10月23日、東京都写真美術館にて、Traditional+【vol.2】が開催されました。
Traditional+は、伝統芸能や邦楽の魅力を現代の視点から幅広く紹介するシリーズとして今年度から『東京発・伝統WA感動』に加わった新しいプログラムです。
全3回にわたるプログラムの第2回目は、「浪曲」にスポットを当て、アニメーション作家の山村浩二さんが浪曲師の国本武春さんとコラボレーションした『頭山』を浪曲のライブ演奏で上映するイベントが開催されました。
『頭山』は、落語の同名演目を題材に書き下ろした作品で、山村監督が世界的なアニメーション映画祭で四冠を受賞した代表作のひとつ。ケチな男がサクランボを種ごと食べてしまい、やがて頭から芽が出て、桜の大木になってしまうという不思議で、そして不条理なストーリーを国本さんが浪曲の唸りの効いたナレーションと三味線とで軽妙に語っています。
国本さんが『頭山』のナレーションを実演するのは、録音した当時以来と語る山村さん。「Traditional+ 【vol.2】LIVE アニメーションと浪曲」を控えるある日、制作当時のエピソードを聞きに、アトリエを訪ねました。
(文・写真: 吉岡理恵)
なぜ自分はものをつくるのか? 思考の迷路が永遠と続く世界
まずは、なぜこの落語の話をアニメーションにしようと思ったのか聞かせてください。
僕は昔から落語が好きなのですが本で読む落語ファンで、古典落語の全集を集めて何度も繰り返し読んでいました。僕自身がこのストーリーを知ったのは、小学校の頃でした。小学生向けにいろんな落語のストーリーが載っている本を読んでいて、おもしろくて不思議な話のひとつとして印象的でした。
学生時代からアニメーション映画を含めて、絵画やいろんな創作に携わってきた中で、いつもなぜ自分はものを作るのか、という根源的なことをずっと考えています。学生の頃、作っていた作品にもアイデンティティの曖昧さや自分と社会の境界線の曖昧さを描きたいという思いがありました。それが頭山というストーリーとうまく合ったんです。
——男は、花見客を追い払うのに桜の木を引っこ抜いたはいいものの、今度は空いた穴に水たまりができて、そこに釣りや水浴びに人がまた大勢やってきてしまうんですよね。最後には堪え兼ねて自分の頭の上の水たまりの中に落ちて死んでしまいました。これも現実の世界ではあり得ない展開です。
このラストの部分が自分のテーマに引っかかったところでした。自分自身の中に、自分が飛び込むっていう、自分と世界の関係が、そこで不思議な入れ子状の関係になっている。自分自身について考えようとすると、自分の内側を覗き見しなければいけなくて、自分を認知しようとするほど思考の迷路みたいなものに入り込んでしまうわけです。このストーリーのオチは、言葉の上ではあっさりしていて、「男は自分の頭に身を投げて死んじまった」と一言で終わるんです。話のおもしろさはこのオチのところに集約されていて、思考の迷路が永遠と続くのをアニメーションのビジュアルで表してみたいというのが最初のモチベーションだったんですよ。その頃、日本人とは何だろうということや、自分自身のアイデンティティへの問いかけに、ちょうど頭山のストーリーがうまくリンクしてきて、これはいま作るべきだなと思ったんです。
浪曲師・国本武春さんとの出会い
——浪曲師の国本さんにナレーションを依頼されたきっかけは何でしょう。
『頭山』は、足掛け6年ぐらいで制作した作品なんですが、その途中でナレーターの方はどなたがいいかなと探していたとき、たまたまTV局のあるディレクターの方に作品のことを話したら、こういう人がいるからもしかしたら僕が作っている『頭山』に合うかもしれないと紹介してくれたんです。初めて僕が行った国本さんのライブは渋谷であったフォークギターの弾き語りのライブでした。そのときは、全然浪曲の雰囲気ではなかったんです。多彩な才能の方だから、古典の他にも、ブルーグラスやアメリカンフォークやロック調の浪曲もやっていらっしゃって。
国本さんはその場にいる人を楽しませようという根っからのエンターテナーだと思います。その場の空気を読んでつくっていくんですよ。『頭山』のナレーション収録のときも、僕は台本を用意していったんですが、 あれこれ映像を見ながら台本に書いてないことを読んでくれて、アドリブで結局それの倍ぐらいふくらみました(笑)。
例えば、男の頭の上にお客さんたちが花見にやってくるシーンのセリフは全て国本さんのアドリブなんですよ。当初用意していたナレーションは、「ケチな男がおりました」とか、シーンの説明的な部分だけだったんです。上映会では、また国本さんのアドリブで喋ってなかった登場人物のセリフが加わるかもしれないんで楽しみにしてるんです。国本さんのナレーションを聞くのは当時の収録以来だから10年ぶりですね。
——本作の発表から10年が経ちましたか。その間に短編アニメーションをめぐる状況には何か変化はありますか。
