ロシアによるウクライナ侵攻から1ヶ月余り。住宅地や民間施設への攻撃が続き、連日多数の人々が亡くなり、国内外への避難民は1000万人を超え、文化財や美術館も危機にさらされている。ウクライナのアーティストは、こうした状況で、いま、どのような日々を送り、何を思い、何を必要としているのか。首都キーウ(キエフ)で活動し、現在はそれぞれ国外と国内で避難生活を送る2人のアーティストを取り上げ、これまでの創作活動をふり返りつつ、現在の様子を伝えたい。
ジャンナ・カディロワは、1981年ブロヴァリ(ウクライナ)生まれ。キーウを拠点に活動を続けてきた。イタリア、ドイツ、モナコ、ブラジルなど国内外で個展を開催すると同時に、2013年、15年、19年にヴェネチア・ビエンナーレに、19年にリュブリャナ・グラフィック・ビエンナーレに参加するなど、多数の芸術祭やグループ展に関わり、12年にはカジミール・マレーヴィチ賞(ウクライナ)、セルゲイ・クリョーヒン賞(ロシア)を受賞。作品は、国立トレチャコフ美術館(ロシア)、フォールリンデン美術館(オランダ)、ガレージ現代美術館 (ロシア)、ミステツキー・アーセナル(ウクライナ)、ワルシャワ現代美術館(ポーランド)などに収蔵されている。
シェフチェンコ記念国立美術高等学校(キーウ)の彫刻科で学び、父が彫刻家、姉がアーティストという家庭環境で育ったカディロワは、2002年前後から作品を発表し始めたが、当初はアーティストになるという強い意識はなかったという。しかし、2004年のオレンジ革命(ウクライナの大統領選で、与党代表で親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチと、野党代表のヴィクトル・ユシチェンコが争い、ヤヌコーヴィチが当選した直後に、選挙の不正を訴える野党を中心に抗議運動が行われ、再選挙の結果、ユシチェンコが当選した)が、アーティストとしての活動を続けていく直接的な契機となった。オレンジ革命とそれに続く政治の混乱期に、キーウの現代美術センター(旧:ソロス・センター)が1年間にわたって20代の無名のアーティストたちを支援し、アトリエやアーティストインレジデンスの空間、材料費などを提供。カディロワは、6名のアーティストから成る「R.E.Pグループ(革命的実験空間)」の一員として、この活動に参加した。
カディロワの主要なテーマのひとつは、ソビエト連邦(ソ連)という歴史への対峙である。
《表彰板》(2003)は、勤勉な労働者の肖像写真を掲示するというソ連時代の「表彰板」の伝統を参照した作品である。作家自身が、ソ連期の典型的な労働者像(司書、秘書、簿記係など)を演じることで、ソ連のイデオロギーを風刺すると同時に、女性のみならず男性をも自由に演じることで、ジェンダーの古い規範に揺らぎを与えようとする。
いっぽう、《モニュメント的プロパガンダ》(2013)では、(キーウでもかつて数多く制作されて公共空間を飾った)ソ連時代のイデオロギー的なモザイク画の典型的なスタイルを模倣しつつ、ソ連崩壊後に大きく変化した生活様式や資本主義的な広告のイメージなどを反映した現代的な人物像を表現している。
《標識》(2010-11)は、様々な指示や禁止を与えて人間の行動を管理しようとする道路標識に、異次元への入り口のような切れ目を入れることで、新たな意味を与える連作である。たとえば、この図版の作品では、車に轢かれそうな人間を描いた標識(絵の下の単語はポーランド語で「事故」の意)を用いつつ、そこに扉の形の切り込みを入れることで、危機一髪の状態にある人間に救いが訪れるという新しい物語が生まれている。あるいはそれは、死の国への扉なのか。
ソ連時代にモスクワで非公認アーティストとして活動したロシア人アーティスト、イワン・チュイコフ(1935-2020)も、道路標識をパロディ化した連作を1970年代を中心に制作し、ソ連社会における禁止や管理の蔓延について問い直そうとした。その問題意識はカディロワにも共通するものだが、カディロワの場合、ソ連時代だけでなく現代の監視社会への懸念もあることは、次の作品からも明確である。
