【対談】川内倫子×朝吹真理子:「M/E 球体の上 無限の連なり」展に見る、永遠と一瞬の重なり

東京オペラシティ アートギャラリーで12月18日まで開催中の「川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり」展を機に、写真家・川内倫子と小説家・朝吹真理子が対談。命や死、移りゆく時間や存在を作品で扱ってきたふたりが10年ぶりに語り合う。(構成:新原なりか)

左から、川内倫子、朝吹真理子 「川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり」展会場にて

すごく怖いものに向き合っている

朝吹:川内さんとお目にかかるのは、10年前の「TRAUMARIS|SPACE」での個展のオープニング以来ですね。そのときは、今回の個展でも展示されている「光と影」が新作でした。ひとりのアーティストの方と10年ぶりに再会してまた対談するなんてことはなかなかなくて、おもしろいですね。

川内:朝吹さんとは、きっと何かご縁があるんですね。東京では美術館個展が10年ぶりなので、そのタイミングでまた見ていただけて嬉しいです。

川内倫子 シリーズ「M/E」より 2021
川内倫子 シリーズ「M/E」より 2021

朝吹:先ほど展示を見て、光の粒や霧、小さい粒のひとつの中に、長い時間が入ってしまっている感覚を思いました。「ここ」がものすごく遠い場所と遠い時間につながっている感覚がやってくる瞬間があるのですが、写真は、ひとめでそこに鑑賞者もとべるのって、とてもすてきだなと思います。その感覚を小説にするとき、文章はどうしてもリニアに読まないといけない。ゆっくり浮かぶから、小説って遅い速度のものだと思います。写真は、瞬間をつかまえるときに、シャッターを押すその瞬間の中に永遠が入っているような、勝手な憧れがあって、すごくいいなと思います。

川内:そうですね、それが写真の利点ですね。

朝吹:川内さんの作品、きれい、癒される、みたいなコメントも多いときいたことがあるのですが、私には怖いです。もちろん、ものすごく美しいんだけれど、目が迷子になっていくというか、写っているものに閉じ込められていくような脅迫的な感覚もあって。写っているものの命より、死が見える感じがします。

川内:私が感じていることをキャッチしてもらえていて、嬉しいです。私の写真を見て癒されたと言ってくださる方も多くて、それももちろん嬉しいのですが、自分としてはすごく怖いものに向き合っているという感覚が強くあります。世の中には怖いものがたくさんあって、もはや自分が存在していること自体が怖いと思うことさえあります。だからいっそ、逃げるよりも向き合ってしまった方がいいかなと思っていて。作品を作ることによって、自分なりの世界との向き合い方を模索しているのかもしれません。

左から、川内倫子、朝吹真理子 撮影:編集部

朝吹:私も怖いことばっかりですね。たとえば小さい頃、呼吸をするのがすごく怖くて。呼吸って普段は意識せずにしているけれど、「死ぬまで止まらないんだ」とかって意識しはじめるとすごく怖い。夜寝るとき、布団の中でそういうことを考えていると、自分の体そのものが異物のように思えてきて。あの感覚を、おそらく川内さんも小さい頃から感じていらっしゃったんじゃないですか?

川内:うん、すごくよくわかります。

朝吹:そうですよね。そういったものを克服するというか、そういうものだと受け止めるために写真を撮っていらっしゃるのかなと思うんですけど。

川内:そうなんですよ。

朝吹:川内さんの作品は私には怖い。「あぁ、みんな死んじゃうんだな」とか思って(笑)。たとえば女の子のおさげ髪が写っている写真も、一見するとすごく尊い瞬間なんだけれど、でも髪の毛って死んだ細胞の塊じゃないですか。その女の子がそれだけ死に近づいているということでもある。光に照らされたすごくきれいな瞬間であるにもかかわらず。

