アーティストの奈良美智は、青森県立美術館で2月25日までの展覧会「奈良美智: The Beginning Place ここから」のプレス内覧会で担当学芸員の高橋しげみ(青森県立美術館)に対して次のような感謝の言葉を語り、また、ロングインタビューの取材中も、高橋の存在なくしては本展が実現しなかったという話が度々聞かれた。
「高橋さんには感謝です。自分の中のずっと下のほうにあって、めくってもめくっても辿り着けなかったものを(この展覧会で)高橋さんが見せてくれた気がした」。
高橋は奈良と同じ青森県に生まれ、弘前大学在学中のイタリア留学を除けば現在までずっと同地を離れることなく活動を続けてきた。現時点では、同館に所属する学芸員のなかで唯一の青森県出身の学芸員でもあるという。
本展をひもとくうえでのキーパーソンでもある高橋に、本展の裏側、奈良と青森への思い、学芸員としての使命について話を聞いた。【Tokyo Art Beat】
──現在開催中の「奈良美智 The Beginning Place ここから」展は、奈良さんの創作の原点を様々な角度から浮かび上がらせる展覧会です。奈良さんは、この展覧会は同じ青森出身の高橋さんが担当だったからこそできたものだとおっしゃっています。故郷が大きな鍵となるこの企画を、高橋さんはどのように発想されたのでしょうか。
青森県立美術館では、2012年から翌年にかけて奈良さんの個展「君や 僕に ちょっと似ている」が巡回開催されました。当時、10年後にまた個展を行うとしたら、ほかからの巡回企画ではなく、自分たちの企画でやれたらいいなと夢想していました。
奈良さんは、2000年のドイツからの帰国後、出身地の弘前市を会場にした展覧会を何度か行っていますが、自作への故郷の地の影響のようなことはご自身では積極的には口にしてこなかったし、周囲の人々によるそのような語りも、どちらかというと避けられる傾向にありました。というのも、そういう語りはしばしばお国自慢的な狭隘な地域主義の精神に基づいている場合があるからです。奈良さん自身も、高校卒業後に弘前を出てからは、長らく故郷からの逃走の姿勢を崩すことはありませんでした。
そこに、少し変化が見られるように感じられたのが、2011年の東日本大震災の後のことでした。震災は、ご自身も繰り返し語っているように、それまでの価値観や作品制作に対する考え方の変革を迫るような、作家人生においての大きな出来事でした。もともと奈良さんの作品は、子供の頃の記憶や感覚を核としながら生み出されるもので、過去の想起は創造の営みにとって重要なものでしたが、震災後はその過去への遡行が、個人史だけでなく、それを支えるより大きな歴史へと変質していった感があります。樺太やアイヌ民族の歴史といった「北」への関心が強まっていったのも、それ以降のことです。
──つまり、東日本大震災が、この展覧会につながる大きなターニングポイントだったのですね。
はい。奈良さんの辿ったそうした経緯は、東日本大震災という歴史的な出来事を体験し、その後の時代をいかに生きるかが問われたアーティストの変化として、非常に重要なことだと私は受けとめています。奈良さんは、震災のような負の出来事と真摯に向き合い、そこから多くのものを学び、それを時間をかけながらも実際の創作行為に反映しようとしてきた、いまもそうしている、もっとも誠実なアーティストのひとりです。そして、創作態度が震災のような出来事を消費するものであってはならないと、つねに自分に言い聞かせていると思います。そうした震災後のより一層の思索の深まりやそれに伴う活動の広がりを見せることが、この展覧会のねらいのひとつでした。
──実際の展示も、奈良さんというひとりの人間像に迫るような内容でした。
奈良さんが東日本大震災を機に、いろいろなことを反芻するなかで、自然に自分のルーツである故郷に足が向いていった。その流れに沿うように、今回の展示も構成しました。震災の前だったらできなかったと思います。現存作家の個展の場合、作家と二人三脚で企画していくようなところがあり、奈良さんが故郷と向き合い始めたいまが、今回のような内容で展覧会をつくるいいタイミングだと思いました。
今回学術協力で加わってくださった横浜美術館館長の蔵屋美香さんからも、作品を展示するだけではなく資料的な要素を組み合わせた展示など、キュレーションのいろんな知恵を授かり、また、作家の主張に負けないようにと(笑)、いつも励まされました。
私はコンセプトやテーマは考えましたが、実際に形にしていったのは奈良さんです。鼻歌をうたいながら、ひょいひょいと額を手に取り、次から次へと作品を完璧にレイアウトしていく様は、魔法を見ているようでした。あのように空間の特性と展示の内容を高度に共鳴させるような展示は、私にはできません。最後は彼の人並外れた展示力に救われた展覧会でした。
──展示を振り返ってみて、何か新しい発見はありましたか?
