公開日:2010年2月10日

飯田裕之「衝動の落語」展

パンクの精神「DO IT YOURSELF」が息づく「衝動」のチンピラ落語

美術評論家、福住廉による連続企画「21世紀の限界芸術論」vol.5 飯田裕之「衝動の落語」展がギャラリーマキにて10月16日から31日まで開催された。福住による「21世紀の限界芸術論」は、一般的な現代アートの展覧会とは違い、有名、無名を問わず、アーティストという自意識で制作活動をしている人は取り上げないことが特徴だ。

過去には、ガンジ&ガラメという福岡の繁華街の路上で「宇宙王子サンパクガン」というハリガミマンガを勝手に連載していた二人組や、高円寺で古着屋を営みながら様々なイベントを企画し、多角的な活動を展開する素人の乱に所属する山下陽光を取り上げている。

鶴屋一門チンピラ落語

福住によると『限界芸術』とは、アマチュアが発信したものをアマチュアが受信する、あらゆる生産活動を指すそうだ。展覧会では作品を見せるというよりは、どちらかと言えば、その人物自身を紹介することが多い。トークショーやイベントを数多く企画し、彼はその人となりやキャラクターを見せようとしている。今回の「飯田裕之 衝動の落語」展でも、会期中の毎週末には、飯田裕之が率いる素人落語の一派「鶴屋一門」によるチンピラ落語が開かれた。

8畳ほどのマンションの一室。若い芸妓が描かれた掛け軸や書など飯田が描いた作品が飾られ、前方中央には手作りの高座。その奥には刀や寄席太鼓などが配置され、ギャラリー空間が即席の寄席に変わっていた。だが、それは噺家の細かな表情や仕草を見分けられるように煌煌と照らされた照明の下で行われる通常の寄席とは違う。行灯のわずかな明かりの下で行われる飯田のチンピラ落語は、今に継がれる落語家の初代が多く活躍した江戸時代の雰囲気を再現しようとしたのかもしれない。突如、隅田川のほとりに現れた飯田の寄席空間は江戸時代とも現代とも似つかない独特の雰囲気を醸し出していた。

通常の寄席ではお弁当を食べながらリラックスして鑑賞できるが、チンピラ落語も例外ではない。美味しい料理が振舞われ、観客は小腹が減っては噺家がつくった料理を自由に食べながら、あるいは酒を飲みながら、落語を待つ。それとは対照的に厳ついパンクスたちが着物を羽織り、神妙に自分の出番を待つ。出囃子がラジカセから鳴ると、いよいよ噺家の登場だ。

普段落語など聞かないような層の観客達が狭い空間で肩を寄せ合いながら、熱心に耳を傾け、落語に興じていた。中盤になると客も増え、室内は満員状態。高座と観客との距離はもうわずか数十センチほどしかない。完全にアウェーに等しい会場。そこで落語を披露するだけでも相当緊張するに違いないが、それ以上に距離の近さが精神的な重圧をかけていた。

震える声や時折見せる落ち着きのない指先で、彼らが緊張しているのが十分に伝わってくる。中には自分の噺を途中で忘れてしまう者もいた。しかし、忘れたことをネタにして笑いをとろうとしたり、噺を途中で放り投げたりせず、最後まできちんとやり通すことに一生懸命だった。お世辞にも上手いとは言えない落語ではあるが、真剣に観客に噺を聴かせようとし、自分の噺に責任を持つ態度に清清しさを感じた。その一生懸命さにいつしか観客も惹きつけられていった。

鶴屋一門チンピラ落語

飯田裕之とは一体どんな人物なのか? 展覧会資料によると、グラフィック・デザイナーとして活躍する傍ら、音楽やグラフィティ、ファッションといったストリート・カルチャーと伝統文化の間を縦横無尽に駆け抜ける、稀有なアーティスト、とある。パンクバンド「切腹ピストルズ」のリーダーとして音楽活動を行い、時に素人落語の一派「鶴屋一門」のリーダーを務めているのだ。

