論的ジェンダーを選択しない参加者の割合の高さが注目を集めたが、今年は「先住民(indigenous)」が存在感を放った。というのも、ナショナル・パビリオンと国際展どちらの金獅子賞においても、先住民族にルーツを持ち、それらを作品に織り込んだアーティストが受賞しているからだ。
また、ナショナル・パビリオンにおいてアフリカからの参加国が着実に増加していることも注目すべきだろう。2017年と19年は7ヶ国、22年は9ヶ国に対して、今年は過去最大11ヶ国が参加。ベナンとタンザニアが初出展している。
総合ディレクターはアドリアーノ・ペドロサ(Adriano Pedrosa)。サンパウロ美術館のディレクターを務めるペドロサは、人種やジェンダー、セクシュアリティをテーマに据えた展覧会を数多く企画してきた。サンパウロ・ビエンナーレ(ブラジル、1998)、サンフアン・トリエンナーレ(プエル・トリコ、2009)、上海ビエンナーレ(中国、2012)など、国際展でもディレクター/キュレーターとして活躍している。本ビエンナーレの総合ディレクターとしては、はじめてのラテンアメリカ系の人物だ。座長のジュリア・ブライアン・ウィルソンを筆頭に、審査陣にもフェミニズムやLGBTQ+、コロニアリズム、アフリカンアメリカン・スタディーズ、トランスナショナリズムを専門とする面々が名を連ねている。
以下では受賞作を中心に、アーティストや作品について紹介していこう。
ナショナル・パビリオンにおける金獅子賞を受賞したのは、アーチー・ムーア(Archie Moore)の個展を開催したオーストラリア。ヴェネチア・ビエンナーレにおける同国の金獅子賞獲得は初めてだ。受賞も納得の強度の高い作品だったため、詳細にふれておこう。
ムーアは、アボリジナルのカミラロイ族とビガンブル族にルーツを持つアーティスト。本展で公開したのは、《kith and kin》(2024)と題されたインスタレーション作品。一面黒の壁面には、白いチョークで無数の名前が書かれ、黒板の下部ではそれらが線で結ばれている。タイトルの意味する「友人と親族=親類縁者」の通り、これらはムーアの家系図のようだ。
どれほど過去までさかのぼったのか、展示物を見るだけでは定かではないが、おそらく数千年は下らないだろう(もっとも、展示キャプションによると6万5千年以上におよぶと記載されている)。その名前は壁面のみならず、天井にまで侵食している。
では、ムーアはどのようにしてこれほど大規模に自身の系譜をさかのぼったのか。その方法とエビデンスは、展示空間中央にある、書類の山に見ることができる。書類は、国家に拘束されているあいだに亡くなった、先住民族たちの検死に関するものだ。書類に目を向けると、多くのものに故人(deceased)、検視官(coroner)という専門用語が並んでいることが確認できる(なお、当人たちの名前は「故人への敬意から」黒塗りされている)。ただしこの書類の積み上げられたテーブルを囲うように、床には水が張られており、書類には一定の距離までしか近づくことができない。ゆえに肉眼で内容を確認できるのは、せいぜい周縁に配された書類のみだ。
本作は、ムーアが検死書類を手がかりとして自身の家系図を描写し、オーストラリア政府によるアボリジナルへの迫害の歴史を提示している、とひとまずは言うことができる。しかし、この主題以上にその手法が挑戦的と言えよう。前述したように、展示物を見るだけでは、どれだけの数の人々が理不尽な死に追いやられ、あるいは数千年、数万年前のカミラロイ族とビガンブル族にどんな名前の人物がいるのか、知ることはできない。
というのも家系図においても書類群においても、その圧倒的な、スケールが推定できないほどの数によって、多くの文字が鑑賞者が読むことのできない距離に置かれているからだ。歴史とはつねに特定の書き手によって規定されるために、根本的には不可視である。この純粋な、歴史のネガティブな性質を、見事なリテラルさをもって、インスタレーションとして提示している。
審査員によって1組のみに与えられるナショナル・パビリオンの特別賞を受賞したのは、コソボ共和国。同国のパビリオンでは、ドルンティナ・カストラティ(Doruntina Kastrati)による《The Echoing Silences of Metaland Skin》(2024)が展示されている。本作は、女性の労働とその環境の不平等を主題としたもの。トルコの菓子工場で働く従業員は、立ったままで仕事をすることを強いられているため下半身への負担が大きく、3分の1近い人々が膝関節置換手術を受けているという。
立体作品によって構成される本インスタレーションは、こうした労働者階級の女性の被る不平等を描き出す。床に配されたオブジェは、トルコ料理の材料として使われるクルミの殻を模した金属彫刻。コソボ第二の都市であり、作家の故郷でもあるプリズレンにある、菓子工場で働く12人の女性労働者の体験に着想を得ていることにも注目したい。
国際展の金獅子賞を受賞したのは、マタオ・コレクティヴ(Mataaho Collective)。同コレクティヴはニュージーランドを拠点に活動。メンバーは、先住民族・マオリにルーツを持つ女性アーティストたちによって構成されている。彼女たちの作品が出展されるのは、アルセナール会場の冒頭。作品タイトルの「Takapau」とは、マオリ族の伝統において出産の際に使用される、細かく編み込まれたマットを指す。加えて、このマットには誕生の瞬間という神秘的な意味合いも含まれているという。本作はこうした伝統をふまえた、マオリ族の織物を再解釈したインスタレーションだ。
