公開日:2007年6月20日

塩田千春 「トラウマ/日常」

現在、ベルリンを拠点として活動している日本人アーティストの数は決して少なくないが、なかでも塩田千春(1972-)は近年もっとも精力的に作品を発表し続けているうちの一人に数えられるだろう。2003年以降、国内外で開催される個展は年4回以上におよび、グループ展も含めればその数は倍以上にのぼる。

現在、東京ではケンジタキギャラリーで塩田千春の個展「トラウマ/日常」が開催されているほか、東京国立近代美術館のギャラリー4で開催されている「リアルのためのフィクション」にも塩田の作品が出品されている。2008年には大阪の国立国際美術館でも個展が予定されており、その活動のペースは今後も衰えそうにない。

画像提供:ケンジタキギャラリー
近年に限ってみても、塩田の作品における主題やメディウムは決して一様ではないため、この作家の全体像を把握するのはしばしば困難であると思われるかもしれない。前述の二つの会場で目にすることのできる作品を見比べてみてもそれは明らかだろう。

「リアルのためのフィクション」では《Bathroom》(1999)というヴィデオ・インスタレーションが出品されているが、これは浴槽の中で泥水をかぶる作家自身の姿が延々と映し出される5分ほどの映像作品である。

他方、個展「トラウマ/日常」では同名のタイトルをもつ近年の作品が展示されている。こちらは立体作品であり、ワンピースや子供靴といった純白のオブジェが無数の黒い糸によって宙づりにされているという造形的な特徴をもつ。また、これらの立体作品のほかにドローイングが展示されていることからも窺えるように、塩田の作品の基礎をなすメディウムは決してひとつに収斂することはない。

とはいえ、一連の作品から代表的なモティーフを取り出してみるならば、それらの作品間にある種の一貫性が存在することもまた確かである。

例えば、《トラウマ/日常》において鮮烈な印象を与える「糸」は塩田が《during sleep》など近年の作品で多用する素材であることがすぐさま指摘できるだろうし、同じく《トラウマ/日常》の一部をなす「衣服」や、《Bathroom》の「泥」といったモティーフも塩田の作品の中にはしばしば顔を覗かせる(たとえば「横浜トリエンナーレ2001」に出品されていた《皮膚からの記憶》など)。以上、やや急ぎ足に確認してきたが、塩田の作品はヴィデオ・インスタレーションからドローイングにいたるまでさまざまな形をとっているものの、それらの作品間には一定の関連性、連続性をもったモティーフもまた存在すると、さしあたりは言うことができるだろう。

画像提供:ケンジタキギャラリー

ここまではもっぱら作品の形式に話題を限定してきたが、以下ではそうした多様な作品を生み出す作家性の方へと目を向けてみたい。

塩田千春という作家を語る上で外すことのできない要素は何かと問われるならば、彼女の作品を貫通する徹底した「私性」(privateness)がその筆頭に挙げられるだろう。「泥水を頭からかぶるごとに、私は自分の意識を取り戻し、自分のあるべき場所に戻ろうとする」という、《Bathroom》に関するテクストはまさにそれを端的に象徴している。もちろんそこに社会性、公共性に対するまなざしが欠けているわけではないが、あくまでも「私」というものを作品の出発点に据え、そこから社会的なものへと向かう回路を開いていくという点にこそ塩田の揺るぎない態度が見いだされるのであり、この「私性」なくして塩田の制作活動が現在のような形に結実することはおそらくなかったはずである。

そして逆説的なことに、塩田の作品がプライヴェートなものであればあるほど、それはある種のスペクタクルを要請することになる。こうした意味で、彼女の活動の中に「パフォーマンス」が占める位置の大きさを見過ごすことはできない。

塩田が創作の一環としてパフォーマンス活動をおこなっていることはあまり知られていないが、前述の《Bathroom》も、浴槽で泥水をかぶるパフォーマンスから発展的に(あるいはそれと並行して)生まれたものだったということに留意しておこう。衣服、ベッド、浴槽といったごく私的な領域内にあるオブジェを作品として公的な領域に開いていくためには、パフォーマンス、ヴィデオ、スチールなどの「回路」が必要になる。そのような「私/公」を繋ぐ回路であるという意味において、塩田が制作に用いる素材は、文字通り「メディウム=媒体」なのである。

もちろんいかなる形であれ、およそ「作品」というものすべてがそうした「私/公」の中間に存在する回路であることはいうまでもないが、塩田の場合、他の作家に比べてそうした側面は明らかに前景化している。

作品を媒介としたプライヴェート/パブリックという領域の横断は、まさに今回の個展――《トラウマ/日常》――のタイトルの中にも見いだされる。ごく私的な「トラウマ」をわれわれの「日常」に結びついたものとして提示するためには、それを「作品」という回路を通じて開いていく作業が不可欠になるからだ。したがって、塩田の作品をたんに「私的な」ものとして語るだけでは、おそらく十分ではない。彼女がテクストの中でしばしば言及するごく個人的な「不確かさ」(uncertainty)の感覚は、造形的な作品ないしスペクタクル性をともなったパフォーマンスを通じて、はじめて伝達可能なものになる。

こうした点を踏まえたうえで、最後にわれわれは、なぜ塩田が複数のメディウムによって制作をおこなうのか、ということにまで考えを広げなければならないのかもしれない。ごく手短に述べるならば、彼女の作品における最大の焦点はその個々の作品にではなく、むしろ塩田千春という作家自身の方に結ばれるのではないか。つまり、作品を通じてわれわれの目に映るスペクタクル的な存在としての「塩田千春」こそが、多彩な作品群を成立させている基底であると言うことができるのではないだろうか。

もちろん、作品を通じて見える作家の姿が、まぎれもない作家本人の姿であるなどと言うことは誰にもできない。いかなるフィルターも通さない透明な「個人」の姿を見ることなど不可能だからだ。

しかし実のところ、「作家」の姿をめぐるそうした意識を芽生えさせることが、塩田が言うところの「不確かさ」(uncertainty)の伝達にほかならないとしたらどうだろう。少なくとも塩田は、今後も作品を通じて自身の姿をスペクタクル化することにより、「私/公」という鑑賞者の素朴な前提をたえず揺るがしつづけていくにちがいない。

注記:本文中で言及した塩田千春の国外の活動については、主にChiharu Shiota, Raum, Haus am Lutzowplatz, 2005を参照した。同書は個展「Raum」にあわせてドイツで刊行された作品集であり、塩田千春の手によるテクストも多数収録されている。文中で言及した《Bathroom》に関するテクストは同書から抜粋・翻訳したものであり、翻訳の責任は筆者にある。

Futoshi Hoshino

Futoshi Hoshino

1983年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。専攻は美学、表象文化論。哲学/美学における美、崇高、表象といった概念をめぐる問題の研究に従事するかたわら、写真家として過去に「反映と生成」(2006)「複製/複製 ’」(2007)などのグループ展に参加。<a href="http://starfield.petit.cc/">Personal Page</a>