川内:そうそう、そういうことの集積なんですよ。私の作品についての意見はもちろんいろいろありますけど、やっぱり怖いと言われることもよくありますね。

川内倫子 シリーズ「An interlinking」より 2012
川内倫子 シリーズ「An interlinking」より 2012

イメージが重なり合う偶然のおもしろさ

朝吹:「4%」というシリーズは、物理学者の佐治晴夫さんの本『女性を宇宙は最初につくった』(春秋社、2009)の中の、「この宇宙のなかは、見えないエネルギーや物質で満たされていて、見えている領域は、わずか4%です」という部分からタイトルに引用されたそうですね。ものをつくるということは基本的に、見えるものを通して見えないものに近づこうとすることだと思います。たとえば、文字は見えるし意味も持っているけれど、私が文字で追いかけたいのは、その向こうから立ち上ってくる湯気とか霧とか、そういうものを掴み取るようなことで。そういう作業を、私はたまたまみんなが読める文字というツールを使ってやっているんだという感覚があります。

展示風景 撮影:木奥恵三
川内倫子 シリーズ「4%」より 2013

川内:私もそういう感覚はあります。写真って具体的で目に見えるものなんだけれど、それをいかに抽象化していくかというところに醍醐味がある。見えるものによって見えるもの以外のものを感じるという矛盾が、つくっていておもしろいところです。文章にも同じようなことが言えますよね。ひとつの意味を成している文章を読んでいても、その向こうの気配とか、行間にあるものも同時に感じる。行間ということでいうと、写真も1枚と1枚の間にも何かがあって、組み合わせによって全体がひとつのものになっていくのもダイナミックでおもしろいところです。今回の展示ではさらに、いろいろなシリーズを混ぜてひとつの空間をつくったことで、シリーズとシリーズの間に出てくるものもあって、おもしろいなと思いました。

朝吹:今回の展示の中で、私は「Illuminance」という映像作品が展示されている小さな部屋にいるのがとても好きでした。部屋の中に画面が2つ並んでいて、それぞれに異なるイメージが投影され、それがどんどん移り変わっていく。2つのイメージがずれつつも重なり合っている様子を見ている。セミを食べようとしているかのようなカブトムシとか、古代魚のようにみえる魚がゆっくり光っている鱗とか、そういったものを順番に見ていると、その生物たちは長い時間をかけた進化を経て、偶然いまその形で存在しているけれど、それが完成形ではなくてまた何かの形に変容していくだろうというふうに思えたりもして。

展示風景 撮影:編集部

川内:「Illuminance」では、どのタイミングでどのイメージが並ぶか、私はコントロールしていないんです。組み合わせは毎回変わっていって、その偶然性を楽しむものとしてつくりました。つくりはじめたのは10年以上前で、最初は10分間の映像でした。その後、展示をする度に画像を継ぎ足していって、いまは約1時間になっています。いつか自分が死んでも、永遠に未完のままであり続ける作品。死ぬときにどれくらいの長さになっているか、楽しみです。

朝吹:それは長大ですね。おもしろそう。一瞬の背後にたくさんの時間が流れているとか、死んでいるものといまはまだ生きているものが同時並行的に存在しているとか、普段の日常生活の中ではノイズとして忘れてしまうけれど、じっと座ってこの作品を見ていると、無数の時間がそばにあって、「いまここ」がすごくいろんなところに繋がっているということを、ぼんやり思い出します。

川内:そうなんですよ。今回、朝吹さんと10年ぶりに対談していることも、お互いがぐるぐると回転しているなかでまた巡り会うという、そのシンクロニシティが「lluminance」とすごく似ているなと思います。そういうセレンディピティって、人生の中でありますよね。それを再現するというわけではないんですが、そういう世の中のおもしろみを2画面で表現したいと思って。

朝吹:滝がうつっている写真をみていると、地球にある原子の総量というのは基本的には変わらなくて、かつて平安時代の人の体を構成していた何かや、首長竜だった原子が、いま私たちの体の一部になっているという話を思い出します。私たちも死んだらバラバラになって、霧や土になったりして、そしてまたなにかの生き物になっていく。そうやって繰り返されて、滝の水の粒子の中にも、かつて生き物を構成していたなにかが含まれている。それを思うと、やっぱり怖い。

川内:そう、怖いんですよね。自分の手とか心臓の音、先ほど朝吹さんがおっしゃっていた呼吸も、改めて考えると気持ち悪くて。自分の体は物体であり有限だけど、同時に自然物でもあることとか、じゃあ私の魂ってなんなんだろうとか、そういったことって普段は感じないんですけど、バラッと紐解いてみたらもう全部がつながりあっていて。

川内倫子 シリーズ「M/E」より 2021
川内倫子 シリーズ「M/E」より 2021

「もうひとつの世界」を追いかけて

朝吹:作品は、日常生活のなかで撮られたものもあるんですか?

