「早熟の天才」と「晩成の大器」。同年同郷生まれの幼馴染で、ともに日本近代美術史に名を刻んだ青木繁(1882~1911)と坂本繁二郎(1882~1969)は、そんな対比的なイメージがある。明治浪漫主義絵画の傑作《海の幸》(1904)を残して28歳で夭折した青木が前者なら、87歳で亡くなるまでこつこつと独自の静謐な世界観を築いた坂本は後者。生き急いだような青木はしばしば「奔放不羈(ほんぽうふき)」と形容されるが、長寿を保った坂本は晩年の仙人ふうの印象が強い。
そうしたやや図式化された見方に、重層的な視点を授けてくれるのがアーティゾン美術館で10月16日(日)まで開催中の「生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」展だ。2人の約250作品を4章構成で制作年代順に紹介し、折々の心情を伝える書簡など資料も盛り込み、それぞれの画風の変遷と両者の関係を浮かび上がらせている。
青木と坂本を同時に取り上げる2人展は、1956年以来66年ぶり。「これまで個別の回顧展は幾度も開催されてきたが、改めて2人の関係に焦点を当てると作品にまつわる2人の接点やエピソードが新たに見えて、それぞれの特徴が浮き彫りになった」と担当した同館の伊藤絵里子学芸員は話す。
アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)創設者の石橋正二郎は、学童期に坂本の図画の授業を受け、長じて恩師である坂本の依頼で青木作品を収集し、それが石橋コレクションの礎になった。本展はコレクションの契機になった2人の作品を、所蔵品のみならず全国から集め、代表作が一堂にそろう貴重な機会でもある。
青木と坂本はともに1882年に福岡・久留米に生まれ、同じ高等小学校と洋画塾で学んだ。第1章「出会い」は2人の交友の始まりから、画壇にデビューし、絵画に個性を打ち出すまでの軌跡を様々な作品でたどる。
展観は、坂本が洋画の前に親しんだ水墨や洋画塾で学んだ油彩など初期作品でスタート。技術習得の仕方がうかがえる、師の洋画家・森三美(みよし)と同じ図柄を描いた風景画もある。どの作品も表現力が高く、坂本が「神童」と呼ばれたのもうなずける。
青木の初期作品は現存が少なく画塾での様子も不明だが、晩年に再び森の許に出入りしていた時に描いた油彩画が展示されている。それと同じ風景を描いた森の作品も隣に並び、両人の師弟関係をしのばせる。
続いて、画家を志し上京した2人が切磋琢磨した時代の作品群。青木は一足先に東京の画塾不同舎を経て1900年に東京美術学校(現東京藝術大学)に進んだ。その時、家庭の事情で断念した坂本は、一時帰省した青木の絵の思いがけない上達ぶりに驚き、上京を決意。1902年に不同舎に入門した。
会場には同道した上京途中で青木が坂本を描いたスケッチや、群馬・妙義山へ一緒に写生旅行へ出かけた時の青木のスケッチ、それぞれの裸体デッサンが並ぶ。青木が坂本の裸体デッサンに線や文字を描き加えたと推測されるものもあり、2人の性格や関係に想像が向く。
40年ぶりにまとまって展示される青木の《仮面スケッチ》(1900―03)にも注目したい。東京美術学校時代、東京帝室博物館(現東京国立博物館)に通い展示された雅楽や舞楽などの仮面を鉛筆などでスケッチした作品群だ。造形化された神の姿から学ぼうとする青木の姿勢と、神話画制作への準備段階として古典文化への強い関心が感じられる。
1903年に青木は神話に取材した作品群を白馬会展に出品し、画壇にデビュー。翌年、坂本や恋人の福田たねらと千葉の布良(めら)海岸に滞在して制作した《海の幸》が注目され、新進画家として頭角を現した。本作は、坂本が大漁陸揚げの場面を目にし、その話を聞いて想像をかきたてられて青木が着想したという。「空想で描かれたものであるからこそ、この絵には生の人間のたくましさと普遍性が表現されたのだ」とする図録の指摘は興味深い。当時の青木の高揚感が伝わる新出資料の知人宛はがきなども展示されている。
《海の幸》誕生では脇役に回った坂本だが、先立つ同年春には太平洋画会展に《町裏》(1904)を出品し、新たに設立された太平洋画会研究所に入所してさらに研鑽を積んだ。市井の働く人々の姿を篤実に捉えた坂本と、神の姿や神話の世界をドラマチックに表現した青木。展示作品を見比べると主題や画風、方向性の違いが明確に分かるだろう。
第2章「別れ」は、画業に打ち込む2人の岐路と、青木が九州に戻り肺結核のため短い生涯を閉じるまでを扱う。
