画家として、舞台美術家として、戦前から2010年代まで創造性を発揮し続けた朝倉摂(1922〜2014)。
その全貌に迫る初の本格的な回顧展「生誕100年 朝倉摂」が、神奈川県立近代美術館 葉山で開幕した。会期は6月12日まで(巡回:練馬区立美術館:2022年6月26日~8月14日、福島県立美術館:2022年9月3日〜10月16日)。企画は西澤晴美(神奈川県立近代美術館主任学芸員)、真子みほ(練馬区立美術館主任学芸員)、増渕鏡子(福島県立美術館専門学芸員)。
最晩年まで現役を貫いた朝倉について、蜷川幸雄や唐十郎ら第一級の演劇人と併走した「舞台美術家」として名前を記憶している人は多いだろう。いっぽうで、日本画家としての作品はほとんど知られてこなかった。2010年にBankART Studio NYK(横浜)で大規模個展「朝倉 摂展 アバンギャルド少女」が開催されているが、主に舞台美術家としての仕事を紹介するものであった。
というのも、生前には作家の意向もあり、日本画時代の作品はごく一部を除き公開されてこなかったのだ。没後、アトリエに残された作品が各地の美術館に寄贈されると、戦前から戦後へと至る創作活動の全体像について調査が進むことになった。
本展はこうした調査が結実したもので、前半生の絵画作品約40点と素描、絵本原画、舞台美術の模型やデザイン画など約200点を展示する(*1)。
まず展覧会をひと回りして印象に残ったのは、つねに「最新」を追い求め、自分自身の表現を刷新し続けた、その途方もないバイタリティである。日本画から舞台美術への移行のみならず、各分野においても時代を見極めながら様々な手法を試み、多様なスタイルを展開してきた。
「過去を振り返るのは大嫌い」という言葉を残したというが、まさに前へ前へと「前衛」を体現するかの如く活動してきたことが、展示から見てとれる。同時に、彼女を前衛へと押し上げた「反抗心」の向かう先──“偉大”すぎる父の存在、旧弊な美術界、激動の時代における社会の諸相──の存在が透けて見え、それを乗り越えようとし続けた朝倉の強い意志が鋭く光る。
展示室に足を踏み入れると、最初に1941〜45年にかけての日本画が展示されており、その美しい色彩が目に眩しい。《更紗の部屋》(1942)は、妹でのちに彫刻家になる響子を描いたもの。ふたりの父は近代日本を代表する彫刻家・朝倉文夫(1883〜1964)で、姉妹は父の方針により学校へは通わず、谷中にある自邸に招かれた様々な分野の教師から学ぶという特異な教育を受けた。自邸の調度品に囲まれ、安定した構図で描かれた響子は大人びて見えるが当時17歳、摂は20歳。前年の1941年には真珠湾攻撃が行われ太平洋戦争が始まっていたことを鑑みれば、この姉妹がかなり特別な環境でその自立心を育んでいたことが感じられる。
いっぽう《歓び》(1943)と《雪の径》(1944)は、戦時下の雰囲気が反映された作品だ。とはいえ人物を縦に配した構図の巧みさとともに、美しい色彩や人物の柔らかな表情も相まって、悲壮さは感じられない。収穫の風景を描いた《歓び》は、日常における喜びや美しさをみずみずしく表現するとともに、手前の女性の足裏がわずかに黒ずんでいる描写等にリアリズムも見て取れる。
戦後、朝倉の日本画には様式上の大きな変化が見られる。ヨーロッパやアメリカの美術が活発に紹介され、朝倉もピカソに大きく影響を受けたキュビズム的な構図による作品を描いた。当時、新たな日本画の表現を試みる野心的な画家たちと行動をともにしていた作家は、従来の洋画/日本画の垣根を疑問視し、清新な表現を模索していた。
1949年に実家を出て代々木本町で下宿を始めた作家。アカデミズムを牽引する権威的な父親の元を離れることは、それまでの価値観や旧い美術から脱却し、自身の創造性を新たな方向へと導くために必要な決断だったのかもしれない。
キュビズム的な方法に挑戦したのち、作家はベルナール・ビュッフェやベン・シャーンに影響を受けた画風へと変化していく。