何の期待もせずに観た落語に魅了され、落語は大人としてそれなりに魅せられる遊びだ、と確信した飯田。街中、どこに行っても音楽があふれる現代では、親しい人と話すときや、仲間で集まったときでさえ、音楽がないと間がもたなくなってきてはいないだろうか? そんな状況に疑問をもった飯田は、それならば純粋に話を楽しむことが出来る遊びこそ、落語ではないのか、と思ったそうだ。ならば、自分たちで落語をやってしまえ、とパンクの精神「DO IT YOURSELF」にも通じる動機と行動力でチンピラ落語を開くことになった。

チンピラ落語の噺家たちはもともと落語好きでも、経験があるわけでもなく、ある日突然、飯田から「落語をやれ」という指令を受けた。こんな理不尽なきっかけでも、彼らは人前で落語を披露できる程度までに練習を繰り返し、これまでに何度か落語を披露している。

ところで、行灯のわずかな明かりで行う落語と先ほど述べたが、それは落語を「見せる」表現をそれほど重要としていなかったからなのだろう。飯田は声質や抑揚、言葉遣い、テンポ、空間が作りだす全体の雰囲気でもって話を純粋に「聞かせる」、あるいは「聞いて」楽しむ遊びがしたかったのではないか。そしてそれは結果的に「伝統芸能」ゆえ落語が持つある種の特権階級的な性質を崩し、誰もが楽しめる限界芸術へと発展させた。つまり、煌煌としたスポットライトの下で行われる落語をここで披露していたならば、噺家の「見せる」表現ばかりが注目され、噺家は落語の伝統的所作や、日本語の構成の美しさや面白さとそれを補うための表情などを、消化して表現しなければならなくなるし、見る側はその難しさを再認識させられることになる。

だが、飯田が作り出した会場は照明を極力落とし、噺家たちの表情やしぐさの細部までは読み取ることが出来ない。よって、「伝承された芸能」を見せることについてはさほど重要ではなくなる。彼らが作り上げる落語の世界観を楽しめばいいのだ。すると、本来の形式に捕らわれすぎない落語の楽しみ方が生じる。観客の中には、自分も落語をやってみたいだとか、もっといろいろな落語を聞いてみたい、というような衝動が生じるかもしれない。

鶴屋一門チンピラ落語

21世紀の現代において、「限界芸術」の可能性を福住は自身の著書『今日の限界芸術 』の中でこう語る。限界芸術の可能性とは、環境破壊を生む熱のさなかにあって、その熱に打ちひしがれながらも、それとは別の熱を身体の中で育み、それを他者に伝えたり、他者から伝えられたりすることによって、暮らしをより深くより美しく変容させていくことにある。それを繰り返していけば、結果的に「芸術」概念を根底から再編する革命へとつながっていくのではないだろうか。そこに、貧しい時代を豊かに生きなければならないぼくらにとっての希望の原理があるはずだ、と。

正直、私は今回のチンピラ落語を見るまで落語に興味などなく、派手なパンクスたちが繰り広げるミスマッチな「落語ごっこ」というものに興味を持っていた。しかし、実際にチンピラ落語に足を運んでみると、パンクスたちが話す落語が想像していた以上におもしろく、感心した。会場にはもともと落語が好きで、最初から彼らの落語が目的で来た観客はどのくらいいただろうか。もしかしたら、ほとんどいなかったのかもしれない。にもかかわらず、チンピラ落語を聞いたあとに改めて落語に興味を持ち、本物の落語を聞いてみたいと思った人が会場には大勢いた。落語熱に打ちひしがれたパンクスたちが、観客にその熱を伝え、観客は落語を見たい、落語をしてみたい、と衝動に駆られたのであれば、そこに福住の言う限界芸術が存在していたのではないだろうか。

参考リンク:Youtubeより 切腹ピストルズPV http://www.youtube.com/watch?v=glE1Wvt9kzY (動画)

Miki Takagi

Miki Takagi

横浜生まれの横浜育ち。アートとは無縁の人生を送ってきたが、とある企業のイベントPRに携わった際、現代美術と運命的な出会いを果たす。すぐれた作品に出会うとき、眠っていた感覚や忘れていた感覚が呼び起こされる、あるいは今までに経験したことのない感覚に襲われ全身の毛孔が開くような、あの感じが好き。趣味は路地裏さんぽ。