1950年代に染色画による独自の絵画表現を切り開いた前衛画家、芥川(間所)紗織(1924~1966)。生誕100年の今年、全国10ヶ所の美術館が連携して所蔵作品を展示するプロジェクト「芥川(間所)紗織 Museum to Museums」が進行中だ。近年は香港のM+が作品を収蔵するなど、海外でも注目される画業に触れる好機になっている。
*「芥川(間所)紗織 Museum to Museums」に関する記事はこちら。
戦後の前衛美術に鮮やかに個性を刻んだ彼女は、どんな画家だったのか。2009年に横須賀美術館などで開催された回顧展を企画し、今春刊行された作品集『烈しいもの。燃えるもの。強烈なもの。芥川紗織 生涯と作品』(東京新聞)を監修した工藤香澄・横須賀美術館学芸主査に聞いた。同館では10月20日まで開催中の「第2期所蔵品展」で特集「生誕100年 芥川紗織」の展示を行っており、他館が所蔵する作品の展示情報も文末にまとめたので鑑賞する参考にしてほしい。
なお、プロジェクト名が示すように芥川紗織は離婚再婚により姓が変わったため、書籍に掲載された名前や作品のクレジット表記に揺れがある。キャリア途中の苗字変更が画業が認知されるうえで障害にならなかったかは、選択的夫婦別姓の導入可否が論議されるいま気になるところだ。本稿では、本人が作品のサインに用いた「紗織」と呼ぶことにしたい。
旧姓は山田紗織、現在の愛知県豊橋市に生まれ、東京音楽学校(現・東京藝術大学)で学んだ。戦後に女性を受け入れた東京美術学校と異なり、東京音楽学校は戦前から男女共学で、オペラ歌手の三浦環や国産ピアニストの草分けの久野久ら女性音楽家を輩出した。紗織は本科声楽部を卒業後、1948年に作曲家の芥川也寸志と結婚し長女を出産。26歳頃から、女学校時代に描いていた油絵を猪熊弦一郎の絵画研究所で、ロウケツ染めを野口道方に習い始めた。1953年に新制作協会展に初めて油彩作品を出品し、その後はおもに染色画を制作し読売アンデパンダン展やモダンアート協会展などを舞台に発表した。
最初に注目されたのは、染色画の「女」シリーズだ。大きな口を開けて笑い、髪を逆立てて怒り、天を仰いで叫ぶ女の顔。それが画面いっぱいに描かれ、2、3色だけの色彩が鮮やかなコントラストをなしている。
工藤は「『女』シリーズは、それまで美術の世界で顧みられなかった女性の激しい感情を戯画化・デフォルメしたような表現が際立つ。推測だが、自分を反映した自画像的な面もあるのではないか。当時、染色を絵画に用いた画家は他にほとんどおらず、表現と手法の両面で独自性がある」と話す。今回、同シリーズの代表的な作品が東京都現代美術館や東京国立近代美術館で展示される。
ここで横須賀美術館の特集展示を紹介しよう。会場には、同館と作品集を企画したNUKAGA GALLERY、個人が所蔵する約30点の作品が並び、今回のプロジェクトで最多規模となる。冒頭で目を引くのは、初期の自画像と考えられる油彩画《無題(ポートレート)》。板の表裏に2つの女性の顔がまったく異なる手法で描かれ、様式の模索と自らを凝視する視線を伝える。
ヒマワリなどをモチーフにした初期の油彩画、1950年代に注力した染色画7点、60年代に制作した油彩画も展示。《2人の女Ⅱ》《女B》などの染色画は、植物的形状と幾何学形を組み合わせ、大きな色面で女性の身体を表現している。画面に近づくと、ロウケツ染め特有の亀裂模様やぼかしの効果も見て取れるだろう。
公立美術館では初出展となる16点のパステル画も見どころだ。有機的な構造や奇妙な生き物の姿が子供の絵のような豊かな色彩と奔放な線で描かれ、溌溂と動く想像力を感じさせる。
ところで紗織が専門的に学んだ声楽を諦め、美術に進んだのはなぜだったのか。取材相手に語った説明によると、家で歌うと夫がコボすので音がない絵に転向したという。現代の家庭にもある無意識の「抑圧」や性別役割意識が働いたのだろうか。
作家・芥川龍之介の三男であった夫の也寸志は、早くに才能が注目され、管弦楽曲やオペラ、映画音楽など多彩な作品を手がけて、戦後日本を代表する作曲家になった。その活躍に接しながら「歌を封印したカナリア」が、自己表現の対象として絵画にのめり込んでいったことは想像に難くない。
女性像に続き、日本の「神話」「民話」をテーマとする作品に取り組んだ。きっかけになったのは、1955年に東京国立博物館で開催された「メキシコ美術展」。メキシコ革命を背景に誕生した壁画運動の巨匠ホセ・クレメンテ・オロスコやディエゴ・リベラらの作品を日本で初めて紹介し、多くの画家に衝撃を与えた展覧会だ。