この1950年代半ば以降は、女性や子供たち、また炭鉱や漁村で働く人々といった、戦後の社会において困難な状況に置かれた人々を主題にした作品が多く描かれた。「今の日本の社会状態の中で生き抜こうとするおんなの姿をかきつづけたい」(*2)。そう語った朝倉は、苦悶の様子が窺える裸婦像や、日雇い女性の姿、炭鉱で働く人々などを次々に描いている。
常盤炭田に取材した作品としては、抽象画のような構図と、青と黒のコントラストが効果を発揮している《ズリ山》(1955)なども印象深い。ズリ山とは石炭の採掘時に廃棄物を積み上げることでできる人工の山だ。
《日本1958-2》は、屏風仕立ての作品。建設中の東京タワーを背景にこちらにまなざしを向けるのは、G Iベビーと呼ばれた占領期の連合軍兵士と日本人女性のあいだに生まれた孤児たちだ。
《黒人歌手ポール・ロブソン》(1959)は、人種差別やファシズムと闘った活動家としても知られる歌手がモデル。作家は1959年夏にウィーンで開かれた第七回世界青年学生平和友好祭に参加し、8月1日に行われた平和大集会で、ピカソの絵を背景に歌ったロブソンの姿に感銘を受け、描いたという。ちなみに朝倉は前年1958年に結婚、同年12月に長女(俳優の富沢亜古)を出産しており、産後まもなくから海外にも赴き精力的に活動していたということになる。
さらに1960年には安保運動に傾倒、触発された作品を描いているほか、1964年東京オリンピックへと向かう日本社会への批判、サリマイド薬害事件なども作品で扱っている。
朝倉は1948年を発端に日本画と並行して舞台美術の仕事を行なっていた。大きな転換点となるのは1970年。ロックフェラー財団の招待によってニューヨークに留学し舞台美術を学んだ。そしてそれまで日本画を出品してきた「新制作」を退会。舞台美術へと完全に軸足を移すことになる。
1950年代以降本格的に舞台美術に取り組んだ朝倉は、当時勢いのあった様々な小劇団との仕事に大きな刺激を得ていたようだ。いっぽう、なぜ日本画から足を洗ったのかといえば、同時代の美術評論家が、社会問題を主題にした朝倉の絵に関心を示さず評価をしなかったことも理由なのではないかと、担当学芸員の西澤は図録内で指摘している(*3)。
舞台美術の仕事に焦点を当てた展示室では、蜷川幸雄、唐十郎、井上ひさしといった劇作家たちと仕事をした舞台の下図や公演写真等を多数展示。生涯に担当した舞台作品はその数1600以上というが、本展ではそのうち代表的な40作品を厳選する。また谷川俊太郎や武満徹、粟津潔、篠原一男らと共同した展覧会に出品された衝立状の作品や、舞台写真の映像も上映されている。
朝倉の舞台美術におけるシンボリズムとリアリズムのバランス、そして表現の変遷については、本展図録に収録されている渡辺保のコラム(*4)に詳しい。
最後の展示室は、挿絵の仕事を紹介するもの。松本清張の小説『砂の器』の新聞連載時の挿絵や、1950年代半ばから手がけた数々の絵本などが展示される。
また、本展を出たところのコレクション展では、妹である朝倉響子の彫刻作品も展示されているので、こちらもあわせて見てほしい。
日本画家として出発した作家は、時代の精神を反映し、その奥にあるものを描き出そうとしてきた。その姿勢は舞台美術の世界でも一貫し、様々な才能ある人々と共同でものを作り上げることで表現をさらに磨き上げ、拡張させていった。2014年に91歳で逝去するその最晩年まで、自身のヴィジョンを発信しつづけた朝倉。本展はその作家としての全体像がようやく明らかになり始めた、記念すべき展覧会だ。
*1──本展図録『朝倉摂の見つめた世界 絵画と舞台と絵本と』(青幻舎)で水沢勉(神奈川県立近代美術館館長)は、本展に先行する日本画を展示した重要な展覧会として、2015年ギャルリー・パリ(横浜)での回顧展「Setsu Asakura,1950s」、2017年実践女子大学香雪記念資料館での朝倉摂「リアルの自覚」展をあげている。
*2──『アトリエ 臨時増刊 新しいリアリズム』1956年8月。
*3──西澤晴美「朝倉摂 生きている絵、限りない舞台」、本展図録pp.210〜217。
*4──渡辺保「彼岸花と蝶」、本展図録pp.162〜165。
福島夏子(編集部)
福島夏子(編集部)