美術史家・美術館人・教育者として60年以上フロントラインを歩んできた高階秀爾氏が、今年4月に新設された大原芸術研究所(岡山県倉敷市)の所長に就任した。同研究所は、公益財団法人大原芸術財団(大原あかね代表理事)の中核となり、高階氏が長く館長を務めた大原美術館(倉敷市)と倉敷考古館の運営を行う。国内屈指の西洋近代絵画コレクションを擁する大原美術館の、新たなステップとして今後の展開が注目される。
1932年生まれの高階氏は、東京大学教授や国立西洋美術館館長などを歴任し、2002年に大原美術館の第4代館長に就任。昨年現館長の三浦篤氏(美術史家、東大名誉教授)に交代するまでの21年間、地元活性化にも貢献する同館のミュージアム活動を牽引した。卒寿を超え、評伝『エラスムス 闘う人文主義者』(筑摩選書)など著書の刊行も相次いでいる高階氏に、大原芸術研究所の理念や近況を聞いた。
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──大原芸術研究所が4月に誕生しました。公益財団名は「大原美術館」から「大原芸術財団」に変わり、別法人だった倉敷考古館と合併しました。大原美術館は1930年に開館した日本初の西洋美術中心の私立美術館、1950年に開館した倉敷考古館は遺跡が多い吉備地方の発掘調査も行う博物館です。大きな組織改編となりますが、芸術研究所はどのような役割を担うのでしょうか?
大原芸術研究所が財団の中心となり、大原美術館と倉敷考古館を運営します。先日の会見で代表理事の大原あかねさんが言われましたが、異分野の2館がタッグを組むことで展示活動や社会との連携、学術交流の幅を広げることができます。これまで以上にミュージアム活動を活発にして、いっそう地元に貢献できればと思います。両館併せて7人いる学芸員は研究員として活動してもらい、今後体制を増強していく方針です。
研究所設立のもうひとつの大きな目的は、研究活動の強化です。海外では、研究所が美術館を運営するケースは珍しくありません。たとえば印象派コレクションで知られるイギリスのコートールド美術館は、ロンドン大学の研究機関コートールド美術研究所の美術館です。アメリカのシカゴ美術館の正式名称はジ・アート・インスティテュート・オブ・シカゴで、じつは研究活動がメインです。同じような存在に、近づいていけたらと思います。
本館、分館、工芸・東洋館、児島虎次郎記念館(準備中)の4つの建物からなる大原美術館のコレクションは、非常に幅広い。エル・グレコやポール・ゴーギャン、クロード・モネらの西洋絵画はとくに有名ですが、エジプトなど古代オリエントの優品、日本の古書画や近現代美術、中国などの東洋美術、民藝運動の作品など、時代も地域もジャンルもきわめて多様です。また、作品の関連資料や記録文書、美術関係の書籍もかなりの数に上ります。
大原美術館コレクションは、明治~大正期に画家の児島虎次郎が、倉敷出身の実業家・大原孫三郎に「日本のために」と願い出て、留学先のヨーロッパやエジプト、中国で収集した作品が礎になりました。孫三郎の息子の總一郎は、同時代の海外作家の作品や日本の近代洋画を収集し、民藝運動の作家たちとも交流しました。その後も継続的に作品の収集が行われ、広汎なコレクションが形成されました。
そうした所蔵作品と資料をさらに生かし、より研究面を深掘りできるような体制を整えていこうという話は数年前から出ていました。図書館やアートリサーチセンター、作品の修復施設を作るなど様々な案があって、内容を精査しています。そのためのスペースも必要になりますが、美術館も考古館も国が指定する重要伝統的建造物群保存地区にありますから、簡単に新設したり改修したりできません。行政や国と相談しながら進めているところです。
──どのような研究活動を想定されていますか。
コレクションがまず中心です。作品の美学・美術史的な探求は大事にしながら、さらに多様な視点からの研究活動を期待したいですね。たとえば、作品と同時代の音楽・文学との関係性を調べたり、ダンスなどのパフォーマティブアートの影響を分析したりといった、領域横断的な研究は今後ますます重要になっていくと思います。
研究所では、国内外の研究者が集まれる機会をなるべく作り、様々な人がともに話して思考を深め、一緒に成長できる場所にしたい。研究成果は、展覧会などを通じて広く一般の方にお伝えし、新しく得た知見を皆さんと共有できる機会もつくりたいと思います。
──音楽の話が出ましたが、音楽家を招いたギャラリーコンサートを作品が展示されている室内で行うなど、大原美術館では以前から積極的にミュージアム活動に取り入れている印象があります。
