見知らぬ町をただ“歩くことしかできなかった”作家が、そこで出会った人々を演じる。「筒 | tsu-tsu 地上」(space[十和田市現代美術館サテライト会場])レビュー(評:松江李穂)

十和田市現代美術館のサテライト会場「space」にて、7月1日から9月3日まで筒 | tsu-tsu による個展「地上」を開催中。会期終盤には、十和田に滞在した2ヶ月間の蓄積を作家の身体を用いて出力する追想パフォーマンスを実施する。

民家での稽古の様子 撮影:板倉勇人

「実在の人物を取材し、演じる」という一連の行為を「ドキュメンタリーアクティング」と名付け、実践してきた筒 | tsu-tsu。7月1日から9月3日まで、十和田市現代美術館のサテライト会場「space」で個展「筒 | tsu-tsu 地上」を行っている。企画は中川千恵子。

本展で筒 | tsu-tsuは約2ヶ月にわたって十和田市に滞在し、まちとそれぞれの関わりを持つ3名の人物を取材し、演じている。また演じている瞬間だけでなく、取材、役作りや稽古など、作家が他者になろうとする過程を可能な限り公開。会期終盤には2ヶ月間の蓄積を作家の身体を用いて出力する追想パフォーマンスを行うという。演じることを起点に「2つの地上があり、その関係性を結び直す」ことをテーマとした本展を、埼玉県立近代美術館学芸員の松江李穂がレビュー。【Tokyo Art Beat】

民家での稽古の様子 撮影:板倉勇人

“ドキュメンタリーアクティング”とは何か

(省略)王、しばらく信じられないという表情で、二つの部屋の仕切りを、壁のかたちでなぞっている。見えない壁があるつもりで、たしかめるように撫でているが、思いきってにぎりこぶしを突きだすと、何の抵抗もなく手はつき抜ける。

 信じられない……壁がなくなってしまっている。隣の部屋が丸見えだ。(*1)

青森県出身の詩人・劇作家の寺山修司(1935〜1983)は、生前最後の公演作品となった『レミング─壁抜け男─』(1983)にて、人間同士を隔てる境界としての仕切り壁がなくなってしまった世界を描いた(*2)。この演劇の舞台設定は1970年代の東京・五反田駅前にあるアパートの一室であるが、突然の壁の消失によって混ざり合うことのなかった他者同士が混交する無秩序とそこから生まれる自己の解放は、人々を棲み分け隔てる「壁」が根強く残り続けるこんにちにおいても、いまなお鋭い問いを突きつけている。

目[mé] space 撮影:小山田邦哉

十和田市現代美術館のサテライト会場として使用されている《space》を訪れた際、わたしはこの『レミング』の舞台であるアパートの一室の光景をふと思い浮かべた。《space》は2021年に現代アートチームの目[mé]によって制作された作品である。既存の2階建て建造物の一部を半ば暴力的に切り取ってホワイトキューブを埋め込み、入り口側と道路に面した壁を透明なガラス窓に作り替えたこの異質な空間は、十和田市現代美術館から約10分歩いた町中に突如現れる。もちろん『レミング』の舞台の部屋のように四方の壁がすべて無くなったわけではないものの、その見た目の異様さと中と外の人が互いに「丸見え」になっている状態は、『レミング』における部屋の借主である主人公・王(ワン)の戸惑いを彷彿とさせた。

しかしながら《space》における壁の消失は、この場を訪れる者の境界を壊し混乱を呼び込むものではない。たとえば、美術館の来場者がサテライト会場である《space》へ向かう動線とこの町に暮らす住民の生活の動線は同じでありながらも、両者が混ざり合うことはほとんどないのだ。