青森県立美術館は、1990年代から奈良さんの作品を収集し、現在その数は170点を超えます。この展覧会にも、当館のコレクションから多くの作品を展示しています。とくに初期作品を含む80年代から90年代にかけてのコレクションが充実しているのですが、今回奈良さんご自身のコレクションや国内のほかの美術館、海外のコレクターからも作品をお借りしながら、近い時代もしくは近いテーマの作品と並べてみることで、奈良さんの画歴の中で当館の収蔵品一つひとつが持つ意味があらためて実感されました。とくに初期作品に見られる「家」のモチーフやコラージュ的な要素は、彼の絵画作品に一貫するものを語るうえで非常に重要な役割を担っています。
──奈良さんが高校時代に関わったロック喫茶「33 1/3」(通称33)を再現した最終展示室は意表をつきました。なぜ店自体を再現しようと思われたのですか?
私には、奈良さんが弘前で見ていた風景に近づきたい、弘前で過ごした時間を身を持って体験したいという気持ちが強くあったんです。それでロック喫茶の再現という発想が出てきました。店内で音楽を聴いていると、本当に学ランを着た高校時代の奈良さんに会えるような気がします。ここまで上手くいったのは、たった数枚の写真を穴が開くほど読み込んで、奈良さんをはじめ当時この店に関わった人達に感情移入しながら作ってくれた、ミラクルファクトリーの青木さん達の力が大きいです。
それと、この発想の源には奈良さんも関わっています。青森県立美術館で、2016年に澤田教一という青森出身の戦場カメラマンの個展を開催したとき、展示をご覧になった奈良さんが、自分だったら最初の展示室は、澤田と、彼のカメラマンとしての歩みのきっかけを作った奥さんの澤田サタさんが出会った場所、三沢米軍基地のカメラ店を再現した空間から始めるだろう、というようなことをおっしゃったんです。そのとき、なるほど作家の世界に引き込むためにそのような発想をするのか、と目が開かれる思いをしたことがずっと心に残っていました。それが今回のアイデアにつながっています。
──奈良さんに「ロック喫茶がなければ、いまの奈良さんはいなかった」とまでおっしゃったそうですね。なぜロック喫茶「33 1/3」は、それほど特別な場所だったんでしょうか。
2年間店長をされていた伊藤恵美さんはじめ、中心にいた方々が当時のことをすごくよく覚えてらして、資料も大事に保管されていました。恵美さんは、「人には捨てられないものってあるでしょう?」とおっしゃっていましたが、それほど33は、関わったみなさんにとって忘れ難い大事な存在だったんだと思います。1977年から80年代半ばまでとごく短期間でしたが、音楽の力を信じられた時代に、アンテナを張った学生や大人達が集まって音楽や文学の話をするようなコアな場所だった。そこに奈良さんがいたということが大きな出来事だったと思います。
常連客が一緒にハイキングに行くなど、いまでは考えられないような濃いつき合いが33にはあったようです。当時は60年代の挫折感をかかえたヒッピーの精神のいい部分が残っていて、弘前の70年代カウンターカルチャーの磁場のひとつがそこにはあった。奈良さんが言うには、全国を流れ歩くヒッピーの人達との出会いからも大きな影響を受けたそうです。彼らはねぷたの時期にねぷた小屋に集まってきて、お酒を飲んだりして地元の人達と交流していったようです。その後、場所も人もだんだん変わって、コミュニティもなくなり、バブルの時代に入ると日本自体が変わってしまった。私も弘前で育ちましたが、ロック喫茶のことは存在すら知らなかったです。
──そのロック喫茶と並ぶハイライトが「No War」のセクションです。部屋全体を《平和の祭壇》と名付けたのは高橋さんだそうですね。
一晩で考えました。奈良さんが用意した作品のほとんどを展示されたので、いっそ部屋全体をひとつのコンセプトのインスタレーションにしましょうと提案しました。奈良さんが人形を配置しているときに、これは祭壇のイメージで、《I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.》(2001)の下のおもちゃは、その祭壇から子供たちが出かけていったような感じになるかな、とおっしゃっていたんです。奈良さんはああいう人形や小物を、見えない存在とつながる接点としてとても大事にしているような気がしていて、この世のものじゃないものとつながる祭壇という名前はふさわしいなと思いました。
奈良さんは、報われずに命を落とした死者たちや小さいものの存在をつねに念頭におきながら制作しているように私には感じられます。戦争や世の中の悲劇にとても敏感で、そうした出来事の中で犠牲になる人達にいつも目を向けようとしている。《春少女》(2012)が脱原発運動でバナーとして掲げられたのも、大衆が犠牲者達の肖像写真を持ってデモでプロテストするイメージと重なって見えます。
──この展覧会のタイトルからは、はじまりの場所や故郷など、様々な連想が広がります。高橋さんは、奈良さんの中にある故郷とはどのようなものだとお考えですか?