《監視カメラ》(2015)は、カディロワがパリで実施したプロジェクトであり、監視カメラにセメント製のオブジェを装着し、街中に潜む監視カメラの存在を際立たせることによって、現代の都市もまた監視社会であることを想起させる。この作品は、カディロワがヴェネツィア、キーウなどでも展開した連作《見えないものの形》(2010-15)の一部でもあり、美術の力によって見えないものを見えるようにするという、表現の実験でもあった。
セメント、アスファルト、タイルなどを使った鋭角的な表現、および、遊びやユーモアといった要素を好むカディロワにとって、日本の折り紙は、その直線的な形状においても、遊びであるという点においても、心惹かれる主題だった。2018年には、折り紙の鶴を模したパブリック・アートをウクライナ西部に、2019年にはドネツク州の町ポクロフスクの公園に《折り紙の鹿》を設置している。
興味深いのは、《折り紙の鹿》の台座の形と、彫刻の形や角度が、サンクト・ペテルブルク(ロシア)にある、著名な彫刻《青銅の騎士》(エティエンヌ・モーリス・ファルコネ、1782)に酷似していることだ。《青銅の騎士》は、ロシアの文学者アレクサンドル・プーシキンの同名の叙事詩にちなみ、17〜18世紀のロシアの皇帝であるピョートル1世を模した彫刻だが、カディロワは、馬に跨った勇壮なロシアの皇帝像を折り紙の鹿に変えてしまうことで、あるいは「支配者」の消失を喜ぶ鹿(鹿は「生命、再生」の象徴である)を主人公に据えることで、ロシアの帝国主義を軽やかに揶揄しているのかもしれない。ピョートル1世は、17〜18世紀にドニプロ・ウクライナ(現在のキーウ州などを含むドニプロ川中流に広がるウクライナの歴史的地名)に存在したコサックの国家に対して支配を強めた皇帝でもあった。
いっぽう《無題》(2014)は、ロシアのクリミア侵攻を受けて、国の一部が失われていく過程を表現したオブジェであり、よりダイレクトに政治的主題を扱っている。
カディロワは、これまで様々な国や地域のアートプロジェクトに参加し、その土地の歴史や風土と結びついた作品を展開してきた。イタリア、トスカーナ州のサンタ・クローチェ・スッラルノを訪れたカディロワは、トスカーナが何世紀にもわたる革製品の産地であり、動物を衣服の材料にしてきたという歴史を逆手にとって、今度は、動物のための衣服を考案するというコンセプトの連作《アニマリエ》(2020)(「アニマリエ」は、動物をリアルに描写した19世紀の芸術家たちを指す)を制作した。
千葉県市原市で2021年に開催された「房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス2020+」では、市原を走る小湊鉄道の列車と、作家の故郷キーウのプシャ・ヴォヂツャ地区の市電が同じ色(上部がクリーム色、下部が朱色)であり、ノスタルジーを感じさせる車両の雰囲気も似ていることから、《Ichihara-Pushcha-Vodytsia》(市原=プシャ・ヴォヂツャ)というプロジェクトを考案している。観客が小湊鉄道の車両に入ると、薄暗い内部では、プシャ・ヴォヂツャ地区を走る市電から見える車窓の風景が投影されている。約8200kmの距離を超えて2つの地域が奇跡のように結びつく瞬間だった。
また、ウクライナ、キューバ、イタリア、スロヴァキアなどで、2014年から20年にかけて、現地のタイルを用いて作った洋服のオブジェをその場所に展示し、場所の歴史を再考するサイトスペシフィックアート《Second Hand》も展開している。
果物、野菜などの食物も、カディロワの重要な主題である。
2019年にハバナで制作した《カクテルの許可》は、カリブのエキゾチックな果物を思わせるオブジェを通じて、社会主義体制、豊かな自然、資本主義に対する人々の憧れなどがカクテルのように混交するキューバの現状を表現したものだという。
