「顔」を欲望すること。マルレーネ・デュマスの作品にはそのような欲望の気配が充満している。
現在、東京都現代美術館で開催中の「ブロークン・ホワイト」は、マルレーネ・デュマス(1953-)の日本における初の回顧展である。昨年、森美術館で開催された「アフリカ・リミックス」、および国立国際美術館(大阪)でのグループ展「エッセンシャル・ペインティング」を通じてデュマスの作品を目にした人も多いだろうが、今回の個展は、近年国内外でますます注目を集めつつある彼女の作品を目にすることができるまたとない機会である。
冒頭で記したように、デュマスの作品を目にする際にもっとも深い印象を与えるのがその過激なまでの「顔」のクローズアップ、およびその「顔」に与えられた極めて独特な色彩であることは多くの人が認めるところである。今回の展示では1980年代から2006年までの幅広い年代の作品が約150点集められているが、その中でも比較的古い《邪悪は凡庸である》(1984)から、荒木経惟の写真をもとに制作された最新作《ブロークン・ホワイト》(2006)にいたるまで上記の特徴はおおむね一貫している。しかも一般に胸像として描かれるふつうの肖像画とは異なり、デュマスの描く人物像の多くは「顔」のみがカンヴァスや紙を埋め尽くしている点にその特徴が認められる。その色彩とも相俟った強烈な印象のために、おそらく鑑賞者はそれ以外の作品を見るときでさえも「顔」の不在を強く感じずにはいられない。「顔」はデュマスのあらゆる作品に内在しており、ひとたびそれがカンヴァスから取り除かれたとしても、「顔」は「顔の不在」として常に作品の裏側にへばりついている。
そうしたデュマスの人物像を独特なものたらしめている要素のひとつは、まぎれもなくその色調に見いだされる。油彩の場合、デュマスが描く人物の顔の多くは暗く厚みのある描線によってかたどられ、その顔や髪は自然主義と呼ぶにはほど遠い色価によっていろどられている。《遺伝子の憧憬》(1984)はまさにそうした例の最たるものだろう。女性とおぼしきモデルの顔と手はオレンジ色と黄色を基調として塗り込められており、さらにその顔の中心は紺色に塗られている。また、《隣人》(2005)のように比較的平坦な色合いの中に、部分的に用いられた黄色や赤色がアクセントを添えているような作品もある。いずれにせよ、これらの例が示すようにデュマスの描く人物画はいずれもその彩色において独自の世界観を付与されている。
したがってデュマスは、同じ肖像画家の中でもモディリアーニやジャコメッティのように「線」によってモデルの像を異化する画家たちとは、その手法において根本的に異なっていると言える。本展のカタログに収録されているインタヴューでも述べられているように、デュマスのモデルは実生活の知人や家族から偶然手にした写真の中の人物まで実にさまざまだが、いずれの場合においても彼女の作品を統御しているのはまずもってその色彩なのだ。
しかし他方で、人物の顔や身体を構成する「形」がデュマスの絵画において軽視されているわけではないということも付け加えておきたい。これは例えば、紙に描かれた彼女のドローイング作品などから顕著に窺い知ることができる。墨を用いて製作された《女》(1992-93)や、水彩をベースに描かれた《ヤング・ボーイ》(1996)のシリーズなどを見ると、背景に溶け込みそうな一見危ういフォルムに、きわめて見事な仕方で「顔」が与えられているのがわかる。これらの作品では、薄く塗られた墨や絵の具のマッスが「線」との緊張関係の中で「顔」を規定しているのであり、こうした「形」の不安定な在り方こそが、力強い輪郭をともなって描かれる油彩とは異なるアクセントを彼女の作品に付与しているのである。
「色彩」と「形」。この二つの原理にまたがるデュマスの実験は、つまるところ絵画の原理に徹底的に内在していると言えるだろう。逆説的なことだが、ある対象との類似を強く喚起せずにはおかない「肖像画」を通して、デュマスはそこにまったく見知らぬ異質なものを浮かび上がらせようと試みているからだ。前述のインタヴューをふたたび参照してみたい。そこでデュマスは「魂を捉えたい」というタイプの肖像画家に対する嫌悪感を表明し、次のような興味深い発言をおこなっている。
「肖像画家のなかで一番たちが悪いのは、『魂を捉えたい』というようなことを言うひとですね。蝶を捕えて標本箱にピン止めするのと同じように考えているのでしょうか。『あなたはとても身近で、まるでわたし自身のようにも見える反面、まったくみも知らない奇妙な(といってもよい意味でね)ひとのようにも見えます』というのとは、これはまったく異なる考え方です。」(注1)
「魂」、言い換えれば対象の「本質」をピン止めしようと試みるのではなく、みずからが描く対象の「奇妙さ」を引き受けた上で、そこから絵画にのみ示しうる「顔」を描き出そうと試みること。デュマスがみずからの作品において欲望しているのは、モデルとなる対象に帰属する「顔」のみならず、絵画という平面上においてのみ出会うことのできるまったく新たな「顔」でもあるのではないだろうか。たんに顔を「写す」のではなく、それを「欲望する」こと。個々の人物にのみ帰属する「顔」(face)を描くのではなく、そこから生まれる「容貌」(figure)を獲得すること。
(注1)マルレーネ・デュマス『ブロークン・ホワイト』、淡交社、2007年、p. 117