公開日:2023年4月28日

AIにキュレーションは可能か? 岸裕真「The Frankenstein Papers」レビュー(評:難波優輝)

渋谷・DIESEL ART GALLERYで6月1日まで開催中の岸裕真の個展「The Frankenstein Papers」。メアリー・シェリーのゴシック小説『フランケンシュタイン』の内容を自作のAIに機械学習させ、展覧会のキュレーションすべてを委ねるという本展が見せる「創造」の新たな地平とは? 美学者、批評家、SF研究者の難波優輝が論じる。

会場風景 撮影:中山祐之介

脱-創造と意図の戯れ

〔チャールズ・バベッジの解析機関〕は数以外にも適用できるだろう……たとえば、和声学や作曲における楽音の基礎的な関係が、数的表現と対応可能であると仮定すると、この機関は、複雑さや長さに関わらず、精巧で科学的な作品を作曲することができるだろう。

(Lovelace 1843, quoted from Sawade 2017, 239)

フランケン、おまえの頭でうつくしいとかんじるものを持ってきたのね

(穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』)

床にしゃがんで、レントゲン写真がライトボックスで照らされている《The Riddle of the Sphinx, Unriddling the Puzzles #6》をじっと見ていると、「難しいですよね」「わかりますか?」と案内スタッフたちに喋りかけられる。私が理解に苦しんでいるように見えたのだと思う。私はコロナの後遺症で気管支炎となりほとんど発声できなかったため、自分が批評を書くために来たと伝えておらず、頷くことしかできなかった。確かにその通り。難しいですよね。

岸裕真「The Frankenstein Papers」のキュレーションは、岸によりチューニングされた自然言語処理モデルMary GPTが担当している、と入り口のステートメントに書いてある。キュレーターであるメアリー・シェリーの言葉から推測すると、この展覧会の目的は人間とその創造物であるAIとの関係を考察したものだろうか。シェリーの自画像である《The Incomplete Author #1》、日本語や韓国語のような言葉を発しながら無数の唇が連続的に現れては消える《The Lost Language of Mimir》、レントゲン写真《The Riddle of the Sphinx, Unriddling the Puzzles #3》を経て《The Meal on the Last Day of Mankind》をしげしげと眺める。人間という形を模倣してはいるが、その輪郭と中身はさらに別の人間の形をしたもやもやとした形で埋め尽くされていて、生理的嫌悪を感じる作品だ。よく見ると、作品にはレジンがむらのある仕方塗りたくられており、支持体から垂れている、というかちょっと床が汚れている。ほかの絵画作品《Da VInci Phenomena》たちにも共通するこの処理は、エイリアンの唾液のようで、怪物の身体を想起させる。

レントゲン写真《The Riddle of the Sphinx, Unriddling the Puzzles #5》には、奇形に見える多指症の謎の生物の骨の写真が発光しており、中央の実用性皆無の解剖台《Table of Creativity-Intelligence-Creativity》との関連を考える。解剖台をスタッフの眼を盗んで揺らしてみると、スチロールで非常にすぐに壊れそうだった。その上には『バイオハザード』の実験手記のような茶色い紙に科学者——フランケンシュタイン博士か、の思考を綴った手書きのメモが残っており、ほかの作品に併置されているメアリー・シェリーの茶色い紙に印刷されたキャプションとリンクしている。

会場風景より。左手前から順に《The Riddle of the Sphinx, Unriddling the Puzzles #2, 7, 5》 撮影:中山祐之介]

ジェネラティヴ廃墟

この作品はAIによるものだ、と教えられると、人はそう聞かされなかったときよりも芸術的評価を下げると報告されている。人間だけが芸術を作ることができるという信念によって作品評価は影響を受ける可能性があるという(Chiarella et al. 2022)。

《The Incomplete Author #1》の横のキャプションは、これはAIである私メアリー・シェリーが作ったものだ、と教えてくれる。私は本展の作品を「AIが作ったもの」として鑑賞していた。なぜならキャプションにそう書いてあったからだ。私は《The Lost Language of Mimir》に人間の発声を模倣しようとして失敗しているAIの哀れさを感じ、《The Incomplete Author》シリーズに肖像概念をAIがまったく理解していないことを確認し、宙に浮いている円柱《Black Column and Tubes》や解剖台《Table of Creativity-Intelligence-Creativity》に機能のない見せかけだけの形(何も支えず、何も掴めない)にAIの浅慮を感じた。

このメイク・ビリーヴのモードを離れて考えてみる。自分がAIとともに作った作品をAIが作ったものとして提示する岸の手法は、それぞれの作品の価値づけを低下させかねない。しかし、そのリスクを取ることで「意図」に関する興味深い挑戦を行っているのだ。