1907年に開催された東京勧業博覧会に青木は《わだつみのいろこの宮》(1907)、坂本は《大島の一部》(1907)を出品し、ともに3等賞を得た。だが、同賞の首席には坂本が選ばれ、前評判が高かった青木は末席に終わる。失意の青木は同年、父親危篤に際して久留米へ戻り、その後は母親ら家族を扶養する問題に直面して二度と東京に戻ることはなかった。一方、東京の坂本は第1回の文展(文部省美術展覧会)で《北茂安村の一部》(1907)が入選するなど評価を高め、2人の明暗は分かれていく。
画壇復帰を目指す青木は、久留米で文展に出品するため《秋声》(1908)を制作し、依頼された肖像画や酒造会社の洋館に飾る絵画も手掛けたが、経済的に追い詰められ、九州各地を放浪するようになる。坂本とは、結婚準備のため彼が帰省した1909年夏頃、久留米の路上で偶然再会したのが最後となった。
会場には熊本や佐賀の知人を頼った青木が、その地で描いた作品も並ぶ。青木の九州放浪は悲劇的に語られることが多いが、実は様々な人に支えられながら画業を継続していたことが分かる。再上京したい思いを坂本に書き送った書簡や、病院で書き記した「遺書」とされる家族宛の書簡も展示され、晩年の青木の心情が伝わる。
青木の死後、坂本ら友人たちが顕彰に動き、遺作展の開催や画集出版に尽力した。遺作の散逸を惜しみ、収集を石橋正二郎に進言したのも坂本で、それが石橋コレクションの形成につながったのは前述した通りだ。
第3章「坂本繁二郎―旅立ち」は、青木亡き後に坂本が画業を成熟させ、洋画の大家の地位を確立していく軌跡をたどる。
青木の顕彰活動が一段落した坂本は1912年、牛の姿を描き文展に出品した《うすれ日》(1912)が夏目漱石に認められ、やがて二科展に活動の場を移す。自信を深めて海外留学を決意し、1921年フランスに渡った。パリでは画室での人物画制作に集中し、パリ郊外やブルターニュ地方に出かけて牛や風景などの写生にも打ち込んだ。
この章でまず目を引くのは、明るさを増し、水色やヒスイ色が特徴的な独特の淡い色調を獲得した留学時代の作品群だ。単純化された造形ながら、人物の深みがある表現も印象深い。中年期に差し掛かった坂本が、気候風土や言語が異なる異国の地で、新たな境地を開いていく姿に感嘆せずにいられない。
1924年に帰国した坂本は、東京でなく久留米に戻り、1931年から近い八女に移住して残る生涯をその地で過ごした。主題の関心は長年好んだ牛から馬へ移り、放牧場などで生態を観察して制作に没頭した。だが、戦争を境に馬自体が減り、視力の衰えもあって身近な静物画を手掛けるようになる。
章の後半には、坂本作品の中でも特に人気が高い馬の絵画が何点も並び、神秘的な美しさを心ゆくまで鑑賞できる。ごく普通の植木鉢や箱、果物を巧みな空間構成で表現した静物画も印象的で、「描き度(た)いものは目の前にいくらでもある」という坂本の境地が染みる。
第4章「交差する旅」は、再び青木と坂本の関係に焦点を当てる。
青木と坂本に共通する唯一の題材が「能面」。青木の能面は、第1章で紹介された一連の「仮面スケッチ」に含まれ、名品の能面が放つ魅力を写し取った描写力が光る。坂本のものは、若い時の能舞台鑑賞を機に長年着想を温め能面も自ら買い集めて描いたもので、幽遠な趣がある。ここでは、2人の作品群が近い場所に展示され、対比的に鑑賞することができる。
次いで青木が「壁画」を念頭に制作したと思われる《天平時代》(1904)、《光明皇后》(1906)などを紹介する。青木は壁画を制作することはなかったが、《海の幸》《わだつみのいろこの宮》は一辺2m近く、歴史や神話の主題を大画面に描く構想は持っていたと考えられる。晩年に福岡の酒造会社のため制作した最大級の作品《漁夫晩帰》(1908)は、洋館を飾るための依頼だったことから「壁画」とも見なせるだろう。なお、坂本は長い画業の中で3つの壁画を制作しており、住友家が依頼した作品の下図などを見ることができる。
最後のコーナーは「絶筆」と題し、2人の最晩年の作品を展示して本展を締めくくる。
80歳を超えてから坂本は「月」の主題に取り組み、その様々な表情を雲、時に山並みや馬とともに描き出した。坂本の絶筆《幽光》(1969)は、満月がほとんど雲に隠れながら柔らかな光を放つ。そして、青木最後の作品は《朝日(絶筆)》(1910)。月と対照的な朝の太陽が、波がうねる海上を照らしている。2人の画業と生き方に、改めて思いを馳せることができる秀逸なラストだった。
日本近代絵画が独自性を模索した時代に、唯一無二の個性を追求し格闘を続けた青木繁と坂本繁二郎。その鮮烈な軌跡と交友をたどれる本展は、10月29日(土)から2人の故郷がある久留米市美術館に巡回する。