有望な若手へと送られる国際展の銀獅子賞は、ナイジェリア出身、ロンドンを拠点に活動するカリマー・アシャドゥ(Karimah Ashadu)が獲得。そのメインの作品となる《Machine Boys》(2024)は、ナイジェリアで「オカダ」というバイクに乗る男性たちをとらえた映像作品。オカダはもともとバイクタクシーとして利用されていたが、他方で特定の男性たちには、日々の仕事から逃避し自身の力強さを誇示するために——いわば日本の暴走族のように——乗車されていた。映像では、バイカーたちの置かれた不安定な労働環境や、それによって半ば自暴自棄になっているとも受け取れる発言、ある種の男らしさをカメラに見せつける姿を見ることができる。
オカダによる事故が多発していることを受けて、2022年ラゴスの中心地では、オカダの運転が禁止された(*1)。それなのになぜ、彼らはオカダに乗り続けるのか。映像での男たちの語りや振る舞いを通して、彼らがひた隠そうとする脆弱性を垣間見ることができるだろう。
加えて審査員団は、サミア・ハラビー(Samia Halaby)とラ・チョーラ・ポブレーテ(La Chola Poblete)の2名に特別賞を授与。ハラビーはパレスチナ出身、ニューヨーク在住の画家であり、イェール美術学校などで教鞭をとっていた教育者でもある。出展されたのは、《Black is Beautiful》(1969)。画面を占める十字架は、とくに左右の辺に目を向けると、色彩の錯覚によってまるで平面のカンヴァスを超え出て、丸みを帯びているように見える。色とかたちはいかに関係するのか。抽象絵画におけるこの重要な命題に対して、ハラビーは本作でその方法と視覚的効果を探求している。
とはいえ、なぜ50年以上前に制作された作品がいまヴェネチアで展示され、特別賞を得たのか。もちろん、それはハラビーがパレスチナにルーツを持つという事実と切り離すことができない。審査員団は受賞の理由として「彼女の抽象作品の政治に対する取り組みは、パレスチナの人々の苦しみへの揺るぎない注目へと結びつけられてきた」(*2)と評する。合わせて昨年から今年にかけて、ハラビーの個展が多数企画・開催されていることも背景として押さえておくべきだろう。ひとつは、昨年から今年頭にかけてアラブ首長国連邦で開催された「Lasting Impressions: Samia Halaby」。もうひとつはアメリカ・インディアナ大学の美術館で開催予定だった「Centers of Energy」。後者は「安全上の懸念」を理由に美術館が中止を決定している(*3)。
もうひとりの特別賞受賞者、ポブレーテはアルゼンチン出身。絵画やオブジェ、写真から、パフォーマンス、ビデオアートまで、広くメディアを横断した制作を展開してきた。本展では絵画作品を出展。作家は処女や聖母を継続的なモチーフとして扱っており、出展作品にもその要素が見てとれる。《Purple María》(2023)においてはこれらに留まらず、なんの脈絡もないように見える多様なモチーフが、画面に氾濫している点を特筆すべきだろう。だがそれらは、南米の先住民に伝わる知識、あるいは作家のクィアなアイデンティティに基づいているという。
受賞展示以外にも、パラッツォ・コンタリーニ・ポリニャックにて開催されている関連展「From Ukraine: Dare to Dream」にもふれておこう。カテリーナ・アリニク(Kateryna Aliinyk)、アローラ&カルザディーラ(Allora & Calzadilla)、ジャンナ・カディロワ(Zhanna Kadyrova)、ニキータ・カダン(Nikita Kadan)ら22組のアーティストやコレクティヴが出展している。
とくに、ヤレマ・マラシチュク(Yarema Malashchuk)とロマン・キメイ(Roman Khimei)による映像作品《Additional Scene》(2024)が印象深かった。映像はある男の日常のシーンの合間に、数分おきに彼の戦地でのすがたが挿入されるという形式。構成はいたってシンプルで、しかも戦場の演出は過剰なほど劇的ではあるのだが、演者や監督がみな、ウクライナ侵攻開始以降軍に所属しているという事実だけでその見え方は大きく変わる。なぜなら役者/監督は日常のシーンのみならず、戦地のシーンもまた、自身の体験をもとに演じる/演出することが可能だからだ。役者や監督、スタッフたちにとって、果たしてどちらのシーンが「Additional」なものなのか、彼らは市民なのか兵士なのか、そのあわいを想像せずにはいられない作品だ。
*毛利悠子が出展した日本館の展示はこちらをチェック
受賞作をはじめ、総じて読解する余地が十分にある作品が目立った。だが、足を止め、じっくりと眺めたくなる「とっかかり」のある作品はそれほど多くないという印象を受けたことも強調しておきたい。展覧会、とくにビエンナーレほど大規模で多様な作品が揃う場所というのは、来場者にとっては、知るはずのなかった作品と出会う面白さこそ大切なはずだ。
総合ディレクターのアドリアーノ・ペドロサは、国際展のテーマ「どこにでもいる外国人(Foreigners Everywhere)」についてふたつの意味を提示した。第一に「どこへいこうが、外国人(Foreigner)と出会うこと」「どこにいても、心の奥底では自身もまた異邦人(Foreigner)であること」(*4)。
先住民族としてのルーツを題材としたアーティストが金獅子賞を受賞したことが象徴するように、差別や迫害の歴史を再検証する作品を目にする機会は、ここ数年で明らかに増えてきた。第一の意味での「外国人」への注目は高まりつつある。
では、第二の「異邦人」という面はどうだろうか。私たち個々人が作品と出会うという状況に限って言えば、むしろ重要なのはこちらではないだろうか。なぜならアートは、私たちそれぞれのなかにある異質で、ときに阻害された感性を浮き彫りにするのだから。現代美術において、コンセプトやバックグラウンドは作品を読解し、理解するために欠かせない要素ではある。しかし同時に、個々の作品にあるいはビエンナーレ全体の仕掛けとして、作品を見る/知る以前に、そのきっかけを作り出すような「とっかかり」が必要に思われる。