いま、美術館で心静かな時間を過ごしたいならこの展覧会に足を運びたい。
9月18日、箱根の森の中に佇むポーラ美術館で開幕した「ロニ・ホーン:水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」は、シンプルに削ぎ落された形式の作品が人々を静謐な世界に誘う注目の展覧会だ。会期は2022年3月30日まで。
ロニ・ホーンは1955年生まれ、ニューヨーク在住。写真、彫刻、ドローイング、本など多様なメディアでコンセプチュアルな作品を制作。1975年から今日まで継続して、人里離れた辺境の風景を求めてアイスランド中をくまなく旅してきた。
2009〜10年にはテート・モダン(ロンドン)とホイットニー美術館(ニューヨーク)で大規模な展覧会を開催して注目を集め、その後も現代アートの最前線で活躍。そんなホーンにとって国内美術館で初となる今回の展覧会は、近年の代表作であるガラスの彫刻作品をはじめ、1980年代から今日に至るまでの、約40年間におよぶ実践の数々を紹介するというもの。
今回、展覧会のために日本を訪れたホーン。コロナ禍でいまだ日本への渡航はハードルが高く来日を差し控えるアーティストも多いなか、来日を選んだ理由を「私は日本が大好きなんです。そして、作品発表のために現地を訪れることは自分の人生です」と、きっぱりと答えてくれた。ホーンは図書館や博物館などで俳句、文楽、生け花、折り紙、刀鍛冶、木工、織物、日本庭園といった伝統に親しみ、抽象的なもの、実在的なものに対する日本文化の感覚に惹かれてきたのだという。
9のセクションからなる本展を、いくつかのキーワードから見ていこう。
木々に囲まれたポーラ美術館。その自然を体感でき展示室には「ガラス彫刻」シリーズ(2018-20)が展示されている。自然光を受けつややかに光る作品群は、一見するとガラスの器とその中に満ちる水のよう。しかし実はこれらは、気の遠くなるような時間をかけ鋳造された数百キロにおよぶガラスの塊。物理的には個体でも液体でもないガラスの性質によって透明感と質量感、表層を深さなどさまざまな相反する要素を読み取れる、時を忘れて滞在できる空間だ。
言葉と文学は、ホーンの作品にとっての重要な要素。アメリカを代表する詩人のエミリー・ディキンスンが書いた手紙の中から言葉を選び、純粋な「形」として作品化された《エミリーのブーケ》(2006-07)は、ドナルド・ジャッドらミニマリズムの影響がうかがえる作品。その横には、同じく「形」にフォーカスしながら鑑賞したい作品《ゴールド・フィールド》(1980–82)が横たわる。
ディキンスンの詩文は、テムズ川の水面を写した15点の作品群「静かな水(テムズ川、例として)」(1999)でも見られる。今回の展覧会タイトル「水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?」は、この作品群に書かれたもの。ホーンの作品を眺めていると、作品と一体化し、自己を内省するような静かな感応が訪れるが、その感覚はこの言葉に集約されているように感じられてくる。
ホーンは活動初期より一貫して「自然」をモチーフに作品を制作してきたが、なかでもホーンが偏愛するのがアイスランド。1975年から現在まで定期的に滞在し、人里離れた辺境の風景と孤独を求めて同地をくまなく旅した。アイスランドでの「旅」の軌跡は出版プロジェクト「トゥー・プレイス」シリーズや、灯台の中に2ヶ月滞在して手がけた水彩ドローイング集『ブラフ・ライフ』でたどることができる。
北アイスランドで7年にわたり撮影した45点の写真からなる《円周率》(1997–98)は、作家が「循環し繰り返される出来事の集積」と語る作品。各作品が高い位置に展示され、頭上に作品を見上げるよう促す空間では没入感がもたらされる。
いっぽう、同じく写真作品である《あなたは天気 パート2》(2010-11)は、ひとりの女性の100の表情を追うもの。こちらにまっすぐ視線を向ける女性の100枚ものポートレイトは、アイスランドの温泉で6週間にわたって女性の表情を記録したもの。一つとして同じ表情はなく、微細な表情の違いは刻一刻と様相を変える空のようであり、タイトルの「あなたは天気」の意味がありのまま実感できる。
ホーンにとってもっとも身近な表現手段であり、1982年から今日まで日々呼吸するように継続してきたことがドローイングだ。本展では、一番大きなもので3mにもおよぶ7点の大型ドローイングを展示。遠目から見ると1枚絵の抽象的なドローイングだが、近づいてみるとそれらは切り貼りされたいくつかの要素から成立していることに気づく。そして、サイズも手法も図像も大胆だが、ホーンの作品に通底する静謐さはここでも強い印象を放っている。その次のセクションで見られる堂々たるコラージュ作品「犬のコーラス」シリーズでは、言葉遊びの要素も楽しみたい。
展覧会を見た後には、美術館屋外にある森の遊歩道へ。生い茂る木々の中、スーザン・フィリップスによるサウンドインスタレーション《Wind Wood》の涼やかな音色を聞きながら歩みを進めれば、ポーラ美術館が新収蔵したガラスの作品《鳥葬(Cairngorms, Scotland)》(2014-17)が現れる。かすかに硫黄の匂いも感じるその地でしばし作品を見つめれば、ホーンがアイスランドで眺めた風景、孤独な思索と箱根の森が地続きにあるような錯覚を得るかもしれない。そのとき、遊歩道の中に一人きりであればもっと良いだろう。
野路千晶(編集部)
野路千晶(編集部)