「Broken Tulip(ブロークン・チューリップ)」の存在をご存知だろうか。花びらや葉に、通常にはない複雑な模様が入った個体のことを指す。17世紀のオランダでは、このブロークン・チューリップが人々を熱狂させ、球根が高値で取引された。とくに赤色に白の線模様が入ったものは「センペル・アウグストゥス(訳:無窮の皇帝)」と名付けられ、家が一軒買えるほどの価格で売買されたという。ところがある時、その価格は突然に急落し、関わった人々を混乱に陥れた。人類が初めて経験したバブル経済「チューリップ・バブル」の成り立ちである。
前置きが長くなったが、アーティスト・井上隆夫は、このブロークン・チューリップを採集し、アクリルに封入し、作品化している。
「それまでは物々交換で経済が成り立っていたのに、人々はチューリップをめぐり、物自体を得るのではなく、さらに利益を得ることを目的として投資するマネーゲームに手を出した。人々の欲望が超えてはいけないと思われていたラインを超えてしまった瞬間ーーそれを封入できればと思いました」。
清楚で可憐な花に現れた毒々しいまでに美しい斑模様。現在では、ウイルスが原因であることが判明し、発見され次第焼却処分されるのが一般的だ。しかし、繰り返し焼却処分しているのにもかかわらず、ブロークン・チューリップはいまだに絶滅することなく、世界中のあちこちで発生している。
「(作品を作るために)いくつかの生産者を訪ねたのですが、皆口をそろえて『うちにはそんなチューリップなんてない』と言う。実際、畑に行くと一定数見つけることができるのですが、『ウイルスにかかった花がある』とは認めたくないのでしょう。生産者のあいだではタブー視されているように感じました」。
一時は人々を熱狂させた花が、現在はひた隠しにされるような存在に変わってしまっている。そんな状況のなか、井上の意図を理解し採集を許可してくれたのは新潟の生産者だった。収穫時期の4月中旬頃になると、井上は毎年、採集へと出かけていく。
「花畑のなかに突如現れるブロークン・チューリップは本当に美しい。昔の人が翻弄された理由がわかる気がします」。
収穫されたチューリップは、すぐにアクリル加工の工場へと運ばれて加工される。生花をアクリルに封入するということは、技術的にも難しいことだ。花のかたちを整えて固定し、アクリルを流し込み、表面を磨き上げたり、あるいはマットに仕上げていく。井上が何年もの間、自宅で花と溶剤と格闘し、実験を繰り返すなかで導き出した独自の加工技術が、ここに生かされている。
井上は、20代から映画の撮影やコマーシャル撮影などの仕事を通してキャリアを積んできた。なぜ写真ではなく、アクリルという制作手法を選んだのか。その背景には、倉俣史朗の存在がある。
「仕事とは別に作品を撮りたいという思いがあり、興味深い被写体を探すなかでたどり着いたのが倉俣史朗でした。その作品はかたちの美しさだけではなく、根底に哲学やメッセージを含んでいます。とくに感銘を受けたのは『ミス・ブランチ』。バブル絶頂期につくられたもので、当時の状況への欺瞞や疑問を感じ取ることができました」。
《ミス・ブランチ》とは透明のアクリル樹脂にバラの造花が埋め込まれた、倉俣の代表作のひとつである椅子。井上は倉俣をリサーチしている際《ミス・ブランチ》を制作したアクリル職人と出会ったという。その職人の力を借りて、アクリルの作品を制作してみることにしたのだが、初めて制作したのはタンポポの綿毛を閉じ込めたものだったという。
当時は生花を封入することは難しく、2004年からトライし成功したのは2009年のことである。カメラマンとして平面的な映像を撮影するなかで、伝え漏れてしまうものへの違和感もあり、井上はアクリルの立体物を制作することに徐々にのめり込んでいく。春になると、東京にある家の周辺で、タンポポの綿毛を採取することが、いつしか習慣となった。
しかしながら、2013年、都内に生息するタンポポに異変が起こった。1つの茎から、丸いタンポポの綿毛の頭が2つ、重なり合っている個体を見かけるようになったのである。
「見てはいけない物を見てしまったような気持ちになりました。家に持ち帰って、しばらく眺めた後に、個人的な記録として封入することにしました」。
このような双頭のタンポポは、2013年から見つかるようになり2017年に最も多く見つかったのだという。
「かわいい、キレイという“モノ”をつくってきてきた中で、はじめは見ないようにしていたこのタンポポが、毎年出会っていく中で頭から離れることは無くいつしか自分の心に残るようになっていきました。その“声”がだんだん溜まってきて、自分も言いたくなって来たという感じです」。
井上の日本で初となる個展が、京都のnode hotelで開催されている。出展作品は29点。そのうち15点がブロークン・チューリップで、14点はタンポポの綿毛をモチーフとしている。すべてユニークピースで、先に述べた異形のタンポポも含まれている。
展覧会タイトル「小さなヴォア」は、レオス・カラックスの監督作で、役者が口には出さずに発している声「心の声(voix)」を元にしているという。様々な不安と隣り合わせの社会状況下で、人々のなかに安易に口に出せない考えや思いがあることを象徴しているかのような展示であった。
井上隆夫(いのうえ・たかお)
1970年生まれ。福岡育ち。1990年代からシネマトグラファーとして活動。倉俣史朗の人間性から影響を受ける。幼い頃から鏡の奥に見える世界が、穴の開いた映像のように感じていたことから、可視化されている世界とは別の存在をそのままに表現できる方法を模索。2004年以降、花が咲く時期を綿密に調べ各地でタンポポを採取し、アクリルへと封入する作品制作を始める。既存の価値観や体制の管理外にあるものへと目を向けている。
井上隆夫「小さなヴォア」展
会期:2021年10月22日 〜11月14日
会場:node hotel
住所:京都市四条西洞院上ル蟷螂山町 461
主催:wamono art contemporary、node hotel
https://nodehotel.com/