初めに展示を見た時、いちばん印象に残ったのは《ブロークン・ダイアリー:私のお父さん》だった。本当の日記のように、病床の父親のことを自然にヴィデオに残している。ヴィデオがまだ一般に普及していないこの時代になんのてらいもない。静かな大切な家族の限られた時間を撮ったヴィデオ。後ろの白い障子、お父さんの持つコップ、手、布団、テレビの紅白歌合戦、ザ・ピーナッツの歌、司会のアナウンサーの声。昭和のエッセンスを凝縮したようなヴィデオだった。
「ビデオは死の世界と生の世界とのコミュニケーションでもあるし、永続性に結びつくイメージがあると思うよ。消えないもの」(久保田成子インタビュー『月刊イメージフォーラム』1991年10月号より)
この言葉はずっと後の言葉だけれど、ヴィデオというものの本質を、きゅっと最初に彼女は掴んでいたと思うのだ。お父さんも久保田成子も、見ている私も、この世界からいなくなって、でも映像は残っていく。私が久保田に共感するのは、映像作品が残っていくことの重要性ではない。見た人のなかに消えずに残ることが重要なのだ。もちろんアーティストだから、作品が残っていくことは大切だったと思う。初めにヴィデオと彫刻を結びつけたのは、作品として残すためだったと思う。そしてそれは美術史上重要だったのだろう。でも、久保田はその2つの結びつきによって、時間を重ねるにつれてもっと遠くに行くことができたのではないかと思う。彼女にとって、彫刻とヴィデオが一体化して変容していったような気がするのだ。
《韓国の墓》(1993)を最初見たときにはスルーしていたのだが、2度目に部屋に入って感じたのは、これは彫刻とヴィデオではなくて、空間と時間なのだということだった。大切なのは彫刻という物体ではなくて、この内部にあるものを表象する光。光は、あまねく部屋を照らして壁に映り、影をつくる。そこに置かれた物体よりも、光と影が交錯する空気を感じるものなのではないか。
「山中に降る雪はヴィデオと彫刻に似ている。軽さ、速度、電子のはかない性質が、不動で無時間的なマッスと対照を成している」(作家の言葉、久保田成子個展「Video Sculpture」[1991年、ムービング・イメージ美術館、NY]より邦訳)
山に雪が降り積もって一体となるように、彫刻とヴィデオも別のなにかに変わっていったのではないだろうか。それがなんなのか、ヴィデオ彫刻と彼女が言えばそうなるのだが、もっと時間を経た時に彼女がなんと考えたかを聞いてみたかった。
そして私が好きなのは《ブロークン・ダイアリー:ヴィデオ・ガールズとナヴァホの空のためのヴィデオソング》(1973)だ。もちろん《デュシャンピアナ:階段を降りる裸体》(1975-76/83)や《デュシャンピアナ:マルセル・デュシャンの墓》(1972-75)そして《ヴィデオ俳句-ぶら下がり作品》(1981)もすごい作品だと思う。でも、このヴィデオ・ガールズは、久保田のナヴァホへの共感、その時代のヴィデオの楽しさがばんばん伝わってくる。いまの技術では考えられない不思議な躍動感に溢れているイエローとレッドガールズの旅日記。なんの役割も持たされない、素の久保田成子が踊っているように感じた。
久保田は直観のすぐれた人だったので、女性を作家として遇さない日本を飛び出してニューヨークに行くべき、と即行動に移した。正解だった。その時代のニューヨークアートコミュニティは刺激に満ちていただろう。日本に残っていたら、このような活躍はできなかったと思う。その後、日本の状況は大きく変わっただろうか。約20年後に生まれた私にも断言は難しい。でも、2022年現在、東京都現代美術館で久保田成子展、森美術館で「アナザーエナジー展」など、女性アーティストの活動にフォーカスした展覧会が開催されている。どちらも見た人の記憶に深く残っていく展覧会だと思う。世界で活躍する日本人女性アーティストもたくさんいる。じわじわと地殻変動は起きている。私も同じく彫刻科に在籍し、「女に彫刻は無理」と何度も言われた。だから、久保田成子の作家としての活動に励まされた、たくさんの女性のうちのひとりでもある。
青木野枝
青木野枝