本展に出品されている彼女の作品はすべて90年代以降のものであり、作品の形式は油彩から写真まで多岐にわたっている。だが、なかでも中心となっているのはここ数年の代表作とも言うべき「サウナ/浴室」のシリーズである。《窃視者》(2006)や《ハンガリー人》(2006)といった謎めいたタイトルをもつこのシリーズでは、四隅に丸みを与えられた一辺100cmから250cmほどの変形カンヴァスが用いられており、いずれも水を張ったプールや浴室が描かれているという共通点をもつ。
「サウナ/浴室」においてとりわけ鮮烈な印象を与える「タイル」の描写は、(主に過去の植民地時代の歴史を想起させるものとして)ヴァレジョンがもっとも頻繁に利用するモティーフのひとつである。今回の展示作品からいくつか例を挙げてみよう。まず、1階のギャラリーⅠには《入口の象徴Ⅲ》(2005)と題された作品が展示されているが、この絵画の下方から中央にかけては壁面のタイルを模したと思しきグリッドが描かれている。また同じく1階のコリドールに展示されている三点のデッサンにもタイルの描写が見られることや、中庭の《空想の万能薬》(2007)がまさしく実物の白いタイルを素材として制作された作品であることにも注目しておきたい。
そして、2階に展示されている《フォンタナの切り込みの入った壁》(2000)。この作品には、ヴァレジョンの一連の作品におけるもっとも重要な2つのモティーフが同居している。ひとつは前述の「タイル/グリッド」であり、もうひとつがカンヴァス自体に刻み込まれた「裂開」である。《フォンタナの切り込みの入った壁》に描かれているのは、きわめてミニマルな、正方形のグリッドにすぎない。だが、そのカンヴァスに切り込みが入れられ、さらにそれがポリウレタンで加工されているという点にこの作品の特筆すべき点がある。切り裂かれた部分が赤く着色されていることからも窺えるように、これは明らかに「傷口」を模したものである。この「裂開」はギャラリーⅠの《ロポ オーメンの地図Ⅱ》(2004)や、「カルティエ現代美術財団コレクション展」に出品されていた《赤むけの白タイル》(2002)など近年の作品に特徴的なモティーフだが、《昼夜平分線》(1993)や《傷ついた絵画》(1992)といった90年代の作品を目にすれば、その萌芽がすでに10年以上も前の作品に現れていることがわかるだろう。
上記のことに関連して、ひとつ付け加えておくべきことがある。それは、本展の展示構成における「サウナ/浴室」の見せ方の巧みさである。今回、「サウナ/浴室」は1階のギャラリーⅡと2階のギャラリーⅤに展示されているのだが、おそらく最初にギャラリーⅡで「サウナ/浴室」のシリーズを目にするとき、青を基調とした一連の作品からはひたすら美しく静謐な印象を受けるに違いない。だが、《フォンタナの切り込みの入った壁》や90年代のあらゆる意味で倒錯的な作品を通過した後に再びそれらを目にするとき、観賞者はその背後に隠されているあの生々しい「肉」を思い起こさずにはいられないだろう。《フォンタナの切り込みの入った壁》を間に挟むことによって、同じ「タイル」をモティーフにしたこれらの作品の連続性に気づかされる、と言いかえてもいい。近年の「サウナ/浴室」においては前述の「裂開」のモティーフは影を潜め、そこには「美しい」と形容されるべき淡い色調の浴室が描かれているだけのようにも見えるが、実のところその背後にはあの赤く生々しい「裂開」が口をあけているのではないか――そのような意識が徐々に芽生えてくるのである。他の作品よりも絵具の質感が強調された《倒錯した人》(2006)などを見るとき、この表層的な空間がもつ厚みはいっそう強く意識されるだろう。その際、水による視覚的な屈折を効果的に用いた「サウナ/浴室」におけるタイルの描写が、幾何学的というよりむしろ有機的な印象を与えるものであったということに思い至るかもしれない。
そうした「世界の背後」に対する意識は、言うまでもなくわれわれの世界の経験の仕方に直結するものである。たとえば身近なところでは、原美術館の見所のひとつであるジャン=ピエール・レイノーの《ゼロの空間》にまでそれは反響していく。その時、われわれは改めて次のような考えに行き着くだろう――「わたしの身体と世界は同じ肉でできている」。