ギャラリーコンサートは、1950年に開催したのが最初だったそうです。現在は新型コロナウイルス感染症拡大防止のためにやめていますが、年に数回継続的に行われてきて、2020年の時点で計157回になりました。
2007年に始まった若手作家の企画展「AM倉敷(Artist Meets Kurashiki)」では、作家が倉敷で制作した作品の前で音楽家が演奏したり、ダンサーが踊ったりといった関連イベントを行いました。展示室で名画に囲まれてヨガをするイベントもお客様に大変好評です。インド発祥のヨガは健康法として人気がありますが、身体と精神を調和させる「芸」として館では捉えています。美術館という枠にとらわれず、こうしたユニークな試みをフレキシブルに行えるのが私立館の良いところです。
大原芸術研究所では、「芸術研究は人間研究である」をコンセプトに掲げています。芸術の領域は非常に広く、美術だけを凝視していると視野が狭くなりがちです。様々な分野の研究者が集まり、創造的な研究が生まれる場になってほしいと思います。
芸術を研究することは、それが創り出された時代と場所、創り手を理解し、「人間とは何か」という根源的な問いに答えることでもあります。人間は総体的なものですから、一部だけを追求しても解答は見つけづらいでしょう。芸術を大事にすることは、人間を大事にすることに直結しているんです。
──高階さんは大原美術館と元々どのようなお付き合いがあったのでしょうか?
初めて訪れたのは、1959年に留学先のフランスから戻り、上野の国立西洋美術館に勤めていた頃です。外国から訪れた友人と関西を回った時に足を延ばしました。色々な作品があるなという印象で、とくにポール・セリュジェの《2人のブルターニュ人と青い鳥》は記憶に残ってます。
71年に東大の教員になってからは、学生たちを連れた研修旅行でたびたび訪れました。奈良や京都で仏像や寺院を拝見した後、倉敷まで行き、館所蔵のアンリ・マティスやエル・グレコらの作品をじっくりと見ました。当時、関西方面で西洋美術をまとまったかたちで見られるのは大原美術館しかありませんでした。海外の作家や評論家を案内することも多く、画家のバルテュスが来日した時も一緒にうかがいました。
2000年に西洋美術館館長を定年退官し、しばらくはフリーでした。大原美術館とは、西美のときも大学のときもずっと縁があり、その間に大原謙一郎さん(財団第4代理事長)と親しくなりました。第3代館長の小倉忠夫さんがご年齢で退職される際、「当館のコレクションをよく知っている方にお願いしたい」と大原さんに依頼されて、ではお手伝いしましょうかということで2002年に館長に着任しました。
──館長就任時に、これから大原美術館をどのようにしたいと思われましたか。
大原(謙一郎)さんとよく話したのは、美術館の使命です。第一に芸術作品を保存し、継承していく。それも過去の名作だけではなく、現在のもの、つまり未来に残すべき作品を見出して守っていく。そして、それを鑑賞者に提供する。日本人、外国人、大人、子供、なるべく多くの方に見ていただく。それにより、美術に対する関心や理解が倉敷から岡山へ、さらに日本、海外へと地理的にも広がっていきます。
いっぽう、鑑賞される美術作品には時を経た歴史があります。制作された時代や場所、文化もじつに多様です。いわば時間と地理の十字路にあるのが美術館なのです。
その意味で、異文化交流の場としても美術館は非常に重要です。僕は、なるべく多くの外国の方に大原に来ていただいて、交流する機会を作るようにしました。文化の違いは、美術作品の鑑賞の仕方一つとっても現れます。
たとえば、海外から来館した方は、展示室にパーテーションがないと近寄って作品を触りそうになることがあります。野外に設置された石碑や摩崖仏などに親しんできた方にとって、美術品に触れるのは絶対的な禁止事項ではなく、大事なものだと感じるからこそつい手を伸ばしてしまうケースもあるわけです。そうした背景が分かると、むろん作品に触るのは困りますから鑑賞ルールは説明して守っていただきますけれど、相手への接し方は変わりますよね。美術館は、そうした異文化理解の装置でもあるんです。
──館長在職中、とくに印象的だった出来事や取り組みを教えてください。
僕が行ってまもなく、お子さんを連れた若い女性とたまたまお話しする機会がありました。その女性は20年前、子供の時に大原美術館に親御さんと来たことがあり、当時は良さがよくわからなかったけれど、前を通りかかったら懐かしくなって、今度は自分が子供を連れてきました、と言われました。
そうお聞きして僕は非常に嬉しかった。多分、そのお子さんも将来は自分の子供を美術館に連れてきてくれるでしょう。美術館の役割は色々ありますけれど、本質はそういうものだと思います。美術館は、決して過去の作品が並ぶ死んだ場所ではなく、各時代の様々な立場の人間がつなげていく生きた場所なんですね。