例えば短編アニメーションの映画祭のひとつ、広島国際アニメーションフェスティバルをみると、この作品を発表した10年前に比べて、エントリー作品の本数は、1.5倍ぐらいに増えています。今年は2000点を超えていて、セレクションがすごく難しくなっている印象があります。
——アニメーションフェスティバルへのエントリー本数が増えている背景には何があるのでしょう。
ひとつは、デジタル技術が一般にも普及してきたことで、比較的だれでも映像や、アニメーションが作れる状況が世界中にあるということですね。昔はアニメーションを作ろうとしたらカメラがなければできなかったし、絵を描くテクニックがなければ無理でした。いまは、絵や映像の勉強をしていなくても作れる環境がある。映像を学ぶことができる教育機関も増えてきているので制作人口が多い。
あとは、インターネット環境が普及した影響もあると思います。これまで映像というと受け身で楽しむだけだったけど、自分で作って気軽にネット上で発表しやすいという環境がある。よいものは一定数あるけど、価値の基準が混乱し不透明になりかけていて、ひとつの転換期でもあるかなという気がしています。

——作品の中で描かれる主題には変化が見られますか。
若干はありますね。家庭用のホームビデオやパソコンで映像が作れるということで、メディアがよりパーソナルなものになったからではないかという気がします。社会や他者との関わりの中でしかものが作れなかった時代とは違ってきています。
自分ってなんだろう、自分の関心はこういうことですよ、っていう自分語りの表現が増えてきています。それまでは、例えば一般的にですが、アニメーションを作ろうとしたらある種の共同作業の流れでしかできなかったわけです。また劇場やテレビで発表するという大きなメディアがあって初めて作ろうとするものでした。だから表現するものは必然的にちがってたと思うんですよね。大衆に向けた表現がうまれづらくなっている状況には不満があります。海外では日本のアニメーションは、(自己の内面を描いた) ある種のナイーブさがおもしろがられている部分もあるのでしょう。弱みでも強みでもある。その中で、自己表現と結びついた作品は評価を得ていますね。
短編アニメーションは、例えるなら俳句みたいなもの
——山村さんは今年審査員として、ヴァルナ国際アニメーション映画祭(ブルガリア)に関わられていましたがどうでしたか。
ヴァルナの作品審査では、数本ですが、すばらしい作品に出会えて可能性を感じました。アニメーションにある種の窮屈さを感じ始めていましたが、グランプリ作品に選出した『Mother and Son』は、久しぶりにアニメーションの豊かさを感じる出会いでした。
——アニメーションにおけるある種の窮屈さとは何でしょうか。グランプリ作品『Mother and Son』はどのような作品なのでしょうか。
アニメーションは、特に短編を見ていると、このキャラクターを作って、こういう意図でこのシーンを作ったなどすべて作為の中で意図的に作られたものが多い。グランプリの作品は、母親を田舎の村へ迎えにいく息子の話なんですが、バイクで母親をどこかへ連れて行こうと移動しているその後ろを飼っていた犬が追いかけていくという様子を田舎の風景をロングショットばかりで、ほぼモノクロのシンプルな線だけのタッチで描いているんです。何かを語るための動きじゃないんですよ。物語のまだ何も起きていないある部分を切り取っていくというシーンが連続しますが、何かを説明するわけでも、何か特別な事件が起こっているわけでもない。ただ草がバサバサと動いていたり、ロングショットで走っている様子だったり、そういったなんでもないシーンのつながりだけなんですけどすごく満たされました。
この作品は一見、頭で考えたら必要がないシーンばかりをさりげなく描いていくことで、ひとつの映画として成り立っているんです。多くのアニメーションが小さな考えの中でしかまとまっていないように感じていましたが、アニメーション映像というものは、まだまだ取り上げ方があるんだっていうおもしろさに気がつきました。
——ずばり短編アニメーションの魅力とは何でしょうか。
短編アニメーションは、例えるなら俳句みたいなものなんです。短いけれども「そこに全宇宙がある」みたいな、ひとつの世界が作られているおもしろさが魅力です。短いだけにいろんな実験がなされうるので、長編映画よりも、より映像の可能性をみることができる。短い中に、ある凝縮されたエッセンスというのがすごく感じられます。
アニメーションは、基本的には一枚一枚のフレームは現実の世界から切り取られた時間で、現実の時間ではなくて作られた一枚の画像です。人形だったり、描いた絵、CGだったとしても、その場所で流れていたものを実写映画のように切り取ってきたものではないので一枚一枚のフレームが再生されるときに、そのメディアの上で時間が創造される。現実の時間から切り離された別の次元にある時間の層に立ち現れてくるんです。
——再生されるとき、キャラクターに命が吹き込まれるような感覚がうまれるのは、アニメーションならではの魅力ですね。他にもアニメーションならではの表現のおもしろさはありますか。
