具象と抽象を行き来しながら絵画表現の可能性を探求し続け、現代最高峰の画家とも称されるゲルハルト・リヒター(1932年生まれ)。日本で16年ぶり、東京で初の大規模個展「ゲルハルト・リヒター展」が東京・竹橋の東京国立近代美術館で10月2日まで開催されている。ゲルハルト・リヒター財団と作家本人が所蔵する作品を中心に122点を紹介し、60年に及ぶ画業をひもとく内容だ。
リヒターはドイツ東部ドレスデンに生まれ、旧東ドイツの社会主義体制下で壁画家として活動を始めた。1959年に訪れた国際美術展ドクメンタで西側の自由な表現に触れ、ベルリンの壁が建設される直前に西ドイツに移住。デュセルドルフ芸術アカデミーで学び直し、当初は「資本主義リアリズム」の造語を掲げて学友のコンラート・リュークらとともにパフォーマンスを含む活動を行ったが、徐々に独自の創作を展開。フォト・ペインティングやカラーチャート、アブストラクト・ペインティングなど新しい絵画表現を次々と世へ送り出し、欧米各地の著名美術館で個展が開催されて現代美術を代表する作家の地位を確立した。1997年、ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞を受賞。近年は美術史の観点からも評価が進み、彼を対象に書かれた研究書や批評は数多い。
本展の会場構成は、今年90歳になったリヒター自身が手がけた。章構成や順路はなく、新旧や具象・抽象の絵画が入り乱れるように6つの空間に展開されている。鑑賞者は自由に回遊し、作品間のつながりを見出してもらうようになっているが、その主な見どころを紹介しよう。
最大の話題は、近年の最重要作で日本初公開となる《ビルケナウ》(2014)だろう。アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所で隠し撮りされた写真を描き写し、その上を黒と白、少しの赤と緑の絵具を使い幾重にも塗った4点の巨大抽象絵画。画面の下層に潜む図像はまったく見えないが、題名や並置された写真の複製、傷痕のように削り取られた絵肌がホロコーストの蛮行へ想像を向けさせる。展示室には《ビルケナウ》の原寸大写真バージョンや灰色をした鏡面も併せて展示され、その反復や映り込みは様々に解釈できそうだ。
ホロコーストという主題はリヒターが何度も試み、断念してきた積年の課題だった。《ビルケナウ》完成後は「少し自由に振る舞っても良いと思えた」と述べ、1970年代に始めたアブストラクト・ペインティングを再び精力的に制作した。アブストラクト・ペインティングは言葉通り抽象画だが、リヒターはスキージ(大きなヘラ)を用いて絵具を伸ばし削ることで、本人も予測不能な画面を生み出す。本展では、色彩がより鮮烈になった近年の大作を初期作も交えて紹介。作家の身体性を伝える大小の筆致が乱舞する画面は、複雑極まりない色相と相まって未知の世界を抱え込んでいるようだ。
ところでリヒターの作品はなぜ高く評価されるのだろうか。本展を担当した東京国立近代美術館主任研究員の桝田倫広は「あえて一言で表すなら」と断ったうえで、「見るとはどういうことか、イメージが表われるとはどういうことか。その認識の根源自体を問いかける」と説明する。「ものを見る」とは、固定観念や歴史、慣習、こう見たい欲望などが複雑に絡み合った行為だ。その原理を伝統的な絵画に付随する意味やメッセージ性を排除して提示するのが大きな特徴だという。
その端的な表れとして桝田が挙げるのがガラスや鏡を用いた作品。たとえば会場中心に置かれた《8枚のガラス》(2012)。8枚のガラス板の角度を変えて重なるように設置した本作は、周囲の作品や人々を写し込み、透かし見せ、光を乱反射する。虚像と実像が重なり絶えず変化する光景は「見る」営みの不確かさを実感させ、同時に純粋なイメージそのものとも言える。会場は随所にガラスや鏡面の作品が配されており、作家の思索をたどる手がかりになるだろう。
リヒターの名を有名にしたのが、1960年代に始めた写真を忠実に描くフォト・ペインティングだ。主題や構図といった絵画制作に欠かせない要素を排除した本シリーズは、見る行為に作家が向き合う端緒となった。仕上げで画面をぼかし質感を際立たせる手法は、写真や映像があふれる現代において絵画の特質を端的に伝えている。
その後、色見本の色彩を偶発的に並べたカラーチャートや画面を灰色に塗り込むグレイ・ペインティング、描く身体を意識させるアブストラクト・ペインティングなどに取り組み、絶えず自身のスタイルを更新してきた。
会場の一角に、フォト・ペインティングとグレイ・ペインティングをガラスの作品を挟んで展示した場所がある。片や広告写真を描いた具象画、いっぽうは灰色の抽象的パターンが連なり、遠目では異質な印象を与える。だが、画面に近づくとともに絵画ならではの筆触がわかり、つながる問題意識を感じさせる。鮮やかな色彩が目を引くのはカラーチャートのシリーズ作品《4900の色彩》(2007)で、同じ空間に複数のグレイ・ペインティングも並ぶ。既成の工業製品を思わせる前者、一見灰色の壁のような後者。それぞれに何を見、どう受け止めるかは鑑賞者に委ねられている。
ほかに家族の肖像画や静物画、唯一のフィルム作品《フィルム:フォルカー・ブラトケ》(1966)、自作絵画のデジタル画像を使い鮮烈な縞模様を生成した《ストリップ》(2013~2016)もある。写真に絵具を塗ったオイル・オン・フォト、ガラス板に塗料を転写した《アラジン》の各シリーズもまとまった点数が紹介され、絵画表現を巡る多様な試みを伝える。出口近くに並ぶのは昨年制作したドローイング25点。2017年以降リヒターはもう絵画を制作しないと宣言したが、いまもドローイングは描き続けており、その絶妙な線描と陰影は極めて魅力的だ。
ひとりの作家が手がけたと思えないほど多彩かつ重層的な表現を展開し、「見る」本質に迫るリヒター。最後に彼が語ったとされる一文を紹介したい。「私は存在しているものを理解したい。われわれはそれをあまりにも知らない。だから、私はそれに似たものをつくり出して、理解しようとする。芸術作品とはほぼすべてこうした類似物である」(1970年のインタビュー/ディートマー・エルガー著・清水穣訳『評伝ゲルハルト・リヒター』より)。その言葉を噛みしめ、圧倒的な展観と向き合いたい。