横尾忠則は1936年兵庫県西脇市生まれ。56年に神戸新聞社にデザイナーとして入社し、イラストレーターとして独立。81年から画家へ転身後、森羅万象におよぶ多様なテーマを描いた力強くアイコニックな絵画作品を国内外で発表してきた。2023年度文化功労者に選出。
2023年は、東京国立博物館 表慶館での個展「横尾忠則 寒山百得」展(9月12日〜12月3日)のほか、自身の老いと病、描く日々について綴った著書『時々、死んだふり』(ポプラ新書)、『死後を生きる生き方』(集英社新書)を発表するなど、87歳の現在も精力的な活動に繰り広げる横尾。聞き手に東京国⽴近代美術館主任研究員の成相肇を迎えたインタビューでは、描くこと、老いや死、アートとデザインの境界へと話が及んだ。【Tokyo Art Beat】
──「横尾忠則 寒山百得」展を拝見しました。寒山拾得という主題を固定して、描き方がどんどん変わっていくという作り方は、共通の主題にいろいろな画家が取り組み、自分なりの描き方を競い合った、江戸時代の美術のようにも見えました。
そういう見方は面白いなあ。僕は主題そのものはどうでもいいんです。すべての絵に寒山拾得が出てくるわけじゃないし、まったく違うものを描いたりもしていますから。固定化した様式も持っていないので、描き方はそのときの気分です。今日の気分と明日の気分は違うから、今日の描き方と明日の描き方が変わっても、むしろ自然じゃないかと思ってね。その変化が展覧会全体に表れたらいいなと思いながら描いていました。
──制作順に作品が並んでいますが、描き方は徐々に変化するのではなく、いきなりがらりと変わったりしますね。
たとえば2、3日続けて洋食を食べたとしても、次の日は和食になったり中華になったり、がらっと変わるじゃないですか。そういう生理をそのまま絵に置き換えているんじゃないかなって自分では思うんです。
──展示を見て、何より寒山と拾得が二人組であることが重要だと感じました。持物以外には特に決まったキャラクターが与えられていないふたりが、ふたりであるからこそ混ざったり遊びあったりする動きや展開が生じる。おのずと狂言回しになっています。
ひとりの人間の二重人格、分身、裏表と見ても面白いですよね。ふたりの方が、陰陽の世界とか、美醜とか、相対的な「ふたつでひとつ」になります。西洋はふたつを分離させて二元的になっちゃうでしょう。日本の場合は分離しない。むしろ一元的な裏表の感じがするんです。
成相さんは作品を多面的に見てくれるから、寒山拾得のキャラクターに近いのかもしれないね。見る人も寒山拾得になってくれるといちばんいいですね。
──横尾さんの近著『時々、死んだふり』では、「寒山百得」の制作期間に心筋梗塞を患われたことも書かれています。五感が衰えるにつれ、肉体に従ってアスリートのように絵を描くようになったと。
まず、腱鞘炎で手がうまく使えなくなりました。耳は当然悪いし、鼻炎もかなりきついし、目も朦朧としてきて、五感が全部「朦朧体」になっちゃった。五感が全滅で、残ったのは第六感でしょう。これは、まだ使えそうだなと思ってね。
──その第六感に身を委ねて、自我への執着から離れることを「死んだふり」と表現されているのが面白いです。
生き物って、みんな死んだふりをするんです。ミジンコみたいなちっちゃい虫も、サメみたいな恐ろしい魚も、身の危険を感じると死んだふりをするんだって。死とか生とか、我々人間はわかるけれども、ミジンコは知りませんからね。だから面白いなと思って。僕も昔、首を吊る自画像を描いたポスター(《TADANORI YOKOO》[1965])とか、お葬式の案内状(1967年の死亡広告[死亡通知])を出して、いま考えたら全部死んだふりだったんだなと思ってね。本当に死んでしまったら困るんだけどね。
──生命維持の本能からある意味逆の状態を選ぶのは興味深いですね。
人間のように複雑なことを考えないから、非常に単純でしょうね。我々はどうしても理屈をつけたり、計画を立てたりするけれども、ちっちゃな生き物っていうのはそんなことはしない。究極の理想的な生き方だなと感じますね。
──横尾さんは一貫して、脳に従わない、頭で考えないことを書かれていると思いました。体の言うことは聞いても、頭の言うことは聞かないという。
頭は自我とつながっているかもしれないけど、無意識に損得を考えるし、我々はそれによって振り回されるわけです。それを抑制する描き方は、やっぱり考えないことに近いんじゃないかな。考えるから苦しみも悲しみも怒りも全部出てくるわけ。で、それをコントロールしようとする。ところが人間の肉体は、つねったら痛い。熱いものに触れたら熱い。冷たいときは冷たい。頭と違って、痛いのに痛くないと嘘をついたりしない。肉体は正直だから、絵を描くときも肉体的になればいちばんいいんじゃないかなと。そのためには、なるべく考えから自由になるしかないと思ってね。
