本書を手にとって、すぐに気付くことは、その「鈍器」のように重厚なボリューム感である。著者の卯城は、一般的な書物の2〜3冊分に相当する分量を、一気に書き下ろしたという。その類い希な一点突破力には驚きを禁じえないが、これだけ濃密な内容が含まれていながらも、十分にリーズナブルな価格に抑えられている。要するに、卯城竜太著『活動芸術論』は、きわめて「おトク」な本である。
文化研究・現代美術史を専門とする研究者の評者が、このような「セールス・トーク」めいた記述から書評を始めることに、若干(結構?)「引いてしまう」読者も多いかもしれない。本書の美術史的・学術的な意義は、これからしっかりと論じていきたいが、冒頭の「フライング」は、何よりもこの本により多くの読者を獲得してもらいたいという評者の切望ゆえであり、ご寛恕願いたい。その理由は、『活動芸術論』が「完全無欠の」著作であるからではなく、むしろ、たくさんの人から批判的吟味にさらされることで、本書で卯城が提示した、様々な論点——それらの論点は、いずれも、日本の、そしてグローバルな現代アートの最前線に位置する喫緊の課題と深く関わる——が実りあるものとして開花するということにある。そして、「たくさんの人」にはChim↑Pom(卯城)の熱心な「支持者」も、反対に手厳しい「批判者」も含まれているだろうし、むしろ、含まれていてほしいと評者は願う。
「本書は芸術書である」(p.1)という宣言で幕を開ける『活動芸術論』は、しかし、「芸術書」という括り方ではとうてい収まりきらないほど、多岐にわたるトピックやテーマを含む。本書は、「はじめに」「年表」「参考文献」「謝辞」「索引」を除き、全14章から構成される。読者の数だけ読み方を許容する開かれた書物だが、この書評では、それらを3つのグループに分け、それぞれの価値や可能性を、文化研究・美術史の視座から考察したい。
その前に、本書評の読者の大部分には蛇足だとは知りつつ、著者の卯城竜太について少々。卯城は、1977年東京都生まれ。2005年に結成された、Chim↑Pom(2022年にChim↑Pom from Smappa!Groupに改名。本書評ではChim↑Pomと表記)のメンバーで、2018年までリーダーを務めた。卯城に加え、エリイ、林靖高、水野俊紀、岡田将孝、稲岡求の6名からなるChim↑Pomは、美術史・芸術論的な用語を使えば、その活動が「ソーシャリー・エンゲージド・アート」や「アート・アクティビズム」——ごく簡略化して言えば、芸術の社会・政治的実践——と理解されることが多いアーティスト・コレクティヴである。
Chim↑Pomは、「原爆」(第5章《ヒロシマの空をピカッとさせる》)、「原発」(第6章「REAL TIMES」)、「震災」(第8章「Don’t Follow the Wind」)など、現代日本社会における論争的イシューにアートを通じて果敢にアプローチし、それゆえ、狭義の「美術」業界をこえた広い領域で、賛否両論をはらんだ多彩な意見を喚起してきた。上記のトピックは業界内でタブー視されがちな話題であり、その意味で、このコレクティヴは日本アート界の「希少種」と言える。この点に、日本現代美術史における、Chim↑Pomの重要性——少なくとも、その一端——を見いだすことができる。そして、結成から18年目を迎え、ミッド・キャリアにさしかかったChim↑Pomの行く末を、日本のみならず、いまや、アジア、世界中の美術関係者とオーディエンスが注目している。
こうした脈絡を踏まえ、先述の通り、本書の内容を3つにグループ化してみる。そして、それぞれのグループに含まれる各章から取り出すことのできる、『活動芸術論』の複数的意義を示す。
最初のグループは、第1章、第2章、第4章、第5章、第6章、第8章、第9章、第10章、第11章、第12章の計10章を包含する、最大のグループである。これらの各章では、必ずしも時系列順ではないが、Chim↑Pomの結成から現在まで、メンバー6名が実現してきた作品やプロジェクトが、ときにリアリズム絵画のごとく詳細に、ときに表現主義の抽象画のような勢いある筆致で叙述される。それらの叙述は、あくまで卯城の視点ではあるが、他メンバーとの衝突や折衝の過程も記され、資料的価値も担保されている。物議をかもすChim↑Pomの芸術実践は、その論争的性格ゆえ、誤解を招く表現や端的な事実誤認、あるいは感情的要因に基づく「尾ひれ」とセットで拡散されることも多い。評者は、Chim↑Pom(卯城)の活動に敬意を抱いているが、当然ながら、その「盲目的信奉者」ではないし、いつも批評的まなざしを彼・彼女たちの実践に向けていたいと考えている。真の意味でChim↑Pomの「批判者」たりえるには、その作品やプロジェクトに関して、不正確な情報に基づく臆見を排し、そのうえで「忖度」なしの批判的記述をめざすことが不可欠である。その意味で、『活動芸術論』は、Chim↑Pomについて(現在、あるいは将来的に)思考し、論述する、すべての研究者や批評家にとって必携の一次資料となる。
