「版画の青春 小野忠重と版画運動 ―激動の1930-40年代を版画に刻んだ若者たち―」(町田市立国際版画美術館)レビュー。版画の若さ、光芒の連なり(評:水沢勉)

版画に熱中した青年たちはいかに激動の時代を超えようとしたのか。明治の終わりに登場し30年にも満たなかった創作版画はいかなる「青春期」を迎えたのかを探る展覧会。

会場風景

1930〜40年代に活動した「新版画集団」と「造型版画協会」による版画運動を、リーダーであった小野忠重の旧蔵品を中心に紹介する展覧会「版画の青春 小野忠重と版画運動―激動の1930-40年代を版画に刻んだ若者たち―」が、町田市立国際版画美術館で5月19日まで開催中だ。会場には約300点もの作品が並ぶ。

激動の時代に版画に熱中した青年たちがいかにこの時代を超えようとしたか、明治の終わりに登場し30年にも満たなかった創作版画はいかなる「青春期」を迎えたのかを探る機会となる本展を、批評家の水沢勉がレビューする。【Tokyo Art Beat】

会場風景

厳しく豊かな時代の価値観を反映した「新版画集団」

 「版画の青春 小野忠重と版画運動 ―激動の1930-40年代を版画に刻んだ若者たち―」。長いタイトルの展覧会である。それがおのずと物語っているのは、この時代を一望することはとても困難なこと、まさに一筋縄ではいかない。そして、それを眺めようとする側の立場と姿勢も同時に問われているということでもある。

なにか1本、軸を通して、枠を設定しない限り、複雑な広がりを整理して把握することができない。
複雑な移行期なのだ。
版画、その若さ?
そう自問しながら会場を巡った。もちろん即答はとても困難だ。

会場風景

小野忠重(1909〜90)がキーパーソン。展覧会名に明記されている通りである。それは誤解の余地はない。出品作の多くが小野忠重のコレクションしたものである。和歌山県立近代美術館、神奈川県立近代美術館、福島県立美術館などの公的コレクションに、小野忠重版画館や個人蔵の私的コレクションからも貴重な作品や資料が選んで加えられ総数400点を優に越える展示物が会場の町田市立国際版画美術館に並ぶ。プロレタリア美術運動が頂点に達したあと弾圧によって勢いを失いつつある時代に、ほとんどが20代前半の「若い」版画家たちが、23歳の小野忠重を若きリーダーとして1932年に結成した「新版画集団」から展示が開始される。

会場の冒頭には出品番号1の《SHINHANGA創刊号ポスター》(挿図)が額装され掲げられていた。集団結成時に機関誌の版画誌『新版画』の刊行も決定されていたのである。

会場風景より、手前が《SHINHANGA創刊号ポスター》(1932)

機械印刷によるものではなく、板目木版の手触り感の濃厚な、かなり意図的に素朴な彫りと摺りである。わたし自身は、小野忠重版画館蔵の1枚、まさに今回展示されているものしか手に取ったことがない(「集団員」たちが情報共有するための記録集『新版画への道』に折って挟まれていた可能性もあるが、現在確認が困難である)。部数はかなり限られたものと推測される。

「SHINHANGA/創刊号/●/版画は大衆のものだ/6.20發行 30sen/■■■新版画集団」という文字と記号。それに画面全体を大きく分割する曲線と短い水平線を組み合わせた線が1本刷り込まれている。版木は、おそらく意図的に、白の部分を完全に浚(さら)っていない。結果、ざわついた汚れのノイズが画面を散らばっている。

これはだれが作ったのか?
これは小野忠重の手によるものではない。そう、わたしは最初に手にしたときに直感した。

会場風景より、大小二点の新版画集団第一回展ポスター

新版画集団第一回展のポスターも木版による手摺りのものであり、これは大小2点が現存を確認されている。これらも額装されて同じ最初に空間に並べられている(出品番号17と18)。この2点は、確実に「集団員」のひとり藤牧義夫(1911〜35年行方不明)によって彫り、摺られたものである。ともに小野忠重版画館蔵)。さらには手書きの看板(作者不詳。出品番号19)も額装されていた。そして中央のケース内には、機械印刷の同展のチラシが2種、赤と緑の紙色が異なるものの同一の絵柄による印刷物(日傘を差す男女が描かれている初期浮世絵からの部分的な引用)の二枚が平置きされている。そこには「版画は再び/大衆の中に還った。/新時代の/我々の版画展だ。」というメッセージも印刷されている。この言葉を作り書き、絵柄を選び、紙色を変えて印刷するといった全体のディレクションは、小野忠重による可能性が高い。

