長谷川祐子が見たUESHIMA MUSEUM:形式と内容、存在論と認識論の分断をつなげるために ―2年間で収集した700点のコレクションと計画から1年で開館した美術館

事業家・投資家の植島幹九郎が2022年2月に設立した現代美術コレクション「UESHIMA MUSEUM COLLECTION」。そのコレクションを展示する美術館が今年6月、渋谷に開館。金沢21世紀美術館館長、東京藝術大学名誉教授の長谷川祐子がオープニング展をレビュー。

会場風景より、松本陽子の展示風景

渋谷に誕生したUESHIMA MUSEUM

植島幹九郎によるUESHIMA COLLECTIONの特徴は、絵画が主体であること、そして抽象絵画がそのなかの多くを占めている点である。2年余で形成されたコレクションは、1990年代から2024年のあいだに制作された作品700点(2024年6月現在)にのぼる。

6月1日に開館した渋谷教育学園の旧ブリテイッシュスクールを改装して作られたUESHIMA MUSEUMの第一回のコレクション展においては、74点が6階のフロアにわたり展示されていた。各階はゆるやかなテーマ設定によって構成された。

UESHIMA MUSEUM

コレクションは蒐集家本人にとって一堂にヴューイングすることは難しい。すなわち植島はデータ上でしか全貌を見ることができないまま、現在進行形で幾分過激な速さで収集を進めているということになる。本展は植島が主となり企画、作品選択、展示構成において神谷幸江、山峰潤也がアドバイザーを務めた。初回展示には、植島コレクションを代表する作品群が選ばれていたといってよい。

スピードと遅延の混合―イメージの裏切りと生成

イメージを裏切ること、イメージを生成することをみせるもっともテンションの高い部屋は2階であった。

全体を通して感じられるのは植島の「状況(current)」と「作品存在」をつなげる直感力の強さと素早さである。隠れた情報、とらえることのできない事象を含み込んだ絵画のもどかしさ、遅滞、曖昧さから発される芳醇な空間を「同時代性」としてとらえる感覚である。

会場風景より、左はゲルハルト・リヒター《untitled (3.11.89)》(1989)

植島が2016年にニューヨークで見たゲルハルト・リヒターの個展は彼が現代アートに強い関心を持つきっかけとなり、《Abstract Sketch》(1991)は、最初に購入した作品として重要な意味をもつ。「フォト・ペインティング」シリーズと関係が深い作品と解説にあるが、抽象化された画面のなかに縦の線と緑の丘がみえる。人の手(作為や意図)を離れたもの、どこまでもわけのわからないものに向かおうとするリヒターの実験精神は、90年代のアブストラクト、スキージ絵画でひとつの頂点をむかえた。

「いわゆる抽象絵画というのは、つねに何かの描写として理解されるものだと思っています。すなわちそれは何かを図示している。(略)ほとんど自動的に、私たちは現実の光景との類似性を探し出しますこのような暗示的なやり方で、絵画(イメージ)はある種の雰囲気やある種のメッセージを伝えているのです」(*)とリヒターはいう。彼はスキージ絵画や濃厚なブラシストロークを画面に置くときも、フォーカスするのはマテリアリティではなく、イメージだと言ってのける。絵画はシャイン(光)であると彼が言うときの「イメージ」。写真に油彩を施した「オーバーペインテッド・フォトグラフ」シリーズの《4. 3. 89》(1989)と抽象画を撮影した、しかもユニークピースである《Untitled(3.11.89)》(1989)が収集展示されていて、この3点があることで、リヒターの「イメージ」の意味が明確になる。イメージの制作を裏切り続けることで、観客各々をメデイアとして彼らに「イメージ」を生成させようとするリヒターの態度は、このコレクションのひとつのカノンになっているといえる。アンドレアス・グルスキーの黒いジップ、シアスター・ゲイツの床板の垂直、などがこれに呼応するように並んでいた。

会場風景より、アンドレアス・グルスキー《Bangkok IX》(2011)
会場風景より、シアスター・ゲイツの展示風景

デジタルによって後退した知覚のリハビリ

すぐれた作品は作家が生きた時代と拮抗するテンションの高さで決定される。

報道で、SNSを通して氾濫する画像にさらされている私たちにとって、イメージからの遠心力は安らぎでもある。抽象絵画(非再現的絵画)はそこで機能している。コレクションのなかの多くの抽象絵画は多層のレイヤーをもち、あらゆる空間に進出していくカタリーナ・グロッセや、ローレン・クインのように過去の美術史上の作品の複数のレファランスをコンピュータの基盤のように埋め込んだものがみられる。それは意味の流用やパステイーシュではなく、私たちの記憶の中に容赦なく入り込み、「認識」のグリッドにはめこまれる間もないままに積層していく、情報:意味の混合体なのである。

