2024年10月3日から、パリと西宮を拠点とする戦後日本を代表する抽象画家・松谷武判(1937年大阪市生まれ)の回顧展「松谷武判 Takesada Matsutani」が、10月3日〜12月17日、東京オペラシティ アートギャラリーで開催される。
関西で生まれ育ち、大阪市立工芸高校(現・大阪府立工芸高校)で日本画を学んだ松谷は、当時の新素材であったボンドを用いた有機的な形態を持つ作品で頭角を顕し、1963年から具体美術協会(1954〜72)に正式参加し、同グループの第二世代を支えた。1966年にフランス政府給費留学生として渡仏後、今日に至るまで58年間に渡り、日本とフランスを往還しながら作家活動を続ける。関西で日本の伝統や前衛を吸収するいっぽう、パリで欧米の芸術文化から刺激を受けることで、絵画や版画などの平面作品に加えて、立体も含めたインスタレーションやパフォーマンスなど、行為(アクション)と構成(コンポジション)が共棲する、独自の芸術形式を確立してきた。
2017年のヴェネチア・ビエンナーレ企画展への参加、2019年のパリのポンピドゥ・センターでの個展など、近年国際的に高い評価を受ける松谷のこれまでの長い作家活動に焦点をあてる本展。日本とフランスで制作された、初期から現在までの作品、スケッチ、ドローイング、映像などで構成され、過去最大規模となる。
展覧会に向けて準備を進める作家に、パリのアトリエで話を聞いた。
──まず初めに、今回の回顧展がどのようにして始まったのか、その経緯について教えていだけますか。また準備を進める過程で、ご自身のキャリアを振り返ってみて、いま率直にどのように感じていますか。
2022年春頃、芦屋市立美術博物館学芸員の大槻(晃実)さんからの紹介で、東京オペラシティ アートギャラリー学芸員の福士(理)さんから企画の相談を受けて、承諾したところから始まりました。自国を離れると、自分はフランス人でもないし、西洋人でもない。パリの良いところは、そういう外国人が来ても自由に住まわせてくれるところです。美術家の場合は、それまでの環境との違いのなかで、“問答”が始まる。「自分とは、東洋人とは、日本とはいったい何ぞや」ということを探ったり、比較したりしながらこれまでやってきました。結論はハッキリとは言えないけど、やはり自分の中に流れている血は、まあこれは遺伝子レベルになるのか、ヨーロッパの人たちとは違う。具体美術協会(以下、具体)でも「人の真似をしない、影響を受けても、オリジナルのものをやりなさい」と吉原治良さんから言われましたが、国を離れてみて、その意味がよくわかりました。日本は島国だから、どれだけ発達してもやはり孤立したところがあります。“国を離れて自分を見る”という客観性があったほうが、こういう仕事の場合は良いんじゃないかなと思っています。
──関西で生まれ育ち、そのままパリへ移住した松谷さんにとって、東京とはどのような場所ですか。
これは小さなものの考え方だったかもしれないけど、当時、日本の中では関西と東京のあいだには競争意識がありましてね(笑)。昔は奈良・京都が都だったのに対して、現在は東京が日本の首都。方言の違いもあって、僕らの頃はライバルでした。それが面白かったんですけどね。日本の中で僕らのグループ(具体美術協会)は、戦後、まだ大変な時期ですが、若い人たちが自由になって、国を立て直すために生産に力があってエネルギー、情熱があったときで、アーティストたちも理屈で言うよりも「人の真似しないで誰もやらないことをやろう」というようなことをモットーにしていました。
当時の具体は、東京の人たちには結構、批判されていましたが、1957年、フランスの美術評論家ミシェル・タピエ(1909〜1987)が来日して、大阪まで見にきて、「これは海外に紹介しないといけない」という流れになった。具体が設立されたのは1954年で、僕らより10歳上の10〜20人ぐらいの若い関西の作家が中心となり、新しいタイプの作品に加えて、芦屋の松林の中で、舞台、いまで言うところのパフォーマンスやインスタレーションをすでに50年代にやっていました。でも、それは東京や日本全体にはうまく伝わらなかった。その頃、僕は高校生で日本画を描いていたけど、私自身も「あんなの絵じゃないよ』と思ってた(笑)。でも、結局、僕も具体に入ることになるわけだから、人間の影響力、青年時代の柔軟性はすごいですよ。