会場風景

第一回展の会場は、銀座にあった川島商店ビルの前には、「集団員たち」が並んでいる記念写真が存在する。わたしはそのプリントそのものを手にしたことがない。同じく町田市立国際版画美術館で1993年に開催された「小野忠重木版画:激動の昭和を版画とともに」のカタログに掲載されている貴重な画像である。入口の左手前には前述の看板よりもはるかに大きな縦4mほどの看板を置かれ、その右下には、前述した藤牧義夫による大きなほうのポスターが(おそらく鋲で)留められている。

小野は藤牧の右肩に右手で触れている。みな緊張しているが気迫にあふれた表情をしている。ただ、ひとり中央にうつむいた中年男性がいる。46歳の蓬田兵衛門(1886-1947)である。

「小野忠重木版画:激動の昭和を版画とともに」カタログより

今回の展示でこの写真のオリジナルが再発見され、大きく拡大されてパネル化されるか、プロジェクションされていたならば、この出発点の臨場感は一気に高まったにちがいない。
版画運動とはいえ、政治的なものとは異なり、日蓮系の新興宗教である國柱会の会員(藤牧義夫)、共産主義への共感者(小野忠重)、在野の医師(蓬田兵衛門)、東京帝国大学生(鈴木[武田]健夫 1913-2013)など、様々な立場のひとたちが版画への情熱を介して集まっていることが伝わってくる写真なのである。「大衆」と「版画」をつなぐために、年齢や立場に囚われず、直接手を取りあった様子を記録してくれた貴重な写真だ。

版画の広報物としての機能も意識されていたことが会場の冒頭の展示が明らにしてくれていたので、この写真があれば、さらにそれが際だったにちがいない。

初めてわたしが小野忠重氏の高円寺のご自宅を当時、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内にあった神奈川県立近代美術館で働いていた酒井忠康さんと原田光さんの3人で訪問して、ご所蔵の作品の一部を拝見したのは、1987年初めのこと。
そのとき最後にわたしから質問をした。

「新版画集団の第一回展。たいへん評判を呼んだと聞いていますが、どのようなひとたちがいらしたのでしょうか」
「ああ、みんな目も口もあったよ」

二の句が継げなかった。きっといろいろ複雑な事情があるにちがいないと判断して、質問を続けることを諦めた。

会場風景

まさに「新」を「シン」と書き、雑誌を「ジン」と呼ぶ、現代の感覚とどこか響きあうようなイデオロギー対立期から暴力の直接ぶつかり合う戦中期に移行する、多様な価値観を孕んだ時代を「新版画集団」は反映していたのである。しかし、それは厳しいと同時に豊かな変化の時代でもあった。

そのことは、1935年に藤牧義夫が失踪したあと、「新版画集団」が発展的に解消して生まれた「造型版画協会」の足取りをたどるときさらにさらにはっきりとする。

パリ万博、シュルレアリスム、MoMA──世界のアートシーンと連動し始めた表現

今回の第二部は、会場の第二企画展示からはじまる。

清水正博 造型版画協会第一回展ポスター 1937 小野忠重版画館蔵

その冒頭を飾るのが、清水正博(1914-2011)《造型版画集団第一回ポスター》(1937、小野忠重版画館、出品番号203)である。「新版画集団」の第一回展の藤牧義夫によるポスター(小)を意識した作品である。藤牧が、プロレタリア美術のアイコンとも呼べる「ハンマーと手」というモチーフを、「彫刻刀と手」にパラフレーズした絵柄を赤色の紙に黒一色で刷って貼りつけていたのに倣って、清水は、完全に当時流行しはじめていたシュルレアリスムのデカルコマニー技法を応用した有機的なフォルムの抽象表現のモノタイプを、やはり本紙に貼っているのである。本紙には「造型版画協會第一回展/六月十日➡十三日/於銀座/紀伊國屋」の文字と記号が刷られている。

会場風景

清水は、藤牧を継承しているというのは深読みすぎかもしれないが、浅草界隈の都市風俗などには明らかに雑誌『新版画』後半の一部(第13号から第16号まで)の編集に藤牧とともに関わったことも大きな影響を及ぼしたことが窺われた。しかし、この「造型版画協会」の誕生とともに清水は大胆な飛躍を遂げることになる。おそらく単品の摺りであると思われるモノタイプといってよい大作《出発》や《隆》(ともに和歌山県立近代美術館蔵、出品番号216と217)は、全面的な解放感に溢れていて、すぐに隣に並べられた同時期の、のちの戦後の陰刻法として完成することになる技法を予感させる、小野忠重の一連の暗く閉塞的な幻想表現との強烈な対比を見せていて、今回の展示のハイライトといえる部分であろう。

