映画監督として、今年度のアカデミー賞作品賞(『それでも夜は明ける』)を受賞した現代美術作家スティーヴ・マックィーンがエスパス ルイ・ヴィトン東京で個展を開催している。
まず映画監督としてのマックィーンの仕事を振り返ってみると、処女作である『ハンガー』では、イギリス政府のアイルランド系囚人に対する仕打ちに抗議するためにハンガーストライキを決行し死亡した、ボビー・サンズの生涯を描いた。続く『SHAME−シェイム−』では、セックス依存症の男を描き、アカデミー賞を受賞した『それでも夜は明ける』では、奴隷制度を扱った。どれもドキュメンタリーの要素を持った作品である。そして、今回一点のみ展示されている映像作品『Ashes』もまた現実にあった「事件」をさかのぼった作品である。
マックィーンは2001年にカリブのひとびとを撮影していた。その際に、たまたま撮影されていた映像の一部が『Ashes』である。映像には、ただ海を悠々と回遊する船の帆先に、褐色の肌の、Ashesというあだ名の男が淡々と写っているだけである。スーパー8フィルムで撮影された、ざらついた映像はノスタルジーを誘う。映像を見る私たちも、彼に会ったことがあるように感じる郷愁は、このフィルムの特性から引き出されたものだ。
そんな郷愁の通りと言うべきか、彼はすでに命を落としている。麻薬の売買に巻き込まれてしまったために殺されたことが、映像の裏にナレーションとして挿入されているAshesの友人の言葉から分かる。Ashesの顛末はその言葉を聞けば分かるのだが、字幕は付けられていない。マックィーンによれば字幕を排除することでより映像に注目して欲しかったという。まるで喪に服すように、私たちは懐かしさとともに男の姿を振り返る。
この撮影は、ヴィム・ヴェンダースやラース・フォン・トリアーの作品の撮影監督としてもで著名な、ロビー・ミュラーの手による。ドキュメンタリータッチでありながら、私たちにストーリーを読み込ませる。ビデオカメラのファインダーの先にいたAshesは亡くなり、その手前にいたロビー・ミュラーも今では老いて身体の自由を失ってしまった。そこで、私たちがドキュメンタリーとして見るものは、Ashesとロビー・ミュラーの間にある現実である。私たちはすでに失われてしまったその「間」にストーリーを読み込む。Ashesの無垢な笑顔と滑らかな肉体に魅了されながら、彼がそこに生きた物語を想像させられる。
このように、ドキュメンタリーとも物語とも捉えられる曖昧さが、マックィーンの作品の魅力だ。私たちは映像の美しさや、極端な長回しの映像に注目させられる。そして、注目するという行為がストーリーを読み込む想像力を引き出してしまうのだ。注目させられる時間に適した分量の物語から私たちが感じるものは、Ashesの人生に匹敵するのかもしれない。マックィーンの言葉を借りれば、「たった3行で人生を語る詩のごとく」、私たちはループする映像の中に、彼の人生を読み込んでしまうのである。
これまでエスパス ルイ・ヴィトン東京での展示では複数の作品が展示されてきたが、マックィーンは一点のみに絞った。この空間で私たちはそれぞれに、映像の中のAshesとの関係性を結ぶことができる。私たちはカメラになったように、被写体と撮影者を取り結ぶ。そこには感情は必要ない。ただ、広大な海の波に揺られるAshesのように、流れに身を任せ、そこから溢れる物語に耳を傾ける。静かな波の音がバックミュージックだ。