──完成した作品を見て、自分がつくったものではないような感覚がありますか。
全部が全部じゃないけどね。ある瞬間は、手わざで手が勝手に動いてくれたり、逆にまっすぐ引こうとした線が腱鞘炎でぐにゃぐにゃになったりする。それは自分の限界をちょっと超えてくれるなという気はしますね。
──展示のなかにも、震える線だけでできあがったような絵がありました。
あの絵はもう、最悪の状態のときだったんですね。できるだけ痛みに任せたから、ああいう線になっちゃうわけ。頭はまっすぐ線を引きたくても、体はぐにゃぐにゃになっちゃう。体は理性を持とうとしても持てないんですよ。だからそこは体に委ねたら、思いもよらないものができるんじゃないかと思ってね。
──マティスが晩年すごく長い筆を使って車いすやベッドから描いてたのを連想します。描き方の変化から新しい作品が生まれることがありますが、ご病気を経て発見したことはありますか。
それは観念的にやろうという意識が強すぎるとできないことだと思う。その意識を放棄してしまえば、経験も理性も知識も関係なくなっちゃうし、そのほうがやっていて楽ですね。
もしもっと体がひどい状態だったら、もっと面白いことができたんじゃないかな。もう足も動かない、なにもできない、それでなおかつ絵を描こうとしたら、もっと面白いことができると思うんです。いずれ歳とともにそういうときが来たら「お任せしましょう」と思っています(笑)。
──病に身を任せるいっぽうで、横尾さんは頻繁に病院を訪れることで有名です。
痛い原因、苦しい原因を知りたいために病院に行くんです。というのは、哲学的に「私とは何か」と考えるのは、頭の問題だから面倒くさいんですよ。でも、体の「私とは何か」を知ることも、どこかで哲学的な「私とは何か」とリンクしている気がするわけ。病院の先生のお話を聞いて納得すれば、それでいいんです。これがいまの僕なんだなと安心するし、治ったときの僕はまた違う僕になるだろうなと思います。
哲学的に自分を思想化して「私はこういう存在だ」って言うと、その存在のまま死ぬまでいくかもわからない。でも体のなかは毎日違うんですよ。そこに病院に行く楽しさがある。定期診断の予定がたくさんあるので、僕の1ヶ月はすごく忙しいですよ。
──ほとんどの人は「自分はこうである」という確固としたものが変化するのを怖れるのではないでしょうか。
僕は確固とした自分がないから、あんまり怖くない。子供の頃から非常に優柔不断で、与えられたことをやっているほうが楽なんです。
──西洋医学の考え方は「衛生」、つまり体を防衛し、ウイルスはとにかく排除するというものです。いっぽうで東洋医学は「養生」する。自然に従って異物をも受け入れ、なんとかやり過ごすという考え方です。
養生っていうのは病気になる前にやることですからね。西洋は病気になってから治療をしますよね。西洋と東洋の考え方の違いは、もしかしたらほかのジャンルにも共通するかもしれないね。
──僕の本『芸術のわるさ』でも書いたのですが、東洋医学には神農さんという神様がいて、野草を片っ端からなめて、薬効を見極めていくんです。いわばつねに病人で、体内に毒をどんどん取り込むんですね。神農さんのように異物を受け入れ、取り込んで積極的に変化するほうがきっと面白い。それは横尾さんが本に書かれたことにも近いと感じました。鉄壁のガードに基づく健康というのは一種の幻想で、良いものも悪いものも身の回りにあり、そのなかを身体が流れているという思考は当たり前でもあると思います。
非常に広大無辺なとらえ方で、僕もどちらかというと東洋人かなと思いますよね。だけど一方でね、歌舞伎や文楽、狂言なんかを観に行くと、僕は自分が西洋人の目で見ている感じがするんです。なんでもかんでも珍しいんです。書き割り、着物の色の組み合わせ、ちょっとした仕草まで。ストーリーは耳をそばだてて聞いてないし、聞こえないからわからないんです。そういうときは、非常に西洋的な見方をしているなと思いますね。
──横尾さんはコロナ禍に恐怖感はありませんでしたか。
ほとんどアトリエにいましたからね。人が来ることもなかったし、耳が悪いから電話が来たって誰かわからないし。描くことしかできないから、おかげで絵がたくさん描けました。
──いままでの社会的な危機では連帯の大切さが訴えられてきましたが、コロナ禍は人に会うことができず、共同体に頼れない、というか連帯することが危機に結び付き得るというかなり特殊な状況でした。