キーウ、モンテカルロ、マイアミビーチ、ヴェネツィア・ビエンナーレなどで発表した《マーケット》(2017-20)は、タイルやセメントを使って果物、サーモン、ソーセージなどのオブジェを作り、露店を模した空間に並べ、EU圏なら1グラム=1ユーロで、アメリカなら1ドルでという具合に、量り売りをするプロジェクトである。色とりどりの祝祭的なオブジェでありながら、美術の市場の在り方に疑問を投げかけている。
それと同時に、食料を手に入れるという行為は人間の生の根幹であり、なじみの露天での店員と客のやりとりは日常を彩るあたたかな交流のひとつである。2017年のキーウでのプロジェクトの写真には、豊かな食物、露店で明るく笑う店員(作家が演じている)の姿、平和な周囲の環境が写し出されているが、それらは戦争によって失われた光景であり、この写真はいまとなっては、失われた日常をめぐる記憶のようである。
このように様々なプロジェクトを活発に続けてきたカディロワだったが、2022年2月末にロシアのウクライナ侵攻が始まると、戦火を避けて、ほとんどの作品や画材も残したまま、キーウを離れることになった。筆者は戦争勃発直後から彼女と連絡を取り、オンラインでインタビューを重ねてきた。
徴兵年齢(18〜60歳)にあたるため出国が許されない夫を残していくに忍びなかったカディロワは、夫とともに国内にとどまることを選び、夫妻は現在、ウクライナ西部のザカルパッチャ州の山間の村に疎開している。ウクライナ西部には国内の別の地域から約650万人が避難しており、住居を見つけるのはきわめて困難だったが、家を探し始めて5日目に、電気も水もガスもない一軒家が見つかった(いまでは電気は通ったが、暖房と料理には薪を使い、水は井戸から汲んでいる)。
やがてカディロワは、避難先の山村の川で、丸い石を見つけた。その石を見るなりアイデアが沸き起こり、石を切ってパンのオブジェを作ることを思いついたという。作品のタイトルは、《パリャヌィツャ》。「パリャヌィツャ」はウクライナ語で丸パンを指すが、ウクライナ語を母語としない者には発音しにくい単語であるため、2022年2月以降、相手がロシアから潜入した偵察者かどうかを見分けるためにウクライナで使われる指標となった。
パンは幸福、生命、平穏な生活の象徴でもあり、キリスト教圏では(人々を結びつけるために恩寵として分け与えられる)キリストの体をも表す。戦争で平穏な日常を失った作家が、疎開先で最初に作った作品がパンだったことは、日常や平和が再び戻るようにという願いのようでもあり、見る者の胸を詰まらせる。
《パリャヌィツャ》シリーズの売り上げはすべて、戦地に残って耐久生活をしている人々や負傷者のために寄付される。ローマの画廊が《パリャヌィツャ》の輸送や販売を手伝うことを決めたのに加え、「越後妻有 大地の芸術祭 2022」でも、3月にカディロワの招聘を急遽決定し、本作をはじめ、戦争勃発後に制作された作品が、芸術祭の拠点施設である「越後妻有里山現代美術館 MonET」で展示されることになった。ウクライナから遠く離れた妻有の地に、パンの載ったテーブルのある穏やかなウクライナの家庭の食卓を、祈りのように再現したいと思い、現在筆者はコーディネーターとして展示の準備を進めている。「大地の芸術祭」総合ディレクターの北川フラムは、3月24日に開催された芸術祭の企画発表会で、「芸術祭は作品を見せるだけだが、そのことによって共感を示す」と話した。
カディロワは、《パリャヌィツャ》について次のように述べている。
「このプロジェクトは、私が夫で共作者のデニス・ルバンとともに疎開して、いまも暮らしているウクライナ西部のザカルパッチャ州の風土と結びついています。侵攻開始から2週目に、私たち一家は皆、ふるさとのキーウを去らなくてはなりませんでした。私の母、姉妹、叔母は、いま、ドイツで暮らしています。でも私たちはウクライナにとどまり、キーウに戻ることを望んでいます。この村はカルパチア山脈によって守られ、山間には多くの川が流れています。川では、速い水の流れが、石を磨いて丸い形にします。ここには飛行場、基地、武器庫などの軍の施設がないため安全だと私たちは考えています。それでもなお、時々、空襲警報が鳴り響きます」。
