現在ICCで展示中の《LIFE – fluid, invisible, inaudible …》(以下《LIFE-fii》)は、坂本龍一と高谷史郎による最新のコラボレーション・ワークである。両者の知名度に比してあまり知られていないこの二人の共同作業は、1999年に初演された坂本龍一によるオペラ《LIFE》以来じつに8年にも及んでいる。特に、2005年に開催された法然院でのライヴ、および京都造形芸術大学で行われたスーザン・ソンタグの追悼ライヴは、いまだに多くの人々が記憶にとどめていることだろう。前記のオペラ《LIFE》で用いられていた映像と音響を再構築して生み出された今回のインスタレーションは、山口情報芸術センター(YCAM)の委嘱によって本年3月に制作・発表され、YCAMとICCの尽力によりこのたび東京に巡回する運びとなった。
《fluid, invisible, inaudible …》という副題をもつこのインスタレーションは、1.2m四方,30cmの嵩をもつ9個の水槽と、それらに付随するプロジェクターおよびスピーカーによって構成されている。とはいえこのような即物的な表現は、この作品の実像を把握する上であまりふさわしいものではないかもしれない。というのも実際にこの作品の中に身を置いた鑑賞者は、むしろこれを数十m四方の巨大なインスタレーションとして体感するだろうからだ。
そうした空間的なダイナミズムをともなう経験は、本インスタレーションの極めて巧みに計算された構造によって可能になっている。まず、前述の9個の水槽は3×3のグリッド状に配置され、フロアから2.4mの高さになるように天井から吊り下げられている。さらに、これらの水槽には天井から映像が投影され、それが水槽と足元の双方に映し出される。鑑賞者の上方/下方にある映像は、水槽内の水や人工の霧のために決して完全な像を結ぶことはなく、それぞれがつねにブレやボケをともなった曖昧なものとして立ち現れてくるだろう。つまり基本的な空間構造だけを取り出してみるならば、《LIFE-fii》においてはグリッド状に配置された水槽が水平方向のダイナズムを確保する一方、上方からの映像の投射がそこに垂直方向のダイナミズムをつけ加えている、という図式的な説明をさしあたり施すことができる。
以上のようなこの作品の基本構造は、その空間を共有している鑑賞者たちにある興味深い「習性」を付与することになる。まず、水槽付近の鑑賞者たちの視線はつねに上方と下方のあいだを往復し、時に別の水槽にも注がれる。そして、ひととおり水槽の付近を視線に収めた鑑賞者たちは、おもむろに展示空間の片隅へと赴き、そこからグリッド状に配置された水槽を一望に収めようとする。また、立つ、座る、寝転がる、といった鑑賞者たちのさまざまな姿勢にも、この作品の空間性が極めて兆候的な仕方で反映されるといえるだろう。
さらにこの作品の映像/音響的な特徴として、あまりにも自明のことであるがゆえに見逃してしまいがちな、しかし重要な事実がある。それは、この9つの水槽の周囲で生成している映像と音響のすべてを、鑑賞者は「同時に知覚することができない」という事実である。ある水槽の付近にいる鑑賞者は、別の水槽付近の映像と音響をおぼろげにしか感受できず、《LIFE-fii》全体を俯瞰的に把握しようとする鑑賞者は、個々の水槽付近で生起している映像と音響を混濁した状態でしか享受することができない。
つまりこの作品は、すべてを俯瞰する「理想的な位置」をもっていない。より正確に言えば、そうした絶対的な位置を拒絶しているようにすら感じられる。《LIFE-fii》の映像と音響がリニアな構造をもたないランダムなものであるのと同様に、この作品の鑑賞者が占める位置に空間的なヒエラルキーは存在しない。とはいえそれは、各々が占める「単なる位置(just a place)」を、安易に「正しい位置(a just place)」として肯定するような素朴な思想に還元しうるものではないだろう。
こうした点からもうかがえるように、このインスタレーションはある一人の「理想的な位置」のために作られているのではない。実際の自然環境に住まう諸々の生命体と同じく、《LIFE-fii》の中にいる鑑賞者たちはそれぞれが互いの立ち「位置」をつよく意識せざるをえない。そのような意味でこの《LIFE-fii》という作品は、「共生」をその条件とする「生態環境」のすぐれたアナロジーであると同時に、映像/音響の「内容」のみならずその「形式」においても「生」という主題をつよく意識させる、希有なインスタレーションとなっているのである。