──松谷さんが青春時代を過ごされた1950年代は、美術や建築の分野で、日本の伝統と西洋のモダニズムをどのように秩序づけるか、融合させるかという議論が盛んだったと思います。当時を振り返るとき、どのような記憶が甦りますか。
関西では、当時、具体美術とともに“陶のオブジェ化”を生み出した前衛陶芸家集団「走泥社」(1948〜98)、そして絵画・彫刻・工芸・書・いけばなの領域を超えた“新しい造型”の探求を目指した「現代美術懇談会」(1952〜57)が活動していました。「戦争に負けてゼロになったけど、我々には戦前から続く日本の文化があり、ヨーロッパから影響を受けて成長した文化がある。だから、もう一度頑張ろう」ということでまず頑張ったのが産業です。エネルギーが沸々と湧いているときに、若い人たちは「何かせずにはいられない」という雰囲気がありました。いまとまた違った情熱があった。僕はそれを知っていますが、具体はそういう意味でもほかとは違うと感じていたし、やはりどこか惹かれたんですね。
──これまでにも何度も質問されたことであると思いますが、改めて、大阪市立工芸高校(現・大阪府立工芸高等学校)では、なぜ日本画を選択されたのでしょうか。
私は中学2年生の15歳から8年間は、肺結核で寝たり起きたりする生活でした。親父は日本生命で働いていて、同じような一流会社へ息子を行かせようと思っていたみたいですが、戦後復興の競争激しい時代に、病気の人間はそういう会社への就職はまず駄目ですね。たまたま絵が好きだったし、普通高校には行けないから、大阪市立工芸高校へ行ったんです。戦前からある学校で、そこは金属・木材の工芸、それから美術や建築もありました。日本画を選んだ理由は、子供の頃から写生するのが大好きだったし、水彩画とか油絵具は使いこなせないと思っていた。日本画は競争率が低いし、学校に入ってしまえば、あとは好きなことやったらいい、と思ってね。受験したら、受かっちゃって(笑)。でも1年間通ったらまた病気が再発して療養することになりました。20歳頃にかけて徐々に健康を回復していくわけですが、病気がきっかけで、美術の仕事で身を立てようと考えるようになりました。
──過去のインタビューでは、病床で『みづゑ』や『美術手帖』を読んだり、カンディンスキーの著書『点・線・面』が愛読書だったりした、とありますね。
そういう雑誌や本は全部読んでたね。海外の美術の流れや哲学とか。独学なので、あまり深くは行けないけど。パリに行ってから影響を受けたのは、『アトリエ17』を主宰する版画家スタンリー・ウィリアム・ヘイター(1901〜88)の作品です。彼は、1960年の第2回東京国際版画ビエンナーレでグランプリを取って、関西の天王寺美術館(大阪市立美術館)にも巡回して、それを見に行きました。それはすごい抽象で、アクション風の、アンフォルメル風の稲穂が風でなびいているようなイメージで、いまでも目に焼き付いています。その後、自分でヘイターのことを調べていたので、パリに留学で来たときに、真っ先に彼のアトリエへ行きました。
──1970年代にニューヨークやロサンゼルスに短期滞在された時期もあるとのことですが、ハード・エッジ絵画、とりわけエルズワース・ケリーに大きな影響を受けたそうですね。
昨年、TARO NASUで展示したハード・エッジ(1968〜75)作品は、時代の影響もありますが、おっしゃる通り、エルズワース・ケリーの影響をずいぶん受けました。僕のイメージは、いつも官能性がある有機的な形を作り出すことを目的にしていて、普段、ものを見る時もそういうものを見たり感じたりしています。ヘイターのところで、日本で具体のときに作っていたボンドの立体のような、有機的で官能的な作品を平面でも制作しながら、同時に銅版画の技術を学んだり、シルクスクリーンに興味を持ちました。それからまたボンド作品に戻っていくわけですけどね。
──海外へ拠点を移したアーティストの多くは、あまり日本との接点を持たなくなる人が多いですが、松谷さんの場合、展覧会歴を拝見すると、毎年のように日本とフランスを行き来されています。どういう理由でそうなったのでしょうか。
もともと給費留学は6ヶ月間でしょ。「もう少し長く居たいから、延長してください」ってこちらの留学生会に言ったら、「あなたの留学は特別だから給費延長はできません。4年間の期限付きで、日本に帰る切符を差し上げますが、どうしますか?」と。「じゃあそれに申請します」ということになり、結局、給費なしで自活する必要が出てきた。僕はモンパルナスに住んでいて、そこは画家のたまり場でした。その頃、パリには数軒だけ日本食レストランがあってね。日本人作家の知り合いに紹介してもらった仕事で、日本の業者が経営する「京都」というシャンゼリゼにあるレストランで、夜は皿洗いのアルバイトをしていました。カナダ人の友人からもらった50ccの小さなバイクで通っていました。
