ロシア・アヴァンギャルドは、20世紀初頭、革命期のロシア・ソ連を舞台にした美術・建築・文学などにおける前衛運動である。この時代、美術家たちはイタリアの未来派やフランスのフォーヴィスム、キュビスムなど西欧美術の新しい動向を消化する一方、ロシア固有の民衆芸術を再評価し、自分たちの新しい表現を模索した。その成果としてはマレーヴィチのスプレマティズム、タトリンやロドチェンコの構成主義、そしてリシツキーのプロウンなどの抽象作品がとくに有名で、近現代美術史の教科書でそれらに言及しないものはまずないほどだ。
この展覧会でも、もちろんそれらの作品はカバーされている。とくにマレーヴィチの作品は充実しており、その様式の変遷はロシア・アヴァンギャルドの動向を体現するかのようだ。未来派や民衆美術に影響を受けた1910年代前半。具象表現を完全に放棄し、単純な幾何学形態と色彩のみで画面を構成した「スプレマティズム」の10年代後半。農民たちの姿を幾何学的に描いた、「半具象」とでも言うべき20年代。そして30年代には、ソビエト政府公認の「社会主義リアリズム」による、完全な具象表現による肖像画。彼の造形の変化をたどっていくだけでも、本展は充分に楽しめることだろう。
しかし、ロシア・アヴァンギャルドはけっしてマレーヴィチやタトリン、リシツキーらの独壇場ではない。彼らの背後や周辺には、日本ではあまり知られることのない作家たちの、新しい造形意欲ではちきれんばかりの作品がうじゃうじゃとひしめいているのだ。この展覧会の面白いところは、ロシア・アヴァンギャルドというムーヴメント全体の誕生と展開、そして衰退を描き出すために、そうした普段あまり脚光を浴びることのないいわば「周辺」の芸術家たちの作品にも丁寧に照明をあてていることである。
たとえば、イリヤ・マシコーフという画家の名はおそらく日本ではほとんど知られていない。しかし彼の《扇のある静物》(c.1915)の美しさは一見の価値ありだ。その色彩や輪郭線、画面構成からはフォーヴィスムやセザンヌからの影響が明らかだが、それだけではない。あざやかに色づけられ、緩急をもって明暗をほどこされた桃、いちじく、さくらんぼ、ぶどうなどの果物は、鑑賞者の眼をリズミカルに誘導していく。それらは画面の前へ前へとせり出し、今しもそこからすべり落ちてきそうな危うさだ。見る者の視線は、それに応じて画面の上下左右、そして外部へまでも導かれる。その視覚体験は新鮮かつ魅惑的である。
また、ボリス・グリゴーリエフの《女(連作「親密」より)》(1916-1917)が持つ、エロティックでどこか疲労感をおびた退廃的な雰囲気。それは、昨年東京都現代美術館で個展が開かれた、現代の画家マルレーネ・デュマスが描く人物像に相通ずる。デュマスの名は知らなくとも、昨年直木賞を受賞した桜庭一樹『私の男』の表装画の作者と言えばピンと来るかもしれない。画面の中からにじみ出るかのような生温かい空気感は、ほかの画家にはちょっと真似できないものだ。
さらに、表現主義的な切り裂くような筆致の中で、対象がかろうじてその形態を保っているかのようなピョートル・コンチャローフスキーの《裸婦》(1918)。これは画面の持つ緊張感が素晴らしい。ほかにも、大正時代に来日し、当時の日本美術に大きな影響を与えたことで知られるダヴィード・ブルリュークの実験的なレリーフや、ロシア・アヴァンギャルドの美術家たちに発見された「グルジア版ルソー」とでも言うべき看板画家ニコ・ピロスマニの素朴な絵画など、出品作は実に多彩だ。マレーヴィチやシャガールなど、いわゆる有名どころ以外にも見るべきものはたくさんあるのである。
この展覧会は、新しい造形を生み出し、まだ見ぬ世界に到達しようとする、革命期の芸術家たちの生き生きとした躍動を私たちに示してくれる。そこに見えてくるのは、美術史上の一区画としての地位を確保された、「完成品」としてのロシア・アヴァンギャルドの姿ではない。むしろ試行錯誤をしながら、時として壁にぶち当たり、それでも前に進もうと懸命に努力する、若い芸術家たちの熱い息吹である。ロシア・アヴァンギャルドの詩人マヤコフスキーの詩のつぎの一節は、その息吹を良く伝えている。
これは天国か、でなきゃ綾織木綿の一切れか!
これがおれたちの手で作った作品なら
おれたちの前に開かない扉があるだろうか
(「機関士の独白」1921、小笠原訳)
意欲に燃えた若き芸術家たちの造形的実験。その魅力は今でも燃え尽きることなく、私たちを刺激してやまない。