現在、高松市美術館で「みる誕生 鴻池朋子展」が開催中だ。会期は7月16日〜9月4日。
鴻池朋子は1960年秋田県生まれ。玩具や雑貨のデザインに関する仕事を経て、絵画、彫刻、大型のインスタレーションなど、様々なメディアによる作品を発表してきた。2009年の東京オペラシティアートギャラリーと鹿児島県霧島アートの森美術館での個展から、15年神奈川県民ホールギャラリー、16年群馬県立近代美術館、新潟県立万代島美術館、2018年秋田県立近代美術館、そして20年アーティゾン美術館「ちゅうがえり」まで、国内の美術館で個展を重ねてきた。またその間にサンフランシスコやイギリスのリーズでも展示を行っている。
不思議な生き物たちが飛び交うマジカルで壮大な世界を展開する鴻池の作品は、1990年代後半から注目を集めてきた。しかし2011年に東日本大震災が起き、このことが制作やアーティストとしてのあり方に根本的な変化を余儀なくしたと、作家は度々語っている。今回の「みる誕生 鴻池朋子展」は、震災以降、様々な価値観の変化を体験し、それを創造行為と結びつけてきた歩みの延長線上にありつつ、そのラディカルさがさらに研ぎ澄まされた展覧会だ。
担当学芸員は毛利直子(高松市美術館)。なお、本展は高松市美術館を経て、静岡県立美術館(担当学芸員:川谷承子)、青森県立美術館(担当学芸員:奥脇嵩大)へと「リレー」されていく。
展覧会タイトルは、「みる誕生」。「見る」ではなく、あえてひらがなで書かれた「みる」には、「観客は眼だけではなく、手で看(み)る、鼻で診(み)る、耳で視(み)る、そして引力や呼吸で観(み)て、美術館という強固な建築と、疎遠になってしまった自然界とに新たな通路を開いていきます」(展覧会サイトより)という意味が込められている。ここで作家が問い直しているのは、美術館という制度や美術鑑賞における「視覚」の圧倒的な優位性だ。この問題意識は、タイトルだけでなく展覧会場全体を貫くある仕掛けにも表れている。
本展はまず、美術館1階のエントランスホールから始まる。吹き抜けに吊られた大きな《大島皮トンビ》(2019)と《高松皮トンビ》(2022)が、来館者を出迎える。この皮という素材も、震災後、鴻池が好んで使うようになった素材だ。震災前は絵画や彫刻などを制作していたが、それまでの素材や手法に、自身の手が「喜ばない」と感じたという。そういった身体的な変化が、「手で看(み)る」という新しい感覚を切り拓いたのだろう。
そして2階へと続くスロープに近づくと、そこに紐があることに気づく。「会場内の黒い紐、毛糸には触れることができます」という説明も。さらにこのような解説が書かれている。
「皮トンビから降りてきた紐は、ここからスタートし全展示室を巡って美術館の出口まで続いていきます。これは眼ではなく、手で鑑賞される方々のための作品であり、手がかりとなる大事な動線です」
この動線はところどころ上下しながら、実際にスロープを渡り、展示室へと続いている。目で「見る」だけではない、また別の方法による展覧会へのアクセスが開かれているのだ。
本展の大きなポイントは、展覧会のなかに鴻池自身の作品以外のものが、多数呼び込まれているという点だ。
2階の約半分を占める「高松市美術館コレクション」の展示室は、高松市美術館、静岡県立美術館、青森県立美術館それぞれの担当学芸員が選んだ、高松市美術館コレクションが展示されている。選考テーマは一切なしというルールで選ばれた42点だ。
一般的な展覧会のように、作品の脇に作家名や作品名を書いたキャプションは貼られてない。作品名が書かれた紙が添えられているだけだ。しかし、普通は絶対に展示室内にはないものがある。あってはいけない、と言ったほうが正しいかもしれない。動物の糞だ。
展示ケース内に、床に置かれた椅子の上に、糞はちょこんと、しかし特異な存在感を放って鎮座している。じつは模型だが、本物そっくりでいまにも匂い出しそう。「ツキノワグマ」「イタチ」「ニホンザル」など糞の主の種の名前が添えられていて、「ニホンザルのウンチはやっぱり人間と似ているんだな……」などと思う。
コレクションとは、美術館にとってまさに宝であり、保存収集するという存在理由そのものである。展示室に置かれたパネルによると、ここには創造活動を行う人間の“痕跡”である作品と、人間以外のものの“痕跡”として「動物の糞」の模型がともに置かれているという。思いもよらない宝と糞の併置にびっくりしたが、なるほど。環境問題やエネルギー資源の問題が待ったなしに迫り、地球の有限性から目を逸らすことができないいま、人間がものを作り続け、美術館はそれを収集し続けるというサイクルについて、我々は改めて考える必要があるだろう。
