公開日:2007年6月21日

「光と影 – はじめに、光が、あった」展

東京都写真美術館の収蔵作品を中心に構成された同展では、写真の黎明期から現代にいたるまで絶えず問われつづけてきた「光と影」という主題に対して、ひとつの通時的な視点が与えられている。つまり、写真の発明からフォトグラムなどの実験的な試みを経て、写真による表現が多様化していくという一連の過程がそれである。

マン・レイ「自写像」(1933年)
マン・レイ「自写像」(1933年)
光とは、まずなによりもわれわれの視覚にとって必要不可欠なものであり、さらに写真というメディアにとっては、それが成立するためのもっとも根源的な条件でもある。光と、それを補完する影の存在なしには、いかなる写真も存在しえない。そのような意味で、「光と影」というこの展覧会のタイトルは、ほとんど「写真」そのものの同義語であるとすら言える。

東京都写真美術館の収蔵作品を中心に構成された同展では、写真の黎明期から現代にいたるまで絶えず問われつづけてきた「光と影」という主題に対して、ひとつの通時的な視点が与えられている。つまり、写真の発明からフォトグラムなどの実験的な試みを経て、写真による表現が多様化していくという一連の過程がそれである。二部構成の第一部「光の画」は19世紀のタルボットの写真によって幕を開け、20世紀前半のモホイ=ナジ、マン・レイらの写真を経て、石元泰博、山崎博ら現代の作家たちの作品がそれに続く。第一部の後半、および第二部「影なるもの」では、1960年代のリー・フリードランダーをはじめとする10人の現代作家の写真が展示されているが、そちらに比べると「光の画」の前半ではとりわけ歴史的な視点が強く打ち出されているといえるだろう。事実、20世紀後半以降の多種多様な写真表現は、あくまでも19世紀における〈自然の写し〉としての写真術の発明と、写真というメディアの可能性を押し広げた20世紀前半の実験的作品群の延長線上にあるものだ。同展の会場構成は、その事実をあらためて確認するかのようである。

カロタイプを発明した科学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットは、世界初の写真集『自然の鉛筆』において、写真を絵画とのアナロジーにおいて捉えている。彼は同書において、当時世間に広まりつつあった「写真術」(photography)を、「自然の手」による絵画であると紹介した。「人間の手」によって生み出される絵画とは異なり、写真は「自然の手」によって生み出される。この時点ではまだ、写真の根源的条件であるところの「光」は、絵画の図像を形づくる「筆」との類比において捉えられているにすぎない。だが、その後登場したフォトグラムやソラリゼーションといった技法は、むしろ「光」という写真に固有の要素を最大限に用いることで、写真独自の表現を押し広げることに大きく貢献した。いわばこの時期において、写真はみずからの媒質である「光」を、主題として前景化させたといえるだろう。

森山大道「光と影」(1980-82)より
森山大道「光と影」(1980-82)より
そうした前史を経ながら、「光と影」という自己言及的な主題は現代の写真においても引き続き様々な仕方で反復される。長時間露光をきわめて効果的に用いた山崎博の〈Heliography〉や、自然光で古典絵画を撮影した小野祐次の連作〈Tableaux〉など同展の見所は多岐に渡るが、なかでもとりわけ異彩を放つのが、森山大道の〈光と影〉(1980-82)である(今回の展示では、同名の写真集に収録されているプリントから30点を目にすることができる)。「光と影」という題を付されたこの作品は、森山大道の作品に特有のハイ・コントラストを除けば、同展のなかでももっとも「ストレート」な写真である。だが、それにもかかわらず、この〈光と影〉が同展の核心をもっとも的確に捉えているように思われるのはなぜだろうか。それは、一見何の変哲もない事物を写しとった「写真」が「光と影」の産物にほかならないという基本的な事実に、見る者を立ち返らせるからではないだろうか。同展のほぼ中心に位置する〈光と影〉を前にして感じるのは、「写真」=「光と影」という同語反復の尽きることのない豊かさを湛える、唯物論的なまなざしである。

Futoshi Hoshino

Futoshi Hoshino

1983年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。専攻は美学、表象文化論。哲学/美学における美、崇高、表象といった概念をめぐる問題の研究に従事するかたわら、写真家として過去に「反映と生成」(2006)「複製/複製 ’」(2007)などのグループ展に参加。<a href="http://starfield.petit.cc/">Personal Page</a>