いとうせいこう meets 久保田成子。シリーズ:私が見た「Viva Video! 久保田成子展」(1)

東京都現代美術館で2月23日まで開催中の「Viva Video! 久保田成子展」を3名の人物が訪れ、思い思いに考察や気持ちを綴る全3回のリレー企画。第1回は文学、音楽、舞台、テレビなどで幅広く活躍し、「デュシャンピアン」(=マルセル・デュシャンに傾倒する者)としても知られるいとうせいこうが、自身とデュシャンのあいだに立つ久保田成子について綴る。

いとうせいこうと、久保田成子《デュシャンピアナ:自転車の車輪》(1983-90)

「もうひとりのローズ・セラヴィ」

振り返れば、久保田成子はつねにそこにいた。しかし私が気づかなかった。

たとえばナムジュン・パイクのパートナーとしてその名前を現代美術史のなかに見ることは少なからずあった。しかし彼女自身の作品に注目したり、そのアクションの先見性に感嘆したりということがなかった。

これは恥ずべきことであった。

今回新潟県立近代美術館を皮切りに東京都現代美術館へとグランドツアーした「Viva! Video 久保田成子展」がなければ、私は無知蒙昧なまま現代美術を、とくに映像系のそれを見る晩年を送っていただろうし、にもかかわらずなんらかの発言などをしていたに違いないわけで、これは本当に恥ずかしい。

ことに自分がある程度くわしいと思っているマルセル・デュシャンの傍らにはっきりと久保田が存在していたことに、私はいまになって目を開かされたのである。

「Viva Video! 久保田成子展」(東京都現代美術館での展示風景、2021) 撮影:森田兼次

大学に入学してすぐ、私の二十代の始まりの年に池袋の西武美術館で「マルセル・デュシャン展」が開かれ、その前後になけなしの金を払って古本屋で東野芳明『マルセル・デュシャン』(1977)を買ったのだった。それで私は人生を狂わされた。タブローの中の絵をどこかでバカにしたり、感動を避けて逆説の突端にいるように心がけたりしたものだ。

それは若気の至りとは言えない深甚な影響で、いまでも自分の数少ない投稿を掲載するブログは「readymade」というタイトルだし、十数年に及ぶ小説創作のスランプ時、私はネットのなかで『ソシュール デュシャン レーモン・ルーセル』というエッセイを書き続け、彼ら3人が言語の秘密に触れていたのではないか、その奥義の底にチェスが鈍い光を放っていたのではないかと妄想した。そのおかしな仮説はまさに「マルセル・デュシャン展」を見たあとに私に訪れたものだ。つまり大学生になりたての自分がデュシャンらから受けたと思い込んだ薫陶ゆえに、私はなおのこと創作言語が使えなくなり、彼らのように長い“沈黙”の時期を迎えることとなった。

そして今回、その危険な「マルセル・デュシャン展」の会場に久保田成子作品があったらしいと聞いて驚いた。すでに彼女はいたが、それがどこであったか覚えがない。つまりまなざしは久保田のほうからこちらに向いていたのに、こちらは愚かにも無防備だった。

さらに久保田をアーティストとしては無視したに等しい東野芳明の『マルセル・デュシャン』を久しぶりに書庫から出して開いてみれば、ジョン・ケージとデュシャンが音響パフォーマンスとして戦ったチェスゲームのあの有名な写真はほかならぬ久保田成子が撮影したものなのであり、東野自身キャプションにはっきりと彼女の名前を書き留めていた。

東野芳明『マルセル・デュシャン』(美術出版社、1977年)より

なにしろ久保田は「デュシャンピアナ」と名付けた主要な作品群を世に送り出している。この名付け、つまり名乗り自体がきわめて重要で、確かに男性の私はそれまで疑問もなく「デュシャンピアン」(=マルセル・デュシャンに傾倒する者)と名乗っており、それは男性をあらわす語尾で終わるのだから、間違いなく私が排除の論理の中で漫然としていたことが照り返される。

また彼女久保田が偶然、死の年のマルセル・デュシャンに飛行機の中で出会ったことにも私は無知であった。そして「死ぬのはいつも他人ばかり」という墓碑銘の読み手を久保田にしてこそ、この言葉がよりリアルに迫ることを思いながら、さて隣り合った生前の彼らは何を話しただろうと想像はふくらむ。