「最初の2週間というもの、私は芸術は夢だった、アーティストとしての私の20年はすべて夢にすぎなかった、平和な町や人間の運命を破壊する無慈悲な戦車に比べれば、芸術は無力で儚いのだと感じました。でもいまではそうは思いません」。
「もっとも大切なのは、私たちが働けるということです。プロジェクトに取り組むことは、正常な精神状態を保つのにとても役立っています。自分たちが最善を尽くして何かをしていると感じることができるからです」。
マリヤ・クリコフスカヤは、1988年、ケルチ(クリミア半島)で生まれ、戦争勃発時はキーウで暮らしていた。国立美術建築アカデミー大学院建築科を修了後、ストックホルムのコンストファック美術大学大学院工芸デザイン科で学び、彫刻、メディアアート、パフォーマンス、ドローイングなど様々なジャンルで活動してきた。
クリコフスカヤの主要な主題は、戦争、国家、歴史、そしてジェンダー、身体であり、ひとつのプロジェクトのなかで、それらの主題がしばしば融合して表れる。
《Homo Bulla – 泡沫としての人間》(2012-14)は、ほかの多くのプロジェクトと同様に、作家の身体を象って制作した石鹸の彫刻であり、石鹸の泡のイメージに人間の命の儚さを託しているという。
本作はウクライナ南部ドネツクのイゾリャツィヤ・アート・センターの中庭に展示され、雨風で彫刻が削られていくプロセスも作品の一部として提示されるはずだった。だが、この彫刻は、より直接的な暴力によって破壊されてしまう。2014年4月、新ロシア派の組織が武装蜂起してウクライナのドネツク州を実効支配し、5月にドネツク人民共和国の「独立」を宣言したが、同共和国のメンバーがドネツクのイゾリャツィヤ・アート・センターも占拠し、そこで展示されていたクリコフスカヤの彫刻を狙撃したのである。事件後、作家は故郷を離れることを余儀なくされ、スウェーデンを経てキーウに移住することになった。
2019年には、クリコフスカヤはこの事件を主題に、《撃たれた6つの石鹸の像》(2019)を、ウレク・ヴィンニチェンコとともに、血液、精液、果汁を加えた石鹸を用いて制作。自分の身体を模した彫刻を作家自身が撃ち抜いた。
《傷跡》(2014-19)も、石鹸を用いて作られた、作家自身の手や足の彫刻のシリーズである。女性芸術家の身体を取り上げることで、女性と職業の関係、性別による社会的役割の固定化を主題にしているという。この連作は、前述のドネツクでの事件のすぐ後に制作が開始された。自分の分身のような彫刻が狙撃された直後に、自分の体を象った作品を再び制作することは、作家にとって、心の傷跡を癒し、自分がまだ生きていることを実感する精神療法的な作業でもあったのかもしれない。この連作はひときわ内省的で、静謐さを湛えている。
なお、2014年、クリコフスカヤは、反ロシア的作品、およびクィアアートを制作した理由で、ロシアにおいて禁じられたアーティストのリストに加えられた。
《254. 彫刻》(2014)も、2014年のロシアのウクライナ侵攻を主題としている。「254」は、ロシアに制圧されたクリミアから避難する際に作家に割り当てられた、避難民としての番号である。作家は、ウクライナの国旗の色である青と黄色の布をまとい、銃弾に倒れた人間のポーズを取り、それを象って彫刻の連作を制作した。
ロシアのウクライナ侵攻から5年経ったことを想起するために、2019年2〜5月にキーウのミステツキー・アーセナルで開催された「クリミアの驚くべき歴史」展でも、クリコフスカヤは、自分の体を象った彫刻《星屑》(2019)を発表している。ロシアに占拠された故郷ケルチの地図をイメージした空間に彫刻を設置し、故郷の空の映像を映し出した。
2020年には、ストックホルムのコンストファック美術大学大学院修了展として、「クリミアの女性大統領」展を開催した。絞首台で死んだにもかかわらず祈るような安らかな表情を浮かべた女性の彫刻や、性や身体をテーマとするドローイングなどを展示。このプロジェクトは、2022年のヴェネツィア・ビエンナーレ、ウクライナ・パヴィリオンのための最終選考で、4つのプロジェクトのひとつとしてノミネートされた(最終的には、パヴロ・マコフが選ばれた)。
