公開日:2009年6月5日

池田亮司展 +/-[the infinite between 0 and 1]

理論上の到達不可能性と概念上の到達可能性―0と1の間

data.tron [3 SXGA+ version] (2007-09)0という数は、存在を表す自然数に含まれているが、本来は存在しないものを表すために「とりあえず」という形で定位されたものである。だから、理論の上では0と1の間は、存在しないものと存在するものの距離となるので、実存はしない。しかし、概念の上では少数も存在する。ということは、照射する角度によって無か有が決まり、有のなかでも小数点が第n位まであるように、その距離は果てしない。

現在(-6/21)、東京都現代美術館で開催されている〈池田亮司+/-[the infinite between 0 and 1]〉は数という切り口から焦点があてられているが、このことは何を示しているのか。池田亮司はサウンドメディア・アーティストとして括られている。1995年にアルバム『1000 fragments』、翌年には『+/-』を発表し、ミニマルともアンビエントとも言い難いエレクトロ・ミュージックを世に送り出した。以降、雑多に組み合わされたかのようなノイズ音と純粋に研ぎ澄まされたミニマルな音響が同居する、彼独自の音楽が編みこまれ、彼自身その分野での地位を確立していった。

今回の展示の特色はモノクロームという言葉に尽きる。1階の展示会場は明かりがなく、壁一面に映像が投射されている。画面には0から9までの数が、目くるめく散らされ続ける映像が流れる。何秒かごとに、画面の切り替わりと共にアクセントのような形で微弱な電子音が入り、再び砂塵のような数字の配列が眼前に現れる。入り口近くの展示室には数を刻印した原版、出口近くの展示室には数の配列が焼き付いたネガがある。音というよりも、鑑賞者は数に圧倒された映像の波に放り込まれる。

地下1階の展示室はこれとはまったく異なる。背景は白い壁面をベースとし、光はそれほどないものの、コントラストのせいもあって、非常に明るい。映像ではなく、隙間なく埋め尽くされた数を印刷した黒の平面作品が展示された部屋を通り、一番奥の部屋に入ると巨大なスピーカーが四方を取り囲んでいる。スピーカーのある部屋まで0から9の数ばかりなので、この巨大スピーカーは大きなインパクトを与える。それと共に、耳に障るような音に鑑賞者は気付くはずだ。ここでやっとわかりやすい形で、鑑賞者は音の存在を確認する。池田によれば、この音の空間は、鑑賞者の数によって変化するとのことだが、やはりここでも作品の決定因は数だ。数と音という組み合わせは拭えない。
matrix [5ch version] (2009) 池田はコンピューターによって音を紡ぎ出している。このことは数々のデータを操り、配合するという創作過程から、無数のパターンが表現としてアウトプットされることを示している。もちろん、彼自身のアイデアのもと取捨選択が行われているだろうが、可能性として幾千もの道筋―楽曲が生まれるのである。本来、存在を認識するための概念であった数が、理論(n+1)によって果てなく続いていくその有様とオーヴァーラップする。我々が拠って立つ世界の仕組みが「ある」か「ない」かというものを示す極めて単純な0と1によって揺さぶられる。その心象が「ある」か「ない」かの境目を漂うかのような、か細いパルス・トーンによって我々に届けられる。

数と音によって世界の不可視性を露にした。不可視であれば単純に片付けられる世界が、見えてしまうことによって収束不可能な方向へとアクセルがかかる。そのアクセルは静謐さを保ちながらも、鑑賞者の視覚を暴力的に刺激する。これが今回の展示の印象である。

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Yuya Suzuki

Yuya Suzuki

博士後期課程在籍 1980年生まれ。ロシア・ソ連芸術史、全体主義下(第三帝国、スターリニズム)における紙上の建築と展覧会デザイン、エル・リシツキイの研究に従事。<a>MOT</a>で企画を担当。またMOTの<a href="http://mot06.exblog.jp/3398208/">CAMP</a>というイベントの企画・運営に携わる。現在、ロシア人文大学に留学中。