川内:あります。新作の「M/E」というシリーズは、コロナ禍であまり身動きが取れなかったこともあり、家の中や庭で撮ったものがあります。娘や夫が、何かあると私を呼ぶんです。「庭に蛇いるよ、撮ったらいいじゃん」とか言って。それでカメラを持っていって撮る(笑)。だから、「M/E」はわりと家族とのコラボレーションというか、撮らされたみたいな感覚がありますね。

朝吹:すごくおもしろい。「いや、ちょっといまは撮りたくないのよ」みたいなことはないんですか?

川内:あんまりないですね。言われると「じゃあ、撮ろっか」ってなる。これ(下図)は、娘が保育園でペットボトルを使って簡単な万華鏡みたいなものを作ってきたので、それをカメラに付けて家の裏庭を撮ったものですね。

川内倫子 シリーズ「M/E」より 2021
川内倫子 シリーズ「M/E」より 2021

朝吹:娘さんとのコラボレーションって聞くと心温まりそうなのに、この写真も怖かった(笑)。先ほども言いましたが、髪の毛が伸びたり爪が伸びたりするっていうのは、それだけ死に近づいているということじゃないですか。子供が成長していくのを見ていると、そういったことも感じたりしますか?

川内:そうですね、うん。もう目に見えて成長するので。1週間前と今日とでも違います。娘はいま6歳なんですが、毎日寂しいなあと思っています。もう前のあの姿は見られないんだと。わかりやすく体が変容していくから、目が離せない。

朝吹:今年、猫を飼いはじめたんですが、1ヶ月半ほど東北出張があって、戻ってきたらすごく大きくなって、かわいさが爆発していて、とてもショックでした。成長の時期を見逃してしまったと思って。

川内:ショックですよね。本当によくわかります。そういうふうに思いたくないから、絶対に目に焼き付けておくぞと思って、小さいときからずーっとじっくり見て、いっぱい写真も撮ったつもりなのに、やっぱりもっと見ておけばよかったと思うんですよね。いくら見ても見てもね。

朝吹:新作「M/E」のタイトルは、「Mother」と「Earth」の頭文字から取られたということですが、私はどちらかというとまだ子供の気分を引きずっていて、映画を観ていて感情移入するのもだいたい子供の方なんですよね。川内さんの中にも、子供の自分はいまもずっといますか?

川内:ずっといますね。満たされない子供の自分がいて、その子が満足しない限り、いまの仕事を辞めることはないんじゃないかなと思います。そういうモチベーションのひとつになっているかもしれないですね。

川内倫子 シリーズ「M/E」より 2020

朝吹:私は、子供の頃イマジナリーフレンドがいたんです。ある時から竜が自分の肩に乗っていて、学校に友達がいなくてひとりぼっちだったので、その竜とずっとしゃべっていました。その竜はいつも、私が普段いる時間軸ではないところにある小さい島国のようなところに連れていってくれました。そこには友達もいて、一緒に悪いやつをやっつけたりして。その竜はあるときから消えてしまってもういないんですが、その子としゃべっていた感覚と、ものをつくっている感覚は似ています。小説を書いているとき、なにか湯気やスチームのようなものの向こうから、もうひとつの世界がやってくる、という感覚があるんですが、その場所にいつも行きたいと思っていて、たまにお呼ばれしたりするんだけれど、そこと完全にくっつくことはいつまでもできない。

川内:そうそう。そこになるべく近づきたいなと思って、毎回どこまで近づけるだろうってチャレンジしていて、でも「近づけたかな」と思うことしかできなくて、その中には入れない。「今回はちょっと表面のふわっとしたところまでいけたかな」とか「一瞬タッチしたけど離れちゃったな」とか、そういう感触を毎回追いかけている感じがあります。でも、作品を作ることが、そこに近づくための唯一の手段なんですよね。