紗織が染色により制作した神話・民話画は、よりサイズが大きく、画面構成と色彩は複雑になり、画家としての評価を高めていく。『古事記』のイザナギ・イザナミといった男女の神や誕生などの劇的な場面をモチーフに多く選び、絵巻物のような大作も手掛けた。この時期の制作について工藤はこう語る。
「自身を投影したような女性像から神話・民話画への展開は一見唐突に見えるが、男神と女神の争いを描くことで現代にも通じる普遍的な男女の関係も描こうとしたと考えられる。芸術は一般の人に身近な存在であってほしいと考え、それを実践したメキシコの壁画運動に共感し、自身も絵画だけでなく生地や浴衣のデザインも行った」
1955年は、新進画家として注目された年でもあった。同年、岡本太郎の勧めで二科展に《女(B)》などの染色画を出品し、特待賞を受賞。この年に池田龍雄らが結成した「制作者懇談会」に参加し、池田と河原温、吉仲太造との四人展を後に開催した。55年には次女を出産しており、そのバイタリティに驚く。その後も二科展や読売アンデパンダン展に継続的に出品し、個展の開催やグループ展への参加など精力的に活動した。
しかし、紗織がおもに制作した染色は、当時の美術界では女性的・工芸的な手法として油彩より格下と見なされがちで、その傾向は男性の美術評論家による作品評からも読み取れる。また、新聞雑誌でも受賞や活動が報じられたが、記事は「芥川也寸志夫人」を強調して揶揄するような内容が多かったという。
そうしたなか、紗織は離婚し1959年に渡米。ロサンゼルスでグラフィック・デザインを学んだ後、ニューヨークに移り、美術学校のアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学した。それまでほぼ独学だったが、米国に来て初めて正式の美術教育を受けた。そして油彩による抽象作品を制作するようになり、画風は染色画から大きく変わっていく。
女性画家の発掘と再評価に尽力してきた美術評論家の小勝禮子は、紗織が1957年に発表した染色画の大作《古事記より》を「芥川の創り出した神話世界の集大成と言ってよい。それは染色画法の技術の極みでもあった」と高く評価したうえで、渡米後の変化についてこう述べる。
「これだけ独自の表現を染色画で達成していながら、油絵の表現に転向を図るのである。油彩による絵画が染色より高位にあるというヒエラルキーを、芥川自身が内面化していたのだろうか」(小勝禮子「戦後の『前衛』芸術運動と女性アーティスト 1950-60年代」、2005年・栃木県立美術館「前衛の女性1950-1975」展図録より)
日本での不本意な評価のされ方に背中を押され、新天地を求めた感がある渡米。とはいえ、米国での3年間は、充実していたようだ。毎日デッサンや油絵の制作に打ち込み、リーグ校では、“ハードエッジ”と呼ばれる切れ味鋭い作風に惹かれて抽象画家ウィル・バーネットの教室で学んだ。
渡米後に手がけた油彩画は、人体や植物のフォルムのような形状が2、3色の色彩で描かれ、静謐ななかにリズムと緊張感がある。「抽象」に見えるモチーフは、じつは身近な自然物や人をデッサンし、それを変容したといい、身体や生命への一貫した関心が感じられる。1962年に帰国。同年、新たな展開となった油彩画を画廊の個展で披露し、その後も女流画家協会展で作品の発表を続けたが、1966年に急逝した。享年41。
横須賀美術館の特集展示は、女性や神話をテーマにした染色画に加え、米国から帰国後に制作した油彩画が並び、作風の変遷を目の当たりにできる。油彩における抽象化の過程がうかがえるスケッチブックも展示されている。
工藤は「芥川沙織は女性美術家が少なかった1950年代、前衛の世界に突然出現し、誰とも違う絵画表現を追求した。この15年間に近代以降の日本の女性美術家への関心は高まり、またアートに携わる女性も増えている。とくに若い世代に沙織の作品を通じて、当時の女性が置かれた立場を含め様々なことを考えてもらえたら」と語る。
なお、同館以外で作品を展示中、もしくは展示予定の美術館と期間は以下の通り。また、遺族らで作る「芥川(間所)紗織アーカイブ実行委員会」が開設した公式サイトにも作品が掲載されているので関心がある人はチェックしてほしい。
・9月8日まで 名古屋市美術館 常設展名品コレクション展Ⅱ
・9月29日まで 高松市美術館 第2期コレクション展
・8月3日〜11月10日 東京都現代美術館 「MOTコレクション」
・9月3日〜12月22日 東京国立近代美術館 所蔵作品展「MOMATコレクション」
・未定(展示室内の整備・修繕のため開催延期) 国立国際美術館 コレクション1 彼女の肖像
(川崎市岡本太郎美術館、栃木県立美術館、豊橋市美術博物館、刈谷市美術館の作品展示は終了)