例えば、もうひとつ、ヴァルナで印象的だった作品に『Father』があります。虐待を受けたり、父親との関係が不幸な子供に実際にインタビューを行って、彼らの父親像をドキュメンタリーで描いた作品です。(実写ドキュメンタリーで描くことが多いシビアなテーマを)高い技術で描かれたグラフィックで表現していて、現実味を消した切実さがあるんです。
3ヶ国の共同制作なんですが4人の監督が、グラフィックとしてすばらしいテクニックでかなりプライベートなシーンを社会的な問題を含めて丁寧に物語っています。アニメーションのドキュメンタリーものって多いんです。このようなテーマは以前にもあったけれど、グラフィックと内容がすごく遊離していた。この作品は力強く内容と映像が結びついていました。
長い寿命で見られるアニメーション作品をつくりたい
——作家活動の他にも教育者としてアニメーションの普及にも尽力されていますね。どのような課題がありますか。
美術を勉強する場合は、ある程度、美術史を知っているとその視野の中で、現代美術の意味がわかるということがあります。アニメーションの場合、こういう風に見ればアニメーションのことがわかるんですよと書かれた歴史本が少なく、いつか自分が着手しなければいけないかもと感じています。いま、教えている東京藝術大学の映像研究科では、まさにそれをやっていまして、公開講座という形でも「コンテンポラリーアニメーション入門」と題して3年目を迎えます。「アニメーションズ」を始めたのも似たような理由で、短編作品を何をどうみたらいいのかという人に、見るきっかけや考えるきっかけのヒントになればいいかなと思って運営しています。すばらしい作品の紹介や鑑賞の仕方に関して講座や出版もできればいいと思っているので続けていくつもりです。
———今後の作品制作について聞かせてください。
いま、60分ぐらいの長編作品を準備しているんですけども、大分先になるのでまだ具体的に言える段階ではありません。例えば『頭山』は資金調達のため、他のプロジェクトをやりながら足掛け6年かかったんです。けれど、制作に実際かかった期間は2年ぐらいでしょうか。短編といっても大体、2、3年を見越さないと。制作だけでも1年以上かかるものなんですよ。2年かけて作品を作って、翌年の映画祭に出品して、公開が翌年で、3年かかる。その前段階として企画を立てて、予算がたたない場合はスポンサー探しもする。そうなると発表は構想からかぞえて5、6年先になってしまうんですよね。
近々発表するものですと、NHKの仕事で古事記を映像化するプロジェクトを年明けにかけて制作をしているところです。古事記が編纂されて今年で1300年の記念にあたる年で、10分ぐらいのアニメーションを制作しています。
僕は個人的な趣味としては、いわゆる古典好きではないんですけど、アニメーションと古典の親和性はある気がしています。(頭山のファンタジックな世界観と似ていて)古事記も、歴史の書ですがある種、神話の世界じゃないですか。僕が2007年に発表した『カフカ 田舎医者』も形而上的な物語だったりします。目に見えない世界を描くのにやっぱりアニメーションは向いていると思うんですよね。実写は目に見えるものしか撮れないけど、アニメーションは目に見えないものから描ける。神話や古典の見たことのない世界だとか、夢の中の世界だとかを映像で描けるのがアニメーションなんです。日本のメジャーシーンのアニメーションもアトム、宇宙戦艦ヤマトやガンダムから始まってSFがベースになってますしね。
中でも短編アニメーションは、長い寿命で見られるものだと思っています。だから、僕は題材としてより恒久的なものを求めているところがあって、自然と何百年経ってから描いても古びない題材に惹かれるというのがありますね。古事記の映像化プロジェクトは、僕自身楽しみです。これも日本人としてのアイデンティティのひとつの、すごく根源的なところにつながるものだと思っています。日本に残る記録された書物の中で一番古いものじゃないですか。もちろんそれ以前にも長い歴史がありますが、言葉で書かれて残されたもので、その時代から遠く後の時代に生まれた自分たちがどこからきて、どうしてここにいるのかというヒントが何か古事記の中にあるんじゃないかという気がしています。
——アニメーションが古い書物を手に取るように鑑賞される時代がくるんでしょうかね。
ひとつの問題として、ある種のアーカイブを作らなきゃいけないというのがあって、誰もが歴史的なものを気軽に見ることができる場所や機関を作っていかないとどんどんと消えてしまっていくわけで残らない。アニメーションも伝統芸能と同じ課題があるんですよね。
「待ってました!」浪曲の“掛け声”が飛び交う上映会
TABlogライター:吉岡理恵 フリーライター。アートプロデューサーのアシスタントを経て、フリーランスで展覧会企画、Tokyo Art Beat 他でエディター、ライターとして活動。他の記事 »