会場風景より、手前が清水正博《出発》(1937)

会場風景より、手前が小野忠重《休日》(1938)

しかし、1930年代後半は、1936年のベルリンでのオリンピック開催、そして翌年のミュンヘンにはじまる退廃美術展のドイツ第三帝国内の巡回展、パリでの万国博覧会などの国際イベントが続き、イデオロギー対立がますます露わになると同時に、それぞれの表現がいまでいうグローバルな(地球規模の)同調を見せる時期でもあった。シュルレアリスムの日本を含む影響の拡大。ニューヨーク近代美術館の活動。そういうものもその状況と連動している。

会場風景

版画というささやかな形式でありながら、「造型版画協会」の活動は、まさにそのような動きを反映している。戦後、1951年のサンパウロ・ビエンナーレで在サンパウロ日本人賞を受賞して、広く知られるようになる斎藤清(1907〜97)は、油彩画家としてやや遅いデビューを果たしたあとに同協会の会員となることで、油彩と版による表現の合体を独自の手法で模索していたのである。そして、版画表現の拡大への指向は、戦後の版画による美術教育の重要な牽引者となる大田耕士(1909〜98)も同協会へ誘い込むことになる。段塚青一(1900〜84)や畑野織蔵(1908〜92)と宇治山哲平(1910〜86)といった色彩表現に秀でた版画家たちもさらに才能を羽搏かせることになる。 

会場風景より、畑野織蔵の作品。左から《ゆめ》(1949頃)、《緑の風景》(1949)

彼らは、戦前と戦後とを版画でつなぐ貴重な表現者たちである。後半の展示では、その清新さが感動をあたえてくれるはずだ。そして、誰よりもそれを体現すべく版画制作と公開普及に邁進したのが小野忠重であることも、今回展示されたそのコレクションによってますますはっきりするにちがいない。

ただ、版画史家としての小野忠重については、みずから戦間期に妻とともに自宅で運営していた出版社「双林社」への言及はほとんどなく、背景に退いてしまっている。そこへの照明は別の機会を期待しよう。

小野は、若くして藤牧義夫の才能に出会ったように、戦後も若き才能に注目することを続けていた。それは今回の展示の中核をなすコレクションを形成する肝心かなめの動機になっていた。

会場風景

遅れてやってきた一瞬の光芒

最後に今回の展示の枠を外れるけれど一言だけ言及しておきたい小野忠重コレクションの作品がある。

ある日、阿佐ヶ谷にあった小野忠重版画館でわたしが手にすることのできた1枚の木版画は、次世代の才能の誕生を感じさせるものだった。

作者の名前は、平野貴久子(1938〜66)。作品は、裸婦ふたりが立った姿を、背景なしの空間に、三角刀を駆使した鋭い線描によって濃い密度で表現するものだった。残念ながら、小野忠重氏ご本人は、そのときすでに亡くなられていて、この27歳という浜松生まれの短命の版画家についての話を直接伺うことは叶わなかった。

ここにもエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880〜1938)に惹かれていた藤牧義夫の系譜を見出すことができる……そう、作品を手にしながら、わたしは確信することができた。それは小野忠重がわたしたちに提示してくれた、近代版画の青春のなかの、もうひとつの、遅れてやってきた一瞬の光芒であったのだ。

水沢勉

1952年横浜市生まれ、1976年慶應義塾大学美学美術史学科卒業、1978年同大学院修士課程修了後、神奈川県立近代美術館に学芸員として勤務。1993年、1997年第6回、第8回バングラデッシュ・アジア美術ビエンナーレにコミッショナー。2004年第26回サンパウロ・ビエンナーレにコミッショナー。2008年横浜トリエンナーレ2008「タイムクレヴァス」総合ディレクター。2011年より2024年まで神奈川県立近代美術館長。単著に『この終わりのときにも 世紀末美術と現代』(思潮社、1989)、『エゴン・シーレ まなざしの痛み』(東京美術、2023)など。編著に『樹の瞳 宮崎郁子作品集』(エゴン・シーレ没後100年宮崎郁子展 in krumauプロジェクト、2013)など。共編著に矢萩喜從郎との『点在する中心』(春秋社、1995)、五十殿利治との『モダニズム/ナショナリズム』(せりか書房、2003)など。