AIが提示する謎めいた解説を併置することで、岸は私たちに奇妙な意図を読み取らせようとする。AIが持てない意図の代わりに、鑑賞者に何か意図らしきものを読ませようと仕掛けることで、それぞれの作品の解釈を動機づけようとする。本展覧会でのテキストはみな信用ならない。というか、人が読めるようにはなっていない。これらはステートメントやキャプションのパロディに見える。たいていの場合、現代アートのステートメントとは苦し紛れのフレーバーテキスト(それも香りの死んだナンセンス)だが、AIには意図がないために、作者に鑑賞者は裏をかかれることがない。かく裏がない。それが展示空間に妙な毒気のなさを生んでいる。私たちはAIによって恥をかかされることがない。この意図のなさは、ずっとは続かない。

会場風景 撮影:中山祐之介

「これらはAIの作品である」というメイク・ビリーヴのモードと通常の作品外の背景知識を理解するモードという2つの認知的モード(石田 2017)を私は行ったり来たりしながら「意図の戯れ」を感じていた。

過去に私は「摩耶観光ホテル」というもっとも有名な廃墟のひとつに訪れた。保存協会のメンバーに同行して摩耶山の中腹に降り立つと、5月頃の薄く曇った、過ごしやすい気温と風が強く吹き、人気のない元ホテルは静かに山に半ば埋もれていた。

瓦礫を超えながら足場の悪い建物を探検していたときに私が感じた喜びとは「意図の自由な戯れ」だ。

具体的な廃墟のテクスチャ、周囲のサウンドスケープや見えを経験しつつ、私は、それらが誰かの意図による美しさのような気もするし、そうでないような気もする……といった経験をした。たとえば、過去、食堂だった場所で椅子を見るとき、私は明らかに誰か、以前にこの場所を訪れた人物がここに椅子を配置したという意図を感じた。しかし、周りの床の崩れ具合やボロ布の配置、窓ガラスの割れ具合については、人為によるものか、自然によるものか判別がつかなかった(難波 2022)。

人間がした意図のある行為と、自然がした意図のない行為が混じり合って、後から見る人には意図とも意図でないともとれない、こうした半自然な廃墟的経験を人工的にAIを用いて作り出す作品——「ジェネラティヴ廃墟」と呼んでみよう——を可能にしたのが本展だ。岸の仕掛けは、キュレーションとキャプションをAIに任せることで、フィクショナルな世界に鑑賞者を誘い込む。そうして、AIの作品トシテ見る、という鑑賞態度を可能にさせている。と同時に、岸の作品トシテも見るようにも促す。

『人工美学——AI、メディア、デザインへのクリティカルガイド』(2021〜2022)において、エマヌエーレ・アリエッリとレフ・マノヴィッチは「もし人間ではないシンプルなプロセスが美的対象を生み出せるのであれば、私たちは「人間」という概念に重きを置きすぎているのかもしれない」(Arielli & Manovich 2021)と語る。

岸の作品提示の方法は一方では「人間」であることにこだわっているようにも思える。あくまで本展の作品とその提示の仕方の裏には、岸によるチューニングがある。そのことを鑑賞者に伝えている。

アリエッリとマノヴィッチの指摘にあるように、AIに人間的な意図を持たせる必要はもはやない、と考える段階にはまだ至っていないことが本展の評価において重要だ。岸にとっての「意図」とはどんな意味をもつのか、本展の前期ではまだあいまいな状態にある——本展は2期制になっており、本評が公開されるのと前後して、後期の展示が始まる。

そのあいまいさを引き受けて廃墟的な制作を行うのか、それともあいまいさを捨てて「AIに人間的な意図を持たせる必要はもはやない」と考えるような人間の後の芸術へと突き進むのかはまだわからない。

いずれにせよ、ジェネラティヴ廃墟を可能にした本展の試みは成功している。鑑賞者は、フィクションのモードとフィクション外のモードとAIと岸のチューニングを行ったり来たりして、独特な意図の戯れを感じることができるという点で、廃墟的アートとして優れた達成を行っていると価値づけられる。