次のグループは、第3章、第7章、第13章の3つの章から成立する。これらの章を味読することで、読者は、Chim↑Pomが、そして卯城が、自らの活動や実践を、どのような文脈に位置づけているか、言い換えれば、彼・彼女たち自身のセルフ・アイデンティフィケーションを知ることができる。たとえば、第3章「アクションの歴史」では、日本やアメリカの戦後前衛芸術の流れをさらいながら、身体や肉体を媒体とする行為の可能性、さらには、「Qアノン」や「9・11」の例を引きながら、その裏面として、「アクションすること」の両義性が論じられる。Chim↑Pomは、つねに、その諸刃の剣の「可能性」の側に賭け続けてきた集団である。第7章「芸術実行犯」では、Chim↑Pomもそのカテゴリーのなかに(ときに乱雑な仕方で)放りこまれる傾向のある、「アート・アクティビズム」の先駆者や同時代者への言及がある。そして、Chim↑Pomのアクションが、「法」や「公共」といった概念を、どのように再構成しようとしてきたかが具体例を伴って紹介される。あるいは、第13章「コレクティヴィズム」。この章には、「特に何か一致した趣味があって結成された訳ではない」(p.7)、(メンバーの岡田の言葉を借りれば)「カスみたいな俺たち」(p.528)が、バラバラな個のままでいることを許されながら、それでもなお、いびつな輪郭のまとまりとして力を発揮してきた、その「秘訣」が語られていると評者は解する。
最後のグループに話を移そう。といっても、このグループに含まれるのは、ただ1つの章(第14章「ポスト資本主義とプラネタリー」)のみである。この章には、Chim↑Pomの「これから」が予示的に語られている。気候変動や疫病の定期的蔓延などを包摂するグローバルな「エコロジー危機」、「フェイク・ニュース」の跋扈(先述した「Qアノン」は、その直接的結果である)などに代表される情報をめぐるエコノミーのドラスティックな変化……。『活動芸術論』のトリを飾る本章では、こうした激動の時期にあたる現在(歴史を振り返れば、人類はいつも「激動の時期」の渦中にいた気もするが、それは措く)、その不確定性や予測不可能性を十分に認識しつつも、Chim↑Pomが、そして卯城が思い描く未来のビジョンを垣間見ることができる。
ちなみに、ここで、きわめて個人的な見解を挿入すると、『現代美術史——欧米、日本、トランスナショナル』(2019年、中央公論新社)と『ポスト人新世の芸術』(2022年、美術出版社)を刊行し、研究者として次なる方向性を模索するうえで、評者が卯城と関心を共有するのは、まさにこの最後のグループ(章)で語られている事象であると感じた。資本主義がはらむ、様々な問題が近年さらに可視的になり、現在、それを超克する「プラネタリー(惑星的)な」視座が希求されていることは明らかだ。ここで、卯城は、アーティスト・松田修との共著『公の時代』(2019年、朝日出版社)で、あるいは本書・第7章で練り上げてきた「公」の概念を地球規模にまで拡張しようとしている。拡張された「公」の概念におけるアートのあり方——評者が見いだした、『活動芸術論』における最大のテーマ、そして私自身と本書との接点を言語化すると、このように表現することができるかもしれない。
当然、ここで示したグループ分けは、評者の主観的判断(説明の通り、根拠に基づくが)のなせるわざであり、ほかに無数の可能な読み解き方が残されている。断言しよう。この大著は、本当の意味で、「まだ誰にも解読されていない」。ゆえに、『活動芸術論』は、Chim↑Pomの「支持者」にとっても、「批判者」にとっても、すなわち、日本美術史において類例を探すことの難しい、この稀有なアーティスト・コレクティヴになんらかの関心がある、あらゆる人にとって必読の書である。
山本浩貴
山本浩貴