オールオーバー的なエンタングルメント(絡まり)の場、それはジャクソン・ポロックの自動記述的なポアリングが生み出す水平性に見られるような、「平台型絵画平面(the flatbed picture plane)」(レオ・スタインバーグ)でありながら奥深い絵画的空間とは異なる、奥行きのない絵画空間である。触知できる物質のように絡まり、ノイズやバグ、グリッチなど、デジタルの世界で展開される視覚的触覚性やこちらの空間に突出してこようとする線やタッチのムーブメントである。

「奥行きのなさ」はベルナール・フリズや岡崎乾二郎のサムネイルのシリーズによって強調されている。平面に物質としてのメディウム(絵具)が置かれているその緊張感と重力で作品が成立する。それらは地下と1階でエピローグとして展示されている。

会場風景

エントロピーとネゲントロピーの往還、ノイズとバイブ

絵画以外のメデイウム作品にも一貫したコンセプトがある。ミカ・タジマの《Negative Entropy (Stripe International Inc., Legal Department, Black and White, Hex)》(2021)は特定の場所で録音した環境音を解析したスペクトログラムの図像をジャガード織りテキスタイルとして編み込んだ作品だ。それは音を物質に変換させる作業であり、池田亮司のデータを視覚化し、不可視で多様な実体性をデータを通して、認識論のレベルに持ち込もうとする作品と連動している。

会場風景より、池田亮司《data.scan [n°1b-9b]》(2011 / 2022)

バイブは蛍光管により振動する光、ジップとしてダン・フレイヴィンのなかにあり、ソシオポリテイカルなメッセージを込めたシアスター・ゲイツのネオン菅との間の共通点と相違点が明確になる。世界が色を失う磁場をつくる。オラファー・エリアソンのダイクロフィルターを用いたカラフルな作品ではなく、知覚を単色に還元する装置としての部屋が選ばれているのは示唆的である。色彩の否定は空間のバイブレーションに私たちの知覚と身体を誘導する。

会場風景より、ダン・フレイヴィン《untitled(for Ad Reinhardt)1b》(1990)
会場風景より、オラファー・エリアソン《Eye see you》(2006)

ここでは形式と内容、そして周囲の空間に浸透するノイズやバイブのパラメーターが少しずつ異なる作品が調合されてコレクション空間を形成している。

現代社会の環境ノイズは心理的なインパクトー誘惑、欲望、怒りといった形で作品に受肉する。パンクで猥雑でパーソナルな視点を装いながら人々のサイキ(精神)に広く浸透していくトレイシー・エミン。ヴァージル・アブローと村上隆のコラボの潔さは時代と接近するぎりぎりの距離で成立している。ストリートアートをエレガンスに押し上げたアブローと病んだキッチュを正統派のフォームに叩き込んだ村上のコラボはその象徴といえる。

会場風景より、中央がトレイシー・エミン《It’s what I’d like to be》(1999)
会場風景より、村上隆×ヴァージル・アブロー《Bernini DOB: Carmine Pink and Black》(2018、左)、《Our spot 1》(2018、右)

デジタル環境に偏在し浮遊するNFTに関しては、チームラボによる初のNFT作品である《Matter is Void - Fire》(2022)が選ばれ展示されていた。作品内に火文字によるテキストが表示され、三次元的形態の文字が生成変化していく作品であり、そして所有者だけが不可逆的にこの文言を変える権利を持つ。

会場風景より、チームラボ《Matter is Void - Fire》(2022)

曖昧な状況で派生する手探りのフォルムと意味

現代の曖昧で不確定な状況のもと、存在論を身体的なマテリアリテイか、デジタルの作り出すイメージ、作用、環境にもとめるべきか、認識論と存在論のあいだを揺れ動く状況に対する植島の問いがコレクションに反映されている。

見えないものやノイズを拾ってくる、周辺にあるアンビエントな周波数を感知し、表現のなかのの「重力」に落とし込む。それが不完全でナイーブなものであったとしても、アーティストが世界をまさぐり、そこから何かを引っ張り出してくる。その手探り感がよくあらわれていたのが日本の女性作家を集めた3、5階の展示といえよう。様式はシュルアリスム(今津景)、ナイーブ(工藤麻紀子)、抽象(松本陽子)と多様だが、現在の不安とのバランスをとるために、手探りでフォルムにあたる様子がそこにあらわれている。