私たちは過去の時代や社会、文化を体験することは叶いませんが、それらのいわば生き証人が美術作品です。黙している作品から語りを聞き取り、皆さんにお伝えするのが、我われ美術史家や学芸員の役目で、その主要な舞台になるのが美術館だと思います。ただ、大人だけを対象にしていては、美術館は循環的に存続していけませんから、子供に対する教育普及活動は非常に大切です。
大原美術館では、近隣小学校の全児童が休館日に来館し先生が展示室で授業を行う「まるごと美術館」や、市内の保育園・幼稚園との協働プログラム「おさんぽ美術館」など様々な取り組みを行っています。
とくに思い出深いのは、在任中に行われた「チルドレンズ・アート・ミュージアム」(2002~19)です。夏休みの2日間、美術館を子供たちに開放するお祭りのようなイベントで、アートに親しめる様々な体験型のプログラムを用意しました。そうすると、展示作品をスケッチして後から好きな色を加えたり、モネの睡蓮の絵を見てカエルの物語を考えたりと、子供たちから自由な発想や面白いイマジネーションが出てくるんです。子供のときに、まずアートは自由で楽しいものだと感じる機会があれば、美術館に足を運ぶ人はもっと増えると思います。
若手アーティストの支援・育成では、毎年1人の作家を招く滞在制作事業「ARKO(Artist in Residence Kurashiki, Ohara)」を2005年に始めました。当館の礎をつくった児島虎次郎の旧アトリエで制作してもらい、完成した作品は美術館で展示して、優れたものは収蔵しています。昨年は、画家の谷原菜摘子さんが地元に伝わる温羅(うら)伝説と竹取物語から着想したとても面白い作品を制作してくれました。
──大原美術館がある倉敷は、市民のまちづくりや歴史、文化への関心が高いと聞きます。
それは、かつて江戸幕府直轄の「天領」だったからです。そのため商人は比較的自由に商いができ、水運の便にも恵まれて、周辺の干拓地で栽培された綿などの集積地として栄えました。そうして富を蓄えた豪商たちが建てた蔵屋敷が現在の美観地区に並んでいます。そういう歴史と伝統がありますから、やはり自分たちのまちと文化を守ろうという意識は強いと感じますね。
──最近の著書について伺わせてください。昨年、評伝『エラスムス 闘う人文主義者』(筑摩選書)を刊行されました。専門の西洋近代美術に留まらず、現代美術や日本美術など大変広汎な執筆活動を行ってこられましたが、本書は有名な人文主義者のデジデリウス・エラスムスが主人公です。ハンス・ホルバインが描いた肖像画はよく知られていますが、専門の美術史とは直接関わりはありません。原稿を執筆されたのは1970年代だそうですが、エラスムスに関心を持ったのはなぜでしょうか?
エラスムスが生きたのは宗教改革がおこり、世俗の権力と教会が対立した、争いが絶えない時代でした。そのなかでエラスムスは、宗教改革の精神に共感しながらも、指導者ルターの過激さを増す教会批判には異議を唱えました。いっぽう、軍隊を雇い武装した教皇ユリウス2世をはじめ世俗に塗れたカトリック聖職者も敢然と批判しました。人文主義の立場から、つねに対話を重んじ、血を流す争いに反対して、終生学問に打ち込みました。特定の派閥に属することなく、剣でなく理性と言葉を武器に、自分の信条を貫こうとしました。
1971年に僕は国立西洋美術館を辞め、東大で教鞭を取るようになりました。69年の東大全共闘による安田講堂占拠と入試中止から2年経っていましたが、まだ学生運動の余燼がくすぶって、落ち着いて授業や研究ができない状態でした。本務以外に学長の補佐をするように言われ、何をしたかと言えば、ゲバ棒を持った学生たちの話を聞くことでした。僕は懸命に話を聞いて対話の糸口を作ろうとするんだけど、相手は聞く耳を持っていないし、下手すると殴られそうになる。まったく対話が成立しなくて、やるせなかった。
そんな騒然とした時期にエラスムスの著作や研究書を読み込みました。エラスムスが生きた時代とそのときの時代状況が重なって感じられ、身につまされたし、彼の生き方に共感を覚えました。折しも雑誌から寄稿の依頼があったので、エラスムスと彼が生きた時代をテーマに選びました。
──エラスムスは、学者として一つの理想ですか。
まったくそうですね。研究者として自分もそうありたいと切実に思いました。今回、半世紀ぶりに当時の連載を本にまとめることができましたけれど、いまの社会状況はエラスムスの時代や僕が経験した1970年代初頭の感じにちょっと似通っている気がしますね。
──それは、どのようなところでしょうか。とくにSNSの世界で顕著とされる、異なる意見は聞かず、あくまで自分の意見を押し通そうとする姿勢ですか?