クリコフスカヤは多数のドローイングも制作している。「クリミアの女性大統領」展では、各地の移民局の用紙を用いて制作した連作《移民局の用紙に描いた水彩》(2020-)を展示したが、類似した連作として、《法医学の書類に描いた水彩》(2020-)がある。友人のウクライナ人アーティストが親ロシア派に対する抵抗運動で逮捕された際に警察で見つけて持ち帰ったソ連時代の法医学の用紙を使用しており、赤を基調に描かれた身体や花は、身体の自由と拘束、生と死のせめぎ合いを表現している。
クリコフスカヤは、数々のアクションやパフォーマンスでも知られる。《Lustration / Ablution №2》(「洗い清める/沐浴」の意味)(2018)は、クリコフスカヤが各地で繰り返し実施してきたパフォーマンスで、作家は、自分自身の体を象った石鹸の彫刻を抱きしめ、愛撫し、洗い上げ、溶かしていく。そこには、女性の身体は搾取の対象ではなく自分自身のものであるという主張と、女性の体の脆さが同時に表現されている。
なお、囚われ搾取される女性の身体のイメージは、自分の身体を象った彫刻を石鹸の石柱の中に沈めたオブジェ《人魚姫》(2017-2018)などにも見られる。
クリコフスカヤは、旺盛な創作を続けながら様々なメディアにも登場し、「ウクライナの状況を文化によって変えたい」という力強いメッセージを、2014年以降、継続的に発し続けてきた。
しかし戦争が始まった翌週の2022年3月5日、彼女は仮の避難先でオンライン・インタビューに答えて、「ご覧の通り、芸術は私たちを戦争から守ることができませんでした。すなわち芸術は無意味です。真に魂、心、感情から生まれた芸術だけが価値を持つのでしょう」と話した。
クリコフスカヤは、生後5ヶ月の娘を連れて、ウクライナの国境付近で極限状態のうちに避難生活を送り、床で眠り、「毎日が最期の日のよう」で、「行くところも帰るところもない」日々を重ねた。
3月15日には、クリコフスカヤは次のように語った。
「私も、(もし生き延びることができれば)もうすぐ国境を超えてEUに行く予定です。ある美術館がアーティストインレジデンスで招聘してくれたからです。私にはヨーロッパに親戚はいませんし、援助を頼めるような人はいません。まさにこうした国際的なコミュニティが、私たちが生き延びるのを助けてくれるのです。それは芸術だけの話ではなく、いかに生き延びるかという話なのです。芸術は、絵や彫刻を通じて何が起こっているかを示すことができるだけではなく、現実の人生において命や家族を救うことができるのです」。
3月19日には、ようやくEUに入り、落ち着ける家はまだないが安全な場所に来たという連絡が届いた。しかし、3月27日、侵攻から1ヶ月余り経って、クリコフスカヤはこう語った。
「私は戦争が始まって以来、まだひとつも作品を作っていません。絵を描く場所も力も時間もありません。今日にでも描き始めたい。水彩画を描き始める場所が欲しい」。
クリコフスカヤもカディロワも、戦争勃発直後は、芸術は儚く無意味だという絶望に囚われたと語った。しかし、いまも母国で戦争が続く過酷な状況のなかで、カディロワは制作を続け、クリコフスカヤも描き始めようとしている。彼女たちの問題は、私たち自身の問題でもある。戦争が始まって以来、ウクライナやロシアから遠く離れた安全な地に住む私たちでさえ、文化、美術、文学、学術が戦争を止められないことに絶望し、日々、無力感を味わってきたのではないか。しかし、ウクライナの作家たちが絶望の後に芸術への希望を取り戻した過程は、私たちに多くのことを語りかけている。
ジャンナ・カディロワ オフィシャルウェブサイト
https://www.kadyrova.com
マリヤ・クリコフスカヤ オフィシャルウェブサイト
https://www.mariakulikovska.net