奈良さんが「故郷」と言うとき、それは何か地理的に固定された具体的な場所からは遊離したものを指していると感じます。たとえば、奈良さんは2002年にアフガニスタンを旅したとき、そこで出会った遊牧民に「遠い親戚に再会したような気持ち」を抱いたというようなことを口にしています。このような言葉から、奈良さんの中の故郷とは、生まれた土地を突き抜けて、自分という存在の根源的な場所を指すようにも思えます。かと言って、矛盾するようですが、生まれた場所もまったく無関係なものだとも考えません。弘前で過ごした幼い時期に心や身体に刻まれた空気や光、音や匂い、個人的な記憶の風景の総体が、ある意味奈良さんにとっての故郷だと思います。それらは、はかない一時的なものでもあるのですが、ある時代にその場所に確かにあったものと深く結びついているとも思います。
──高橋さんが奈良さんと共有されている津軽らしさとはなんでしょうか?
「津軽らしさ」を問う姿勢そのものを問うようなところでしょうか(笑)。津軽らしさかどうかわかりませんが、ある種の「屈折」を抱えているところかなと思います。僭越ながら。
──この展覧会を通じて、高橋さんが最も伝えたかったことはなんでしょう。
この展覧会では、奈良さんの感性を育んだ場所が何か特別なところだったと言いたいのではありません。弘前は城下町として知られていますが、奈良さんが育った場所は歴史ある中心市街地から外れた郊外の新興住宅地で、とくに恵まれたものなど何もない、どこにでもある小さな場所です。そんななんの変哲もない場所で、周囲に残るささやかな自然や、幼い頃はお気に入りのおもちゃや絵本、そしてすこし成長してからは音楽や文学など、身近にあるものとの触れ合いのなかで、奈良さんは感性を研ぎ澄ませていきました。そして故郷での時間やそこで目にした風景を豊かさとして心の中に抱き続け、表現の糧とし、そこから美術の可能性を押し広げるような大きな創造の世界を切り開いていきました。
これから格差社会が広がるなかで、世の中には「小さな場所」がたくさん生まれてくるはずです。小さな場所で生きていても、身の周りのものと触れ合う時間を大事にしながら、好奇心を失わずにいれば、外の広い世界へ羽ばたく力となる豊かさを蓄えることができるということを、奈良さんは教えてくれている気がします。あらゆる小さな場所に生きる人にとって、それは希望なのではないでしょうか。いまでこそ現代アートが盛んなイメージを持たれる青森県ですが、奈良さんが青森で暮らしていた1970年代までの青森には、いわゆる「美術館」というものはありませんでした。美術館で働きながらこんなことを言うのは変ですが、美術館がない場所から奈良美智が生まれたことに希望を感じるんです。
──高橋さんにとって、奈良美智さんはどのような存在ですか?
小さな者が持つ大きな力、弱い者に備わる真の強さを伝える奈良さんの作品は、いつも私を勇気づけ、彼の生き方に触れる体験は、確実に私の人生を豊かなものにしています。彼のようなアーティストと間近に接することができる時間を大切に思います。なるべく多くの作品を残すために尽力し、可能な限り詳細な活動の記録を未来に届けることが、学芸員として同時代を生きた者の役目だと思っています。
高橋しげみ(たかはし・しげみ)
1970年青森県大鰐町生まれ。1998年弘前大学大学院人文科学研究科を修了。青森県立美術館学芸員として郷土の美術、写真などを担当。2006年、青森県立美術館の開館記念展「シャガール~《アレコ》とアメリカ亡命時代~」、2009年、青森市出身で戦後に活躍した写真家・小島一郎の回顧展「小島一郎―北を撮る―」を企画。2012年、横浜美術館からの巡回展「奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている」を担当。2013年、「種差 -よみがえれ 浜の記憶」を企画、 カタログ論文「よみがえれ 浜の記憶」が同年美術館連絡協議会カタログ論文賞優秀論文賞受賞。2017年、日本写真協会学芸賞受賞。2021年、現代作家たちのグループ展「東日本大震災10年 あかし testaments」を企画。