「筒 | tsu-tsu 地上」メインヴィジュアル

青森県南部地方の地方都市・十和田市にある十和田市現代美術館主催で行われている筒 | tsu-tsuによる個展「地上」は、美術館の来場者と地元住民とのあいだにあるこのような距離感をひとつの起点としている。筒 | tsu-tsuはこれまで、実在する人物を取材し、演じるという一連の行為を「ドキュメンタリーアクティング」と名付け実践してきた。本展において筒は、十和田市をリサーチするなかで出会った町に関わりを持つ3名の人物にフォーカスし、美術館周辺の会場と《space》を用いて、彼/彼女らを演じる過程を稽古や展示を通して公開している。週末には、市内の会場を用いて食事会やイベントを通して地元の住民と来場者がインタラクティブに関わりながら、この土地の理解を深めることができる場の創造を試みている(*3)。

だがもちろん、本展の中心を担うのは筒によるドキュメンタリーアクティングである。彼がドキュメンタリーアクティングと名付ける実践とは如何なるものなのか、より丁寧に推察しなければ、その試みの本質的な意図は見えてこないはずだ。よって構造的にやや込み入った本展覧会について順を追って分析することで、その実体をひもといていきたいと思う。

そのためにはまず展覧会の全体的な構成を明らかにしたい。展覧会の一日のスケジュールは[平日の日課]と[週末の日課]に分かれ、[平日の日課]は作業(場所:美術館のカフェ)→昼食(場所:市内の飲食店)→公開稽古(場所:民家)→展示の組み替え(場所:《space》)のように進行し、[週末の日課]は作業と昼食は平日と同様で、午後が食事会やイベントを行う[かつて存在したビアガーデン](場所:写真のオクヤマ十和田店屋上)→公開稽古(場所:民家)の進行となっている。基本的に筒は十和田市内で暮らしながら、[平日の日課]と[週末の日課]のルーティーンを繰り返し、会期の終盤には[追想パフォーマンス]として滞在を通して蓄積された素材を「出力」するパフォーマンスの実施を予定している。

カプセルトイを回して受け取る音声ガイド 撮影:板倉勇人

おそらく観客は展覧会を訪れた時期・時間帯によって、作家の日課の活動かパフォーマンスのいずれかを目撃することとなるが、多くの人は美術館の出入り口に設置されたカプセルトイの機械を回して(もしくはQRコードを読み込んで)、受け取った音声ガイドを聴きながら、展示が行われている《space》へと歩いて向かうところから展覧会をスタートさせるだろう。

音声ガイドでは、美術館から《space》へと続く徒歩約10分の道案内をする筒自身の言葉の合間に、町の住民と思しき誰かの言葉が彼/彼女らを演じる筒の声を通して挿入される。「十和田」という町について語る複数の言葉は様々だが、自死の多さや地方の生きづらさを仄めかす内容、人口減少のような問題についてなど、所々に混じったこの町に存在する閉塞感を無視することはできないだろう。観客は音声ガイドの筒の声を通して、この町に暮らす人々の「声」を聞き留めた上で《space》へと辿り着くこととなる。

音声ガイドを聞きながら順路を進む 撮影:板倉勇人

「気軽にお声がけください」

音声ガイドを聴き終えて辿り着いた《space》で展示されているのは、筒 | tsu-tsuが「演技のための地図」と呼ぶ「アクリプト(Acript)」(“act”[演じる]と“script”[台本]を組み合わせた造語)である。アクリプトとは、実在の人物には存在しえない脚色されたストーリーを排した、実際の出来事だけが記された台本であり、筒はこの台本をドキュメンタリーアクティングのベースにしている。展示スペースに洗濯物のように吊り下げられたアクリプトには、ト書きや登場人物の台詞に加え、場面の詳細を補足する手書きのメモや場面を通じて作家が抱いた所感が書かれている。《space》に蓄積されていくこれらの「素材」は会期中に行われるリサーチや取材、稽古を通じて更新されていき、最終的に筒が行う[追想パフォーマンス]において、実在の人物の再現性を左右するものとなる。

アクリプト 撮影:板倉勇人

またここで完成された台本ではなく、台本の生成過程が展示されていることも見過ごせない要素だ。美術批評家のボリス・グロイスは、芸術の記録を提示するアート・ドキュメンテーション形式を作品に「生」を付与する技術ととらえたが、台本であるアクリプトが会期中に刻々と更新されていく様子もまた、アクリプト自体に生きたものとしての価値を与えている(*4)。アクリプトは、この町に刻まれ続ける実在の人物の人生と呼応しながら、《space》の空間に自らの存在を書き込み続けてゆくのである。