つねに外部と関係を持っている人は、僕みたいな生活はできなかったかもしれないね。僕は社会的存在に自分を置くことにはあんまり興味がなかった。坂本龍一くんみたいに、社会があって自分の芸術があるという考え方ではなかったです。
ヘルマン・ヘッセの「芸術家は政治に関わると短命に終わる」っていう言葉を読んだのが、ちょうどボイスが死んだときでしたね。やっぱり社会的な方に自分を向けると、創作のエネルギーはそっちに全部取られてしまう気がする。坂本くんにもヘッセの言葉を伝えたかったけど、彼ががんになって言えなくなっちゃったわけです。
坂本くんと会うと、いつも社会的、政治的なことに非常に興味が強かったですね。彼が芸術家でなければそれでもいいと思う。でも彼は芸術家で、政治的な考えや社会的な考えは作品に全部表れるわけだから、音楽に集中すればそれが反政治的な行為になるんじゃないかと僕は思っていました。
最後に坂本くんと会ったとき「あなた、政治とか社会的なことに興味があるのはなんで?」と質問したら、彼はずいぶん考えてた。「思想?」と訊いたら、思想じゃない、自分の性質がそれをやらせるんだと言うわけ。なぜか知らないけど、人が集まっているところに行きたくなるんだって。僕が「それってさ、ライブコンサートじゃないの?」と訊いたら「そうなんです。コンサート会場なんですよ」みたいなことを言っていました。
誰もが坂本くんは思想で動いていると思っていたから、そんな質問には初めて答えたんじゃないかな。僕は正直だと思いました。人がいると行きたくなる、それが性質ですよ。それでいいんです。
──横尾さんはかつてデザイナーとして活動後、いわゆる「画家宣言」をされましたが、今日のアートとデザインの境界についてどう感じますか?
日本はクロスしているところもあるけど、アメリカやヨーロッパではアートとデザインを完全に分けていて、人脈も完全に分かれていますね。それでいて「ハイ・アンド・ロウ」展みたいな展覧会もやるわけです。デザイナー出身の作家を嫌悪しながらも、認めざるをえなくて認めているんですね。そこはちょっと面白いし、非常に複雑な状況があります。
ウォーホルに会ったとき「横尾はへたくそだ」と言われたわけ。「デザイナーの尾てい骨を引っ張ってきてる。あんなもんなきゃアーティストになれるんだよ」って。自分はとことんデザイナーであることを隠蔽してきたけど「レオ・キャステリは俺のことを絶対にアーティストとは言わなかった。『あれはデザイナーだ』って」と話していました。
MoMAはウォーホルが亡くなるまで個展をやらなかったでしょう。あれもアメリカ的だなと思います。黙っていれば表に出てこなかったかもしれないバスキアを、いきなり現代美術の大スター、ポスト・アンディー・ウォーホルにしてしまったのも、コレクターに力があるアメリカにしかできないことですね。
日本は最初からアートとデザインの境界線が曖昧で、僕なんかはその曖昧なところにいました。そういう区別や差別は、この先20年のうちになくなるんじゃないかという気がするけど、成相さんたちの時代にはどうなると思いますか。
──僕は大学のクラスが別れている以上は混ざらないと思います。日本画というジャンルがなくならないのも、大学に日本画科があるからでしょう。
ある見方では非常に正しいかもしれないですね。日本芸術院にも、洋画と日本画はあっても現代美術の部門がなくて、僕はしょうがなく「建築・デザイン」に入れられたんです。洋画と日本画は厳然として力を持っているんですよ。日本もいまグローバルと言いながらも、どこかで分け隔てている気がしますね。
僕が描くものは、アートである、デザインであるという壁もなくなって「それはそれでいい」というようにしたいし、作品のなかでデザイン的なことをやったりアート的なことをやったりするけれども、もうその必要もないのかなと考えています。
横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年兵庫県西脇市生まれ。56年から4年間神戸新聞社にてデザイナーとして勤務。グラフィック・デザイナー、イラストレーターとして独立し、69年に第6回パリ青年ビエンナーレ版画部門グランプリ、72年にニューヨーク近代美術館(MoMA)にて個展を開催。81年から画家に転身し、国内外で作品を発表してきた。2015年に第27回高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。2012年には、出身地の兵庫県西脇市に自身の寄贈・寄託作品を保管、展示する横尾忠則現代美術館がオープンした。