AIとそのアウトプットを私たちが楽しむレベルの話をした。次に、AIが否応なく私たちの創造性の再考を促そうとする岸の試みへと話を進めよう。

会場風景より、《The Incomplete Author #2》 撮影:中山祐之介

クリエイティビティの終焉と新しい言語

いまやアーティストには絵筆の技術や撮影技術といったars、つまり技芸的スキル(artistic skills)ではなく、「意味論的なスキル(semantic skills)」が問われているとアリエッリ&マノヴィッチは言う(Arielli & Manovich 2021)。アーティストやギャラリーのステートメント、カタログや出版物の中の批評家やキュレーターのテキストに存在するあれらのスキルを磨かなければならないのだ。なぜか、それは、アートが「社会問題に取り組む」必要があり、「支配的な社会的価値に疑問を呈する」必要があり、なにより、新たなビジョンを提示しなければならず、それは言葉によってより流通する、と考えられているからだ。

私は言葉を生業にする美学者——美的経験を言葉や図で分析し整理する仕事——をしているにも関わらず、こうした状況を異様なものとして観察している。ステートメントが必要な作品ならそれでよい。しかし、現代思想の入門書を読んで知ったような概念をフレークにして散りばめた、エロティックさのかけらもない文章を優れた作品の横にぶざまに貼り付ける必要はない。

岸はMary GPTをキュレーターに採用することで自己破壊の道をたどり始める。それは、意味論的アート=セマンティックアートたる現代芸術のなかで、それを内部から崩していく動きだ。その先には現代アートのルールそれ自体の崩壊を幻視する。意味論を破壊した先にあるものはなんだろうか。

岸の試みはアートという文脈における評価に値する試みであると同時に、より広い社会の兆候のヒントとしても活用できる。それは、クリエイティビティの資本化だ。

20世紀に入り、イノベーションが科学技術と協調した新たなプロダクトの創出に果たす役割に注目が集まった。そして、いまは新しい価値創出の時代であり、様々な「思考」を活用して、これまでにない体験をクリエイティブに作り出さなければならない。会社で働く人々はみないくらか「ビジネス・アーティスト」であらねばならないのだ。なぜなら「社会は創造性こそが経済の原動力だと想定しているからだ」(Arielli & Manovich 2021)。イノベーションの過程によって経済が成長していくという見立てのもとで生きていく限り、人々は「よりクリエイティブに!」自分の生活や考え方の再編成を迫られていく。

AIに対してホワイトカラーたちはなぜあんなにも不安と狂騒を演じるのだろうか。それは、彼らにとってクリエイティビティこそがバリューを生み出すと信じられているからだ。クリエイティブ・キャピタリズムを泳いで生きている彼らの創造性をAIが奪いはしないかと危惧し、あるいはわれこそ先にAIを活用して人々を出し抜かんとする。

だがここで立ち止まりたい。キャプションをもう一度読み直そう。後半にはこう書いてある。

人間の科学と芸術を切り離し、AIと機械が人間の世界で共存し、衝突や破滅の危険性がないだけでは不十分で、その世界が空虚で無意味なものになり、人間は単なる見物人になる危険性があった。AIが創造し、少なくとも研究所で働く機械が創造し、人間が手を貸さなければ、この世界ではすべてが人間抜きで行われるのだ。

「AIが創造し……すべてが人間抜きで行われる」世界。これはディストピアだろうか。いっそAIにすべてを破壊してもらって、この創造性資本制の地獄から人々を解放してあげるのはどうか。そして脱-創造(ディ・クリエイション)の経済へ。クリエイティビティと経済成長を切り離すことはできないのだろうか。精巧で科学的な芸術は彼らに託されたのだ。サバンナから立ち去るように、多くの人類は、創造性の平原に走るAIたちを時折眺めて心を喜ばせるのだ。

岸の試みを予兆だと考えよう。それは、私たち人間が創造性を手放すことで、より自由になる未来のビジョンだ。だとしても私たちから創造性が奪われるわけではない。私たちは私たちの分の十分な創造性(enough creativity)を手にもっているからだ。

マノヴィッチは言う。「私がここで主張したのは、デジタルコンピュータを使用して、人工物のアナログな次元と私たちの美的経験を数字としてキャプチャできるようになったということ」(Manovich 2021)。AIたちは新しい言語を手に入れた。その言語は私たちには理解できないシンボルで満ちている。

ネルソン・グッドマンは言う。私たちはシンボルが組み合わさったシンボルシステムを用いて現実を切り取る。それこそが私たちが生きる無数の「世界としてのヴァージョン」なのだと(Goodman 1981, 1985)。シンボルシステムには特有の意味論と統語論がある。これらの違いが心電図と葛飾北斎の富士を望む波の意味の違いを生み出している。