そうして展示を訪れた来場者が、十和田に暮らす他者を生きた存在として認識するたびに、両者を隔てた壁はわずかに薄くなり、来場者は彼/彼女らがいまこの瞬間も同じ町にいるのだという「出会い」を経験することになる。

《space》のすぐ近くには、作家が公開稽古を行う民家がある。観客は庭や軒先から室内にいる稽古中の作家を覗き込めるが、縁側のガラス戸越しに目を凝らして眺めても、作家の姿はパーテーションに遮られはっきりと見ることはできない(*5)。だが稽古をするなかで作家が発する声や、演技のもととなる取材時の音声は設置されたスピーカーを通して聴くことが可能だ。流れてくるのは、過去に録音された取材時の作家の声とそれに応える町の人の声、そしてリアルタイムでシャドーイングのように言葉を繰り返し、彼らを演じる作家の声である。

作家が公開稽古を行う民家 撮影:板倉勇人

このように、公開稽古は見るのでなくむしろ聴くものとして用意されている。そしてここで耳を傾けるべきは内容よりも、演じる相手と筒とのあいだにある声や話し方の差異である。とくに、この町の住民が話す南部弁特有のイントネーションは、話し方が同じでもやはり標準語話者の筒との違いを明らかにする。そしておそらく、方言のイントネーションのような細かい違いは、この土地に住みこの土地の方言を話す者にしか聞き分けることができない。つまり本展において、作家の「ドキュメンタリーアクティング」の演技が上達したかどうかの判定は、ある意味でこの土地の人間に委ねられているのだ。

こうして展覧会を順に見ていくと、全体を通して非視覚的な要素に覆われていることがわかる。展覧会において図像的なイメージは一切提示されず、観客は文字や音声を手がかりにこの町の誰かを想像しなければならない。そしてこの視覚的情報の少なさは、作家の日課にある[作業]と[昼食]の時間においても重要な意味を持つ。筒はほぼ毎日、美術館内のカフェや市内の飲食店に滞在する時間を用意しており、「気軽にお声がけください」と前置きをしている。作家の容貌は事前に明らかにされておらず、本人を知らない人にとっては、カフェにいるすべての人、あるいは市内の飲食店にいるすべての人が「筒 | tsu-tsu」である可能性を持つことになるのだ。その瞬間、筒がこの町の人間を演じるように、この町の人間も筒 | tsu-tsuに転じている。このように観客は作家を探して、この町に暮らす人々に自然と目を向けることとなる。

市民や観光客と交流する作家  撮影:板倉勇人

しかし当然、展覧会を訪れるのは県内外の観光客だけではない。筒は十和田市での滞在を通して市内の住民と積極的に関わりながら、地元の人も展覧会を訪ねやすいように関係性を構築したり、週末のイベントを開催したりしている。そして何より、日々更新されていくという展覧会の構造自体が、何度も訪れることが可能な地元の人々に捧げられているように思われる。美術館の来場者が地元の人々とほとんど接点がないことと同様に、この町の多くの人々も美術館の詳細を知らずにいるのだ。もちろんそれ自体は何も咎めるべきことではない。ただ、地元の人間が作品の当事者や筒の演技を見極める主体になり、互いに「他者」として識別していた両者間にある壁を取り払いながら、自分とはまったく異なる誰かの生を共有することは、たとえわずかでも、いまある現実に切れ目を生むことになるかもしれない。

設営中の作家 撮影:板倉勇人

他者との偶然の出会いは現実を切り裂くひとつの出口

このように人々の関係性を結び直そうとする「ドキュメンタリーアクティング」の実践は、一見楽観的な試みに思われる。だがこの展覧会のタイトル「地上」には、来場者とこの町の住民の「地上」をつなげるというテーマ性だけでなく、生まれ育った土地以外で初めて演じる行為に向き合った筒自身が、十和田市の町を「歩くことしかできなかった」という実感が込められている。この実感は、別の土地から美術館を通じて招聘されたひとりの作家が直面した壁のように受け取れると同時に、言葉通りただ「歩く」ことしかできなかったという意味でもあるように思う。というのも、この町は一つひとつの区画が広大な碁盤目状で整備されており、徒歩で歩くと同じ景色が続いたままどこにも辿り着かず、まるで荒野のように感じられるのだ。わたしはこの途方も無さや無力感こそが、彼の出発点なのだと想像する。