ええ。対話が成立しづらい世の中になってきたと感じます。社会問題として見れば、別の視点があると思いますけれど、そうした傾向が学問の世界でも出てくると色々と困った問題が生じてきます。
──大原芸術研究所は、そのコンセプトに「芸術研究は人間研究」を挙げています。これは人文学の目的でもありますが、現代においてあらためて統合的な研究や思考が求められているとお考えでしょうか。
そう思いますね。非常に大雑把に言うと、19世紀以降は「パート」(part、部分)が重視された時代でした。ある部分がわかれば全体にも敷衍できる、という考え方ですね。
わかりやすい例を挙げると、19世紀に誕生した「デパート」(depart)。あれは、元々は品物を部門別に分けた売り場がありますよ、という意味です。でも日本では、様々な品物が一つの店にあるという意味合いの「百貨店」と翻訳されました。やはり19世紀の欧米で発達した「アパートメント」(appartment)は、本来は個別の独立した住居が備わっている意味ですが、日本では「集合住宅」と言いますね。なぜ日本語になると、こんなにニュアンスが変わるのかは、面白い現象だと思います。
それはさておき、これからの芸術研究は、もっと総体的に考えなければいけないんじゃないでしょうか。社会の複雑さは増していて、複眼的な視点や思考法を持つ努力をし続けないと研究者は取り残されてしまいます。自然科学分野は、領域横断的な研究の重要性が指摘されていて、人文分野の研究も今後さらに見直しが進むと思います。
──昨年は、1969年に初版が刊行された『名画を見る眼』(Ⅰ・Ⅱ、岩波新書)のカラー版も出ました。半世紀近く読み継がれてきた西洋美術史の入門書で、私もそうですが、同書をきっかけにアートに関心を持ったり、美術史の道に進んだりした人は多いと思います。いま美術鑑賞の手引書は、数えきれないほど書店に並んでいますが、その魁(さきがけ)とも言える存在です。
いまも多くの方に読んでいただけるのは、とてもありがたいことです。図版がカラーになったので、僕の解説もより分かりやすくなったと思います。出版当時はまだ西洋美術史の入門書は少なく、あの本を入口に作品を読み解く楽しみを知ってほしいと考えて書きました。主題の物語や画家の意図と様々なエピソード、時代背景をなるべく平易に説明して、通読すれば油彩画の誕生から抽象絵画までの西洋美術の歴史も概観できるようにしました。
──これから美術史を学んだり、美術の仕事に携わったりしたいと考えている若い方にアドバイスをいただけませんか?
僕から言えるのは、たくさん美術館に行って、なるだけ多くの作品を見て、たくさん本を読んでくださいということ。そして、まず自分で考えることを大事にしてください。
高階秀爾
たかしな・しゅうじ 1932年東京生まれ。東京大学卒。同大学院在学中の54年、フランス政府招聘給費留学生として渡仏し、パリ大学付属美術研究所とルーヴル学院で西洋近代美術史を専攻。帰国後の59年から国立西洋美術館勤務、後に主任研究官。71年東京大学文学部助教授、79年教授(92年退官、現在名誉教授)。1992~2000年国立西洋美術館館長、2002~23年大原美術館館長。2020~23年日本芸術院院長。2001年レジオン・ドヌール・シュヴァリエ勲章、2012年文化勲章を受章。主著に『ルネッサンスの光と闇―芸術と精神風土』(上下、中公文庫)、『20世紀芸術』(ちくま学芸文庫)、『増補 日本美術を見る眼』(岩波現代文庫)、『日本人にとって美しさとは何か』(筑摩書房)、『ニッポン・アートの躍動』(講談社)など。