会場風景より

夢で見た景色に導かれて阿蘇へ

朝吹:「あめつち」のこの山、ものすごく綺麗ですね。古墳にも見えるし、乳房みたいなものにも見える。自然にこんなに絶妙にいい感じのかたちができるものなんですね。

川内:これは米塚というところです。阿蘇のカルデラの中にあるスコリア丘という隆起物で、正確には山ではないらしいです。私はこの角度から見るのがとても好きで、阿蘇にいく度に定点観測的に撮っているんです。見る角度によってはこんなに綺麗な形じゃないんですけど、私がいつもカメラを置くこの場所からだと本当にパーフェクトな形に見える。

川内倫子 シリーズ「あめつち」より 2013

朝吹:この写真は、10年前に東京都写真美術館でも見た記憶があります。

川内:今回はその時とは違う展示方法をしているので、また印象が変わると思います。東京都写真美術館では1点ずつ大きいプリントにして見せていたんですが、今回はたくさんの写真を一面に並べてみました。

朝吹:これは川内さんの作品の中ではめずらしく怖くなくて、山をずっとながめたくなります。

川内:「あめつち」の写真を撮りだしたきっかけが、夢でこの景色を見たことだったんです。それまで阿蘇のことは知らなかったんですが、夢でこの景色を見て、その後半年くらい経って忘れた頃に偶然テレビで同じ景色を見たんですよ。本当にあったんだと驚いて、それで撮影に行ったんです。そうしたら本当にまったく同じ景色が撮れて。

朝吹:すごい。

川内:震えましたね。

朝吹:そういうことは、よくあるんですか?

川内:いや、そんなにないです。まぁ観光地ですからね、じつは以前に写真かなにかを見たことがあって、それが夢に出てきたのかもしれないですけど。

朝吹:でも、夢はそのあたりは曖昧にしておくほうが楽しいですもんね。

川内:そうですね。それをきっかけに検索したときに、阿蘇の野焼きのことも出てきて、野焼きはずっと撮りたかったなと思って。そんなことが重なるっていうのは、なにかのサインかなと思って。

川内倫子 シリーズ「あめつち」より 2013

朝吹:川内さんはいま、川のそばにお住まいだと伺ったんですが、川のそばに住みたいというのは子供の頃からの気持ちですか?

川内:なんなんでしょうね。なんでこんなに川に執着しているのか、自分でもわかりません。でも、中学生くらいの時に引っ越した大阪の家が川沿いだったんですよね。全然綺麗な川じゃなくて、どぶ川だったんですけど、それでも川のそばがうれしかったという記憶はあります。その後、東京に出てきてしばらくは家賃が安いところにしか住めなくて、川沿いに住みたいという気持ちはなんとなく無意識に封印していました。何年か経って、ある程度住む場所を選べるようになった時に、そういえば川沿いに住みたかったんだと思い出して、二子玉川の川沿いの物件に10年間住みました。その頃は独身だったのでひとりで過ごす時間が長かったんですが、ひとりで部屋にいてなにも物音がしないのってちょっと怖いじゃないですか。そういうときに、窓から外を見ると川が流れているっていうことに、精神的に助けられていたなと思います。いま思えば、そういったものに救いを求めていたのかもしれないですね。救いって言うと大げさですけど、何か動いているものがあると安心するというか。

朝吹:私は子供の頃から目黒川沿いに住んでいたのもあって、川はすごく好きです。川は全部が見渡せないところがいいなと思っていて。海だとバーンと広大で、なんか海はもう海だから……。

川内:そうなんですよ。わかるわかる。

朝吹:海もすごいんですけど、川って始まりと終わりを同時には見られなくて、渦中しかないじゃないですか。それがすごくいいなと思っていて。どこから始まってどこで終わっているのかがわからなくて、ただ流れていて、川上と川下が曖昧になる感覚とか、ひたすら過ぎ去っていくみたいな感じは、悲しくもあるけれどすがすがしいというか。いいですよね、すごくね。