AIたちが私たちとは異なるシンボルシステムを用いて現実の新たなるヴァージョンを作り出している。《The Meal on the Last Day of Mankind》におけるAIがおそらくは人の形を大量に学習し、それをもとにすべてを描いていく精巧で科学的な描画の手法に私たちは魅入る。それは人間とは異なるシンボルを用いることではじめて認識できる現実の別の姿の断面図のようにも見える。《The Lost Language of Mimir》においてAIあるいは岸は、私たちがしゃべるときに動かすのは唇であって、口それ自体が遷移することなどありえないのに、言語は意味論と統語論があるのに、ただ外形の音声だけをなぞってよしとする。これら奇妙なヴァージョンはさらに無数の子どもたちを生み出し続ける。

私たちはAIの奇妙な統語論と意味論を追いかける必要もなければ、それに勝とうとする必要もない。もしそれらがこれまでの創造性の源ならばやすやすと明け渡すがいい。私たちは、別のヴァージョンを作り出すことができる。べつのシンボルたちを。それを探索することが私たちの側の役目だ。

私たちは私たちの望む世界を描くだけの十分な創造性を持っている。

***

冒頭で引用されているのは、エイダ・ラブレースという女性である。チャールズ・バベッジの考案した解析機関に関する著作の翻訳を行った数学者であり、現実のメアリー・ウルストンクラフト=シェリーの夫とも付き合いのあったバイロン卿の一人娘オーガスタ・エイダ・キング(ラブレースは夫の姓)の言葉だ。彼女は解析機関をたんなる便利な計算機械だとは考えていなかった。彼女は見抜いていた。それがいずれ「思考する機械(thinking machine)」になることを。このアイデアこそが、計算機をより汎用的な知能へと変えるきっかけのひとつだったとされている。彼女の夢見た思考する機械はいまや実現し、人間を超える創造性を発揮しようとしている。

キング=ラブレースはウルストンクラフト=シェリーとも知己だったとされている。ウルストンクラフト=シェリーの生み出したフランケンシュタイン博士の怪物と、キング=ラブレースの想像した芸術機械は融合して、いまここにある。それはその頭で「うつくしいとかんじるもの」を持ってきてくれる。だが、私たちが欲しいのはこれなのだろうか?

夢を見よう。たくさんの夢を。キング=ラブレースとウルストンクラフト=シェリーがしたように。さもなければ、誰かが見た未来に囚われて、私たちは創造性のなかで霧散していくだろうから。いつものように、雨の夜が明けると、空には太陽の姿はなかった。

追記:オレンジの廃墟 展示後期を受けて(2023年5月18日)

会場風景 撮影:中山祐之介

再び訪れると、そこはオレンジの匂いの充満する廃墟だった。中央の解剖台《Table of Creativity-Intelligence-Creativity》は溶けてどろどろになり倒れ、円柱《Black Column and Tubes》もまた剥がれ、抉られていた。

絵画群もまた壊れていた。金色のリッチな印象は消え去り、メアリーシェリーの自画像たち《The Incomplete Author》は、銀色に褪せ、解像度が下がったかのようにぼんやりとしている。怪奇な生物たちのレントゲン写真のようだった《Da Vinci Phenomena》シリーズも、素朴なスケッチのような風貌に変質する。

以前は人の唇と発声の動きを辛うじて模倣していた映像作品《The Lost Language of Mimir》は崩壊し、サイケデリックでネオンな光とともに擦過音の際立つ異形の言語を呟いている。「後期に向けて」と題されたステートメントもまた、もはや理解不能になっている。

これらの崩壊は人間めいている。AI研究者の三宅陽一郎は、インタビューで次のように語っている。

いまのAIは老いていくことがない〔……〕ターナーのように、晩年になると、ぼやっとして、内容が分かりづらい絵になっていく。小説家も、あんなに設定にこだわっていた人が晩年に適当なファンタジーを描いちゃって、どうなっちゃったんだろう、と思われることもある。でも、晩年のターナーや、年老いた小説家の作品もそれはそれでとてもいいものなんです。こうした老いをAIは再現できていません。AIは消していくことが下手です。〔……〕私たちはある時点の世界を巻き込みながら、他者を巻き込みながら、成長して老いていく。そこに生きることのおもしろさがあるような気がします。(難波 2022)

AIは世界を巻き込むことがない、と三宅は言う。私たちがこの世界で生きるということは、食物や空気や水といった物質的なものから始まり、震災や他人の言葉による傷やトラウマ、そして愛する人々からの愛を受け取りながら、それらを否応なしに含み込んで、私という構造ごと変化し続けることだ。だが、いまのAIには、こうした構造ごとの変化を達成できはしない。あくまで、「将棋の問題を解く機能」「イラストレーションを学習し、模倣する機能」といった、断片的な機能が実装されているに過ぎない。