そして筒は、この無力感を、同じく無力感を抱えているであろう町の人々に突きつけている。この町は、あるいは多くの地方の小さな町はこれから衰退していくことから逃れられないのかもしれないし、それに対して表現ができることはわずかかもしれない。しかし無力感を起点に、棲み分けられていた壁を壊し、思いがけない出会いを通じて、創造的逃走の経路を想像することは、何もしないよりはずっとマシだと言うことはできる。

 「世界の涯てとは、てめえ自身の夢のことだ」と気づいたら、思い出してくれ。おれは、出口。おれはあんたの事実。そしておれは、あんたの最後のうしろ姿、だってことを。(*6)

かつて、寺山は観客にこう投げかけた。世界の涯て、つまり行き詰まりや絶望は自分自身のなかで勝手に生み出した幻想なのではないか、と。そのことに気づいたならば、他者との偶然の出会いは現実を切り裂くひとつの出口になる。そのとき、誰かの現実は、自分自身の現実を変えうるものになるのだ、と。

とはいえ、わたしが展覧会を訪れたタイミングでは会期は始まったばかりであり、ドキュメンタリーアクティングの実践がこの町でどのように受け止められるのかは、まだわからない。ただ彼の試みは、局所的な地方の問題をこえ、あらゆる問題を抱え行き詰まりに差し掛かったこの世界全部に問うている。複雑な他者を想像し、複雑な他者と出会うこと、それが誰かのひとつの出口になるかもしれない可能性を、見届けてみてほしいと思う。

会期中の週末、「写真のオクヤマ十和田店」屋上で上がるバルーン 撮影:板倉勇人

*1──寺山修司『新装版 寺山修司幻想劇集』平凡社、2017年、12〜13頁。
*2──1983年に大阪八尾の西武ホールにて、寺山率いる天井桟敷が上演した『レミング―壁抜け男』は、1979年に晴海東京国際貿易センターにて初演された『レミング―世界の涯まで連れてって』の改訂版である。
*3──2023年7月30日現在まで、[かつて存在したビアガーデン]では交流会のほかバーベキューやフリーマーケットなどのイベントが開催されている。イベントの詳細は、筒 | tsu-tsuのInstagramアカウントを通じて確認できる。
*4──ボリス・グロイス「生政治時代の芸術―芸術作品からアート・ドキュメンテーションへ」『アート・パワー』石田圭子ほか編、現代企画室、2017年、91〜110頁。
*5──このように、演技中の作家の姿を視覚的に曖昧にする手法は、「KUMA EXHIBITION 2022」(ANB Tokyo)で行われた、森友学園との土地取引を巡る公文書改ざん事件で2018年に自死した赤木俊夫さんを演じる作品《全体の奉仕者》(2022)でも同様に用いられた。その際は「視覚的な制限によって、演じる僕自身にも観客にも潜んでいる危うさを可視化したいと思いました」と述べている。(2022年5月2日公開、Tokyo Art Beat記事「赤木俊夫さんの日常を演じる。気鋭のドキュメンタリーアクター、筒 | tsu-tsu インタビュー」より)
*6──寺山修司『新装版 寺山修司幻想劇集』、83頁。

松江李穂

松江李穂

まつえ・りほ 1994年青森県生まれ。現在、埼玉県立近代美術館学芸員(臨時的任用)。東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻キューレーション領域修了。専門研究はハラルト・ゼーマンのキュレーションについて。主な企画に「一歩離れて / A Step Away From Them」(2021)、「埼玉県立近代美術館 アーティスト・プロジェクト#2.06 髙橋銑 いき、またいきるまで」(2022)、「影をしたためる notes of shadows」(2022)など。