会場風景より、今津景の展示

不安と平衡した穏やかさやくつろぎの感覚がそこにはあり、いつでもその平衡がバグってしまう、崩れてしまうおそれと緊張感のなかにある。最近海外で再評価が高まる松本は構図をあらかじめ決定せず、画面にあらわれてくる形と戯れることで、画面を作る。モネのように、摂理のある世界像がキャンバスの外に広がっているわけではなく、彼女にとっての刹那の光景がフレームのうえに出現しているのである。多方向に拡散するピンクとグレーの雲状のタッチから、緑や青の色の重力とともに、バーネット・ニューマンやロバート・マザウエルを思わせる垂直性が取り込まれたことで、画面に新たな緊張感が生まれている。

モネの生きた時代と異なり、我々の空間:大気にはデジタルのシグナルや、ウイルスが蔓延している。第一次世界大戦後、あるいは第二次世界大戦後の熱い抽象や抽象表現主義とは異なる、抽象の作用をこのコレクション展から読み取ることができる。それは絵画形式以外のメディウムによって磁力や振動、ノイズ、バイブとして表現する作家たちの作品によって補填され、強化されている。エンタングルメント、イントラアクションとしての抽象の運動のレイヤーと、バイブによって、存在論と認識論、知覚を分断する環境を横断しつなげようとするアーティストたちの戦略を植島は同じ内的緊急性をもって感じとり、手探りでその領野(ream)を可視化しようとしているかのようだ。

会場風景より、杉本博《Palais Garnier, Paris》(2019)

リヒターの「イメージ」、絵画からの光(シャイン)に呼応するもうひとつの一連の作品は建物の各階に垂直に展示された杉本博司の近代建築の写真シリーズである。アウト・オブ・フォーカスの画面に暗示された近代/合理性/ユートピアの徴標、そこから発されている光は、見る者に新たな解釈を与え、認識の作動を挑発する。

*──「対談 ゲルハルト・リヒター/ディーター・シュヴァルツ」『ゲルハルト・リヒター展 公式図録』P221

「UESHIMA MUSEUM オープニング展」
スケジュール:2024年6月1日〜12月末終了予定
事前予約制 3F・4Fは土曜日・日曜日のみ公開
開館時間:11:00 〜 17:00
休館日:月曜・祝日
入場料:一般 1500円、高校生・中学生 1000円、小学生以下 無料
展覧会URL:https://ueshima-museum.com/launch/

長谷川祐子

長谷川祐子

金沢21世紀美術館館長、東京藝術大学名誉教授、総合地球環境学研究所客員教授。国際文化会館アートデザイン部門デイレクター。キュレーター/美術批評。京都大学法学部卒業。東京藝術大学美術研究科修士課程修了。水戸芸術館学芸員、ホイットニー美術館客員キュレーター、世田谷美術館学芸員、金沢21世紀美術館学芸課長及び芸術監督、東京都現代美術館学芸課長及び参事を経て、2021年4月から現職。犬島「家プロジェクト」アーティスティック・ディレクター。文化庁長官表彰(2020年)、フランス芸術文化勲章シュバリエ(2015)オフィシエ(2024)、ブラジル文化勲章(2017)を受賞。これまでイスタンブール(2001年)、上海(2002)、サンパウロ (2010 )、シャルジャ(2013)、モスクワ(2017)、タイ(2021)などでのビエンナーレや、フランスで日本文化を紹介する「ジャパノラマ:日本の現代アートの新しいヴィジョン」、「ジャポニスム 2018:深みへ―日本の美意識を求めて―」展を含む数々の国際展を企画。国内では東京都現代美術館にて、ダムタイプ、オラファー・エリアソン、ライゾマティクスなどの個展を手がけた他、坂本龍一、野村萬斎、佐藤卓らと「東京アートミーティング」シリーズを共同企画した。主な著書に、『キュレーション 知と感性を揺さぶる力』、『「なぜ?」から始める現代アート』、『破壊しに、と彼女たちは言う:柔らかに境界を横断する女性アーティストたち』、『ジャパノラマ―1970年以降の日本の現代アート』、『新しいエコロジーとアート―「まごつき期」としての人新世』など。