川内:自分は止まっているわけじゃなくて、時間はちゃんと流れているんだっていうことを、目の前にあるもので感じられるのはいいですよね。動いているものがないと、「あれ、私いま大丈夫?」ってなるじゃないですか。そういう部分を和らげてくれる存在ですよね。いまの家もすぐ裏が川で、窓を開けていればずっとせせらぎが聞こえる。コロナ禍で外出できなかったときは、その音に助けられましたね。

展示風景 撮影:木奥恵三

写真は生きるためのツール

朝吹:こういった、なんと言うか瞬間と永遠が同居する写真を追い求め続けていると、自分がどこにいるのかがわからなくなる瞬間があると思うんですけど、そういう時はどうやって理性を保つんですか?

川内:だから写真を撮影しているんですよね。撮影をしているとすごく集中できるから、その一瞬の中に入れるというか、余計なことを考えなくてよくなる。瞬間を生きるって、じつはすごく難しいじゃないですか。写真を撮るときはそれができるので、写真は自分が生きやすくなるためのひとつのツールなんだと思います。朝吹さんもそういうことないですか? 書いている途中に、ぐっと入っていくような。

朝吹:たしかに、追いかけて書いて没入している時は、自分の体が消えて、それこそそのスチームの一個になる感覚というのはあります。でも私の場合は、その後すごくぐったりしちゃうんです。体力がないっていうのもあると思うんですけど……。

川内:前にもそうおっしゃってましたね。

朝吹:えっ、10年前も?

川内:はい(笑)。

朝吹:あぁ、そうか……。私、10年間なんの運動もしてこなかったんですよ。最近、持久力が落ちてきていて、半日くらいできた集中が続かないんですよね。

川内:本当に、歳をとるとどんどんそうなっていくんですよね。恐ろしいことに。

朝吹:川内さんは、鍛えたりとかされてますか?

川内:鍛えるほどじゃないですけど、ヨガに行ったりはしています。写真を撮るのも、やっぱりカメラがあって体があってこそだから、追いかけたいイメージに体が寄り添ってこられないと無理じゃないですか。だから、ある年齢からは体のメンテナンスがもう仕事だと思っています。

朝吹:本当にそうですね。私も一念発起します。 また10年後に対談できたら、ちゃんと運動していたかお互い確認しましょうね(笑)。

左から、朝吹真理子、川内倫子 撮影:編集部

川内倫子
かわうち・りんこ 1972年滋賀県生まれ。2002年『うたたね』『花火』(リトルモア刊)の2冊で第27回木村伊兵衛写真賞を受賞。著作は他に『AILA』(2005)、『the eyes, the ears,』『Cui Cui』(共に2005)、『Illuminance』(2011、改訂版2021)、『あめつち』(2013)などがある。09年にICP(International Center of Photography)主催の第25回インフィニティ賞芸術部門受賞、13年に芸術選奨文部科学大臣新人賞(2012年度)を受賞。主な国内での個展は、「Cui Cui」(2008、ヴァンジ彫刻庭園美術館)、「照度 あめつち 影を見る」(2012、東京都写真美術館)、「川が私を受け入れてくれた」(2016、熊本市現代美術館)ほか多数。近刊に写真集『Des oiseaux』『Illuminance: The Tenth Anniversary Edition』『やまなみ』『橙が実るまで』(田尻久子との共著)がある。

朝吹真理子
あさぶき・まりこ 1984年東京都生まれ。2009年「流跡」でデビュー。2010年、同作で第20回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を最年少受賞。2011年「きことわ」で第144回芥川賞を受賞。近刊に小説『TIMELESS』(2018)、エッセイ集『だいちょうことばめぐり』(2021)などがある。2012~14年、国東半島アートプロジェクトにて発表された飴屋法水(演出・美術)による演劇「いりくちでくち」のテキストを担当し、共同制作。2021~22年「Reborn-Art Festival 2021-22」に参加。

福島夏子(編集部)

福島夏子(編集部)

「Tokyo Art Beat」編集長。『ROCKIN'ON JAPAN』や『美術手帖』編集部を経て、2021年10月より「Tokyo Art Beat」編集部で勤務。2024年5月より現職。