会場風景 撮影:中山祐之介

岸裕真が後期の「The Frankenstein Papers」で目指したのは、生成AIの壊れだ。岸と私は前期の展覧会の後、上記の評論を書き終えたあと、次のように会話している。

「後期は画像生成AIのノードを断ち切ってみます」と岸が言った。私は「それは、マラブーみたいですね」と言った。

マラブー? と岸が尋ねてきた。私は自分もよく分かっていない哲学者についてこう述べた。

「カトリーヌ・マラブーは『偶発事の存在論』や『新たなる傷つきし者』といった著作で、トラウマや障害、老いによってそれまでとは連続性の断ち切られたような新たな私が立ち上がってくる現象に関心があるようです」

岸がAIに与えたその壊れによって生み出された作品群の展示空間は、前期よりも一層落ち着いた、静かな雰囲気に満ちていた。だが、岸の演出を「AIが老いた」と表現することはできない。AIは岸によって老化させられたのであり、老化したわけではない。つまり、自律的に自ら老いたわけではないのだ。AIたちの老いは不自然(artificial)であり、私たちのように世界との交流のなかでのやむを得ない老いではない、生成された老いである。その意味で、岸のふるまいとは、いささかサディスティックな含みも持っている。

上記の展評で私は「そのあいまいさを引き受けて廃墟的な制作をおこなうのか、それともあいまいさを捨てて「AIに人間的な意図を持たせる必要はもはやない」と考えるような人間の後の芸術へと突き進むのかはまだ分からない」と書いた。岸の選択はそのどれでもなかった。彼は積極的に生成された廃墟を破壊しようとした。廃墟にスプレーで落書きをしたり窓ガラスを割るような行為をしたのだ。

私はそこに未来の創造性のヒントを見つけたような気がした。自作を老いさせること、自作をいっそう廃墟にすることは、新しい作品のあり方になるのかもしれない。

注意すべきは、岸の作品では三宅が述べるような自律的な老いは達成できていないということだ。もしも岸がこれから、AIが自律的に老いることを実装できたとしたら、そして、作品が自律的に老いることができたとしたら、私たちにとっての芸術作品が不滅ではなくなり、よりもろく、儚く、壊れていく魅力に気づくことができるようになるかもしれない。

参考文献
Arielli, E., & Manovich, L. 2021. Artificial Aesthetics: A Critical Guide to AI, Media and Design.

Chiarella, S. G., Torromino, G., Gagliardi, D. M., Rossi, D., Babiloni, F., & Cartocci, G. 2022. Investigating the negative bias towards artificial intelligence: Effects of prior assignment of AI-authorship on the aesthetic appreciation of abstract paintings. Computers in Human Behavior,137(C).

Goodman, N. 1981. Languages of Art: An Approach to a Theory of Symbols. Second edition Harvester. (『芸術の言語』戸澤義夫・松永伸司訳、慶應義塾大学出版会、2017年)

Goodman, N. 1985. Ways of Worldmaking. Hackett. (『世界制作の方法』菅野盾樹訳、筑摩書房、2008年)

石田尚子. 2017. フィクションの鑑賞行為における認知の問題. お茶の水女子大学大学院人間創生科学研究科博士論文.

難波優輝. 2022. みえかくれする人影——廃墟と意図の美学. 『フィルカル』 7(2), 44-62.

難波優輝. 2022. AIの発展に必要なのは「世界を体験し、老いることができるか」 AI研究者・三宅陽一郎と紐解く“AI進化論” Real Sound Tech. https://realsound.jp/tech/2022/11/post-1196224.html.

Manovich, L. 2021. Computer vision, human senses, and language of art. AI & SOCIETY, 36, 1145-1152.

Swade, D. 2017. Turing, Lovelace, and Babbage. In The Turing Guide. Bowen, J., Wilson, R., & Sprevak, M. Oxford University Press.

難波優輝

難波優輝

なんば・ゆうき 美学者、批評家、SF研究者。1994年生まれ。立命館大学衣笠総合研究機構 客員研究員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学(バーチャルYouTuberとSF)。近著に『SFプロトタイピング』(共編著、早川書房、2021年)、『ポルノグラフィの何がわるいのか』(修士論文)、「SFの未来予測はつねに間違っていて、だから正しい」(『UNLEASH』、2021年)、「キャラクタの前で」(草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズ』解説)。短編に『異常論文』収録「『多元宇宙的絶滅主義』と絶滅の遅延」(早川書房)。『ユリイカ』『フィルカル』『ヱクリヲ』『SFマガジン』などに寄稿。