アルバイトでは十分に生活できない。版画が少し溜まったし、帰りの切符もある、ということで、日本に行くことになった。当時、つながりのあった大阪の信濃橋画廊(1965〜2010)のご主人に相談したところ、「(版画を持ってきてくれたら)所蔵につなげてあげますから」と言ってくれて。で、そのお金でまたパリに戻ってきた(笑)。大阪の人は面白い。「お前の絵はわからへんけど、飯を奢ってやるわ」ってね。あのときは本当に世話になった。東京では村松画廊で展示してましたよ。逆に、日本からパリに来る人たちのホテル探しは、僕が全部面倒みてましたね。そこには有名な人も含まれるけど、言うたら差し支えるから言いませんが。その頃、やっぱり現代美術で飯食うっていうのは大変やからね。アルバイトや出稼ぎをやりながら、絵を一生懸命支えてました。
──パリに来てから、具体をどう超えるか、ということは意識されましたか。
もちろん意識したね。人間って生きていくために環境によっていろんなものを学んだり変化したりするということがあるでしょ。私の場合も、パリにきて、物理的に距離ができ、具体と離れて、新しいものを創ろうと摸索していた。時代の流れによって変化していくということですね。具体が1970年の大阪万博に参加する際には、具体のひとから「時代に乗り遅れるで、帰ってこい」と言われたが、日本へは帰らず、当時つくっていた版画だけ送った。吉原先生はちゃんと(万博で)飾ってくれていた・・・。
それぞれの国には伝統や歴史があって、その影響をみんな受けてるから違ったものが出てくるのは当然。日本人の色とこっちの人の色と違う。とくにラテン系の人とか、アメリカ人の色なんかは、もっと違うよね。本能的に、環境によって人間というのは影響されるんですよ。影響されないで生きるのはありえないから、それはいいんです。でも、影響じゃなくて、真似たら終わり。物は真似て改良したらいいものを作れるけど、芸術は学んで真似ても、模写しても、自分の物でないとダメ。個性が大事だね。きれいな山や、芸術以上のすごいものがたくさんあるじゃないですか。そこで美を作るというのはなんですか? それをなぜ作るのかということを考えなあかん。創作や生むという言葉があるけど、それにお金に絡むから、矛盾だらけになる。ピカソが何億、何百万、そういうことは、本当の美とは関係ない。
──松谷さんの制作テーマのひとつでもある「白と黒の思想」について、質問させてください。これは自国の文化を掘り下げる過程で生まれてきたという理解でよろしいですか。
やっぱり小さいときから習っていたから、墨と書道は理屈の抜きに、体の中に染み込んでるんです。墨で描いている人はいるけど、鉛筆なら誰もいない。具体流に言うなら、「誰もやらんことはやれ」ってね。鉛筆の粒子は、ほかの素材とは物理的・材質的に違いがあって、顕微鏡で見ると、水彩絵具や墨で塗った平面とはまた違った“空間”ができるはずなんですよ、粒子と粒子の“あいだ”に。その空間の後ろに青や緑を塗ったりして、違った黒を、“鉛筆の深さ”を出そうとする。手の跡を残すことが大事です。人間だから、手を動かさないといけません。五感を大事にしたいと思っていて、手を動かすことを“時間を巡る”、あるいは“時間を埋め込む”と言っています。
あるとき、一度ゼロになって考えてみようと思ったことがあるんですよ。まず、鉛筆と白い紙を机の上に置いた。物書きじゃないし、詩や物語は書けない。でも、やるしかない。しかも、若かったから、とりあえず大きいものを作りたいじゃないですか。それで僕は10mのドローイングを人生として考えた。日記のごとく描いて、終わったらテレピンを流して鉛筆を擦ったら流れる。これは外へ行く空間。“永遠”ですよ。僕はここで終わるということ。その後、ボンドの上に鉛筆で描くことを思いつくのに、また時間がかかった。ボンドの上に描いたら、面白い陰影が出てくるじゃないですか。それでボンドも復活して、鉛筆で描いたり、色をつけたり、さらにジオメトリーの要素を加えたり、紙にしわ寄せてみたり。
──作品と、作品に対するオリエンタリズム的な見方との距離感はどのように考えていますか? 当時、日本の伝統に対するアレルギーのようなものはありましたか?