そもそもあの「大ガラス」の構想はルーセル原作の舞台を観たあとのデュシャンが、ピカビアとともにジュラ地方へ旅行する間にでき上がったとされている(つまり移動中のデュシャンにはよくよく注意しなければならない!)。ニューヨーク北西部バッファローを目指す彼から(しかも行き先へは吹雪のせいで着けず、飛行機は別の場所に着陸する。ああこの偶有性!)、彼女は何を得たか。

少なくともデュシャンの死後、久保田は彼の墓をモチーフにした作品《デュシャンピアナ:マルセル・デュシャンの墓》を作る。また“画家が支配的に描く対象としての裸体が自ら動くように見える“ことでスキャンダラスだったとも言われる《階段を降りる裸体》をヴィデオ彫刻にし(《デュシャンピアナ:階段を降りる裸体》)、さらには、両開きのいわゆるフランス窓のガラスを黒くして《フレッシュ・ウィドウ(なりたての未亡人)》と名付けたデュシャン作品を窓の向こうに映像をはめ込むかたちで「アプロプリエート(流用)」する。

「Viva Video! 久保田成子展」(東京都現代美術館での展示風景、2021)より、《デュシャンピアナ:階段を降りる裸体》(1975-76/83、富山県美術館蔵) 撮影:森田兼次
「Viva Video! 久保田成子展」(東京都現代美術館での展示風景、2021)より、《メタ・マルセル:窓(三つのテープ)》(1976-83/2019、富山県美術館蔵) 撮影:森田兼次

そもそも「流用」は映像を使用する以上ほとんど必至の前提であり、同時にデュシャンにおいて「レディメイド」と言われた手法(態度)の正しい継承である。あるいはことにまた《フレッシュ・ウィドウ》を久保田が何度か制作し直していることにも興味が湧く。なぜならそれはデュシャン史においてはローズ・セラヴィ(デュシャンのいわば女装の人格)の初署名作品だからだ。

ここで久保田が「デュシャンピアナ」を名乗ることの意味も変化して見えてくる。デュシャンにおけるローズ・セラヴィの側面を、あたかも彼女は継承したかに思えるからだ。そもそもデュシャンの死の直前、久保田は機上で彼自身と話し込むのだから、「なりたての未亡人」のひとりは久保田であってもよく、その作品がかつてローズ・セラヴィ名義で出現した以上は、少なくとも複数の「フレッシュ・ウィドウズ」(「残された者」という意味ではジェンダーを問わない)の列に彼女が加わっている様子を私は積極的にイメージしたい。

ちなみにデュシャンが密かに制作していた「遺作」が世に出るのは彼の死後、1969年。久保田成子はフィラデルフィア美術館でそれを見たに違いないと思う。アプロプリエーションのひとつ《デュシャンピアナ:ドア》などに強烈な「遺作」性が感じられるからだ。それはとくに“その時間にひとりだけが出会える”仕組みのあり方で、私には精子と卵子が起こす受精めいた瞬間と、「独身者」としての精子が訪れた卵子こそがじつはクールな非生命であることにも通じている。

「Viva Video! 久保田成子展」(東京都現代美術館での展示風景、2021)より、《デュシャンピアナ:ドア》(1976-77/2021、久保田成子ヴィデオ・アート財団蔵) 撮影:森田兼次

じつはフィラデルフィア美術館は子宮のかたちになっており、デュシャン作品の「遺作」はまさに左の卵管の突端に位置しているのだが紙数が尽きた。そのへんの奇妙な事実は短編連作『存在しない小説』(講談社、2015)でフィクションとして「流用/妄想」しているので興味があれば。

ともかくこうして、久保田成子はデュシャンピアナ/デュシャンピアンにとっても十全に語られるべき存在だったのであり、いかにもデュシャン主義者的に隠者としても成立してしまって見えるがゆえに奥行きが深い。

この展覧会がなかったらその事実が掘り起こされなかったのだと思うと、私たちは「なんでも検索出来るし知っている」と考える癖をいますぐやめるべきだとわかるし、それは久保田成子という偶有的な個体ゆえの教えだ。

「Viva Video! 久保田成子展」(東京都現代美術館での展示風景、2021)より、《ヴィデオ・ポエム》(1970-75/2018、久保田成子ヴィデオ・アート財団蔵) 撮影:森田兼次

いとうせいこう

いとうせいこう

1961年生まれ。出版社の編集者を経て、音楽や舞台、テレビなどでも活躍。88年『ノーライフキング』(新潮社)でデビュー。99年『ボタニカル・ライフ』(紀伊國屋書店)で講談社エッセイ賞、13年『想像ラジオ』(河出書房新社)で野間文芸新人賞受賞。21年『福島モノローグ』(河出書房新社)を出版。