美術館とはどんな場所で、そこではどんな出会いがありどんな気持ちになるのだろうか? 私たちは何を求めて美術館に足を運ぶのだろうか? ライター・「QuizKnock」編集者で詩や文学にも造詣のある志賀玲太が美術館へのショートトリップへと誘う連載「立方体での千一夜」がスタート。第2回に志賀が訪れたのは、安藤忠雄が設計した美術館建築(別館)で知られ、陶磁器を中心にクロード・モネの名作《睡蓮》が人々を迎える京都府のアサヒグループ大山崎山荘美術館。【Tokyo Art Beat】
美術という道を志したばかりの頃の私は、美術に「追いつく」ことに必死だった。
毎日のように開催される、新たな展覧会。国公立の美術館で行われる企画展だけでも相当な数で、ギャラリーで催される小規模なものも含めたらそれはもう膨大だ。Tokyo Art Beatで「開催中」の展覧会を調べるだけでもページがずらっと並ぶわけで、すべてを網羅するのはほとんど不可能だとも言える。
それでも、できる限りであったとしても自分はこれに食らいつきたかった。いまの美術に興味を持ったからには、日々そこで何が生まれているのかを少しでも知りたかった。ところが足繁く展覧会へと足を運び、多くのものを見ようとすればするほどに、逆に自分は何かを見逃しているのではないかと、そんな疑念にも駆られた。
大学を卒業しいくらか落ち着いたかたちで美術に関わるようになったいまでも、無限に等しく並ぶ作品たちにどう向かい合えばいいのか、私は正直わかっていないのかもしれない。
少し前のこと。しばらく関西のほうに滞在する用があり、この機会にとアサヒグループ大山崎山荘美術館を訪れた。この美術館は京都・天王山の中腹に位置しており、山荘の名の通りたたずまいからして個性的な美術館だ。もともとこの大山崎山荘は大正から昭和にかけて実業家の加賀正太郎によって別荘として建築されたものであり、それが保存・修復され美術館として生まれ変わったことでいまに至っている。開館に際しては建築家の安藤忠雄が設計・監修に携わっており、現在ではそうして併設された「地中館」「山手館」と洋館との調和が特徴でもある。
電車での最寄駅は、JR京都線の山崎駅か阪急電鉄の大山崎駅。山の中にあるわけで、駅からはそこそこ勾配のある山道を登ることになる。送迎バスもあったが、折角だから行きは徒歩で向かうことにした。遠方に赴いたとき、そして初めての美術館に行くとき、このもどかしい道中が好きだ。
坂の先のトンネルを抜けしばらく敷地を歩くと、これだとわかる建物にたどり着く。このときには、企画展として「没後10年 舩木倭帆展」が開催されていた。この美術館は、現アサヒビール株式会社の初代社長、山本爲三郎氏が民藝運動を支援していたことに端を発し、工芸分野を中心に魅力的な収蔵品が揃っている。
舩木倭帆は1935年に島根で生まれ、以後北九州、広島を中心に活動を続けたガラス工芸作家だ。父の船木道忠は柳宗悦らに見出されて民藝運動に参加した陶芸家であり、その影響を受けつつもガラスという分野で自分らしい作品を生涯作り続けた。一貫して手作業にこだわり、花瓶や皿、グラスなど、生活に深く根ざして作られた作品たちは、ガラスという無機質な材料でありながら不思議な温かみを持っている。
工芸というジャンルに臨むときには、いわゆるファインアートと相対するときとはまた異なる覚悟というか、心持ちのようなものが必要になる。器たちは私たちの日々に入り込むことが容易に想像できるもので、だからこそ展示ケースのガラス越しにさえ、訴えかけてくるその声は大きい。
イギリスの建築に強く影響され設計された本館は、入り口からも展示室からもかつての生活の面影が垣間見えるようで、どこか居心地が良い。「用の美」について考えるなら、これ以上ない空間のように思えた。ガラスという素材だからこそ、展示室の照明に呼応するようにしてきらめく光景がいまでもありありと思い出せる。
それぞれの展示室にはデカンターやグラスなどの酒器、花瓶、皿や鉢、さらには燭台などがわかれて整然と並んでいた。どれも決して技巧を見せびらかすようなタイプの装飾はなく、ときに手仕事の痕跡がはっきりと感じられるような味付けが、一層存在感に深みを増しているように見えたのが印象的だった。とくに、熱したガラスにそのまま色付きのガラスを垂らすようにして模様を作る、作家が「垂描文」と呼んだ技法で作られた大皿は目に留まった。蛇がのたうつのにも似た模様はある種大味なところもあるのだが(やはり作家にとってもこの技法で思い通りに描くのは難しいものらしい)、それがかえって器にどっしりと構えるような重厚感を与えているようにも見えた。
表面に付けられたひだがゆらめいて見える花瓶。自宅近所の花屋を思い出し、どの花束もそのままに受け入れてくれそうな器量を感じた。透き通る水色がどこまでも涼しげな渦模様の大皿。夏に似合うだろうなと、自分なら載せるべきはトマトなのかきゅうりなのか、ひとしきり考える。京都に住んでいるからとこの美術館までついてきてもらった友人と、あれこれ俗なことを考えながら、館内を巡った。ほとんどお酒を飲まない私と友人だったが、リボンのようなスパイラル状の模様が目を奪うワイングラスを前に、これだったら一杯くらいはもらってもいいだとかそんなことも話した。
工芸が難しいのは、作品そのものは永遠の時を歩むかのようにそこにあり続けるいっぽうで、私たちの生活の方は日々移り変わっていってしまうところにあるように思う。作家が想定していたような生活は徐々に失われ、きっとそれが同じかたちでまた戻ってくることはない。それでも、いまの時間の中に、目の前に器がある意味を考えることは大事なことだろう。舩木倭帆は「日本には日本のガラス器があって当たり前だ」とも語っていたらしい。器の数々を眺めているとなんとなく、その真意がわかるような気がした。
企画展をひとしきり見終えたあとは、通路をわたり安藤忠雄の設計による「地中の宝石箱」に向かった。こちらは山荘を中心に構成された景観の妨げとならないように地下に造られた展示室で、モネの《睡蓮》をはじめとした西洋美術作品が並んでいる。展覧会において、予想外の邂逅ほど嬉しいことはない。画布の隅、地の色と刷毛の痕跡とが交錯するようなところまで見せてくれる《睡蓮》の画面に、他所で見るモネとはまた異なる感触もあった。
帰りには、送迎バスを待って駅へと向かった。座席で揺られていると、すぐに車体は踏切の前で止まった。行くときには運良く気づかなかったようだが、この踏切は随分と人を待たせるタイプのものだったようだ。私はふと、バスの窓かドアかをこじ開けて、外に飛び出してしまいたい衝動に駆られる。いまならバスが降りてきた道を自分の足で引き返し、もう一度展示室へと戻ることができる。
美術館の帰りはいつもそうだ。私は、大事な何かを見ることができなかったまま家路を急いているのではないか。もう少しだけでも、展示室に居座りその何かを探すべきだったんじゃないのか。
同じくバスに乗っていた友人の、「ほら、開いたよ」の声で踏切のサイレンがとうに聞こえなくなっていることに気づく。いまの私は、しかしこのまま家に帰ることをすんなり受け入れることができた。東京の私室から遠く離れたこの場所だったが、別にまたくればいいと、それだけのことに思えた。そういえば美術館の喫茶室で飲んだ紅茶がやけに美味しかった気がする。少なくともその紅茶は、学生だった頃の私が知らない味だった。
志賀玲太
志賀玲太