それはあったと思います。帰国するたびに(伝統に反発する表現を)目にするから、ああ、こんなんがあったんやなって。その頃はみんな観念的になって、別のことをやろうという感じだから。でも、海外に住むと頭の中も見方も変わっていくんでね。だから国を出ていかなあかん。出ていかんでも理解できるようなものばっかり作ってるでしょ、いま。あれは怖い。僕らは五感というものを信じてる。それはナショナリズムとは違うんです。フランスのインテリの人たちはみんなそれを理解しているからね。比較論をやってはるんやろけど、しょうもないことは言わへんわ。
──そうですね、アーティストが生涯をかけて普遍的な美を模索する過程で、自国と他国の文化や美意識を相対化させながら、自国の歴史伝統を参照して深めたり、異文化の要素を融合させたりすることは、作品の独創性を高めたり、アーティストとしての生存戦略としても、とても自然なことだと思います。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。展覧会オープンを楽しみにしています。
松谷武判と言えば、ボンドを用いた、泡が弾けたような生命的な作品でよく知られる。その理由は、その作品が初期の代表作として、これまでの具体展で頻繁に展示されてきたためだ。私にとって、その具体時代の強烈なイメージを変えるきっかけとなったのは、2019年のポンピドゥ・センターでの個展だった。展示室の壁にかかっていた作品のなかで、もっとも印象に残っているのは、同展カタログの表紙にも使用されたイメージだ。鮮やかな黄色い色面が印象的な作品で、ポップな色を用いて幾何学的に構成された平面の上に、有機的な膨らみを持つボリュームが付加された半立体絵画で、その色と形が作り出す抽象美と遊戯性に強く惹かれた。
1966年に渡仏し、それ以後58年に渡り、西宮とパリを往復し続けてきた松谷は、今回のインタビューで「国を離れて自分を見る」ことの重要性を強調した。私も深く同意する。他方、美術業界を含めた文化外交あるいは国際的なビジネスの世界に身を置くと、周りには頻繁に海外渡航する人が多い。しかし、普段、ほとんど意識することがないが、日本のパスポート取得率はわずか17%程度である。つまり、国民の約8割が海外渡航の経験を持つことなく生活しているのだ。確かに、自然資源が豊かな島国である日本に生まれ育った者は、必ずしも「国を離れる」必要がない。少なくとも、これまではそのような環境にあった。
そうした地政学的に孤立しやすい日本という場所において、芸術家を志すこと。それは生まれ故郷である国や地域の歴史遺産を継承しながら、あるいはそれに抗いながら、地球規模で思考し、古今東西の比較分析を通して、相対的な歴史観を構築することであろうか。そうした現代の理想主義者の夢は、24時間体制で暴力的な介入を続けるグローバリゼーションや資本主義の誘惑や脅威に常に晒される。世界規模での人口大移動の時代、あるいはポスト・インターネット時代においても、なお、「国を離れる」ことも、「自分を見る」ことも容易ではない。むしろ情報過多によって、現状認識や自己分析をより難しくさせているとも言えるだろう。さらにポスト・コロナ的状況や円安が、内向きな態度に追い討ちをかける。
ところで、日本における伝統とモダニズムをめぐる議論は、19世紀半ばの開国・開港以来、幾度も繰り返されてきた。欧米でのジャポニスムに始まり、岡倉とフェノロサによる日本美術の調査研究、西洋哲学と東洋思想の融合を目指した京都学派、文芸評論家たちが欧米克服を論じた『文學界』における「近代の超克」、『新建築』誌上での丹下健三や岡本太郎らによる伝統論争、1950年代の禅と東西の前衛芸術の相互作用、磯崎新による「間―日本の時空間」展(1978〜79、パリ装飾美術館)など、無数の先人たちの顔や言葉、イメージが浮かぶ。
他方、海外から日本を訪れた外国人たちもまた重要な役割を果たしてきた。19世紀後半の浮世絵コレクターや画商、美術批評家に始まり、モダニズムの建築家や前衛的なアーティストだけでなく、美術史家、建築史家、日本・東洋研究者、美術館学芸員らによる他者の視点から考察した日本の歴史伝統・文化芸術に関する継続的な関心と研究/実践は、その歴史的解釈に客観性を、またその価値に普遍性を与えることに寄与している。
さて、いま松谷武判をどのように位置づけるか。
洋の東西を問わず、芸術を愛し、愛されてきた松谷は、日本とフランスのあいだの“移動”、あるいは“往還”という、物理的かつ身体性を伴う動き──その自己撹拌的なアクションによって、翻弄されながらも導かれてきた。この抽象画家は、その身のこなしによって、作品の色や形、行為と構成などの芸術的課題だけでなく、伝統と近代、東洋と西洋などの歴史文化的な文脈が引き起こす衝突や限界、閉塞感を回避し、人生と作品をより「開かれ」たものに変えてきた。そこにあるのは、ひとりの芸術家として、日々、ただひたむきに作品制作と向き合う、普遍的な美の探求者の姿であり、無限へとつながる時間と空間である。
松谷武判
1937年、大阪市に生まれる。14歳で結核にかかり、22歳まで8年にわたり闘病。その間に日本画を学ぶ。1963年に戦後日本の前衛芸術を牽引した「具体美術協会」の会員となり、ボンドをつかったレリーフ状の作品を発表。1966年に渡仏し、パリに拠点をおき版画制作に取り組み、やがてボンドによる造形に鉛筆の黒鉛を重ねた漆黒の作品で独自の境地を拓く。またインスタレーションやパフォーマンスでも個性を発揮し、87歳になる現在もパリで旺盛な制作を続けている。