それにしても。
神妙な顔をしてウンチを撮り続けている私、あまりにマヌケすぎないか。いや、展覧会場の写真とともに見どころをレポートするのが私の仕事だし、これまでもそうしてきた。この展示室は一般のお客さんは撮影禁止なのだから、撮影できるのはプレスの特権でもある。でも、どうも、この振る舞いが、いま・ここにフィットしていない気がする。この展覧会、ひいては美術館から要請される“何か”とは、決定的に違う気がするぞ……。
そんなモヤモヤに襲われながら、しかし、その“何か”にすぐ手が届くはずもなく、う〜んと唸りながら撮影を続けるしかなかった。「いつもの」あり方を問い直されるような緊張感が体に走る。
糞だけではない。続く展示室でも、作家は美術館という制度に疑問を投げかけ、その表と裏を混ぜ返し、タブーを解禁するようなことを次々とやってのける。
たとえば、普段は人目に触れない展示壁の後ろにある小空間に作品を配置したり、個展という大仕事の裏で積み重なる作品輸送箱をあえて展示室の真ん中で見せたりする。
「触ったらダメ」が美術館の基本ルールだが、本展は《触れるインスタレーション》を用意。ここでは鑑賞者が触れて作品を鑑賞できるようになっている。
そして「インタータイダル・ゾーン」という名の展示室には、国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(熊本県合志市)の絵画クラブ「金陽会」のメンバーによる作品107点と、「物語るテーブルランナー」60点が並ぶ。
鴻池は、瀬戸内国際芸術祭に2019年と今年2022年に参加。国立ハンセン病療養所がある大島を舞台に制作を行なっている。こうした経験から、作家は同じくハンセン病療養所に暮らした人々の作品を本展に展示した。
「物語るテーブルランナー」は2014年から継続されているプロジェクトで、ランチョンマット大の手芸作品が並ぶ。旅先で出会った人々から個人的な物語を聞き取り、それを作家が下絵におこし、話者本人がその下絵をもとに手芸で制作する。
これらふたつは、いわゆる「美術」という制度から周縁化されてきた存在や手仕事だ。美術と美術ではないもの。作品と作品ではないもの。その境界は、それほど明確に引けるものだろうか。タイダルゾーン=潮間帯とは、干潮時には水位より上に、満潮時には水中になる場所のこと。作家は個展に、美術制度の枠外で生み出されたものを呼び込むことで、陸と水中のような異なる場所をつなぐ「インタータイダル・ゾーン」を出現させたのだ。
本展を見て感じたのは、鴻池さんが、長く険しい戦いに挑んでいるということだ(でもなんだか楽しそうだけど)。
作家がその身体まるごとで挑むのは、人間中心主義のエコロジー観であり、健常者中心主義の社会であり、著名な作家・作品中心主義の美術館である。こういった長い月日のなかで固定化した足場をぐらぐらと揺さぶり、何かと何かを組み替え、あっちゃいけない場所にあっちゃいけないものを置き、いちゃいけないように扱われてきた人たちこそが、ここにいられることを求めている。そんな展覧会だ。
実際、最後の図書室に置かれた学芸員によるテキストには、彼女らの戸惑いが率直に綴られている。地方の美術館で現代アーティストの個展を開催するという貴重な機会に、市民に向けて作品をしっかり見せたいという学芸員側の責務。いっぽうで自分自身の作品は展覧会になくてもいいという鴻池さんの考え。高松、静岡、青森それぞれの担当学芸員のなかでも考えは異なっていたようだし、作家はあまりにラディカルで、寄稿した学芸員の焦りに同情しつつ共感してしまう。当たり前を揺さぶるアーティストの考えや行動を、すぐに理解し、ついていくことは、きっと多くの人にとって難しいからだ。
この展覧会を、居心地のいいセーフスペースだと思う人もいるだろうし、「挑まれている」と感じる人もいるだろう。いずれにしても、「わかる」ふりをしなくていい。ここに何があるかをしっかり「みる」ことが、鑑賞者が踏み出す新しい旅の、手がかりになるはずだ。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)