近年彼は、ソ連邦崩壊後の日常で目につく貧困層や身体障害者等を対象とした写真作品、社会主義政権時代の日常風景写真(白黒)に一部分着色した作品を発表してきた。今回の個展はそうした作品とはやや趣が異なっていたように思う。ソ連時代に体制側から咎められ発表を禁じられていたであろう、裸体のイメージが眼についたからだ。
シュウゴアーツの展示室に並べられた作品は全部で12点。その多くの作品に裸のイメージと風景が重ねあわされている。その風景とは、野原、砂浜、川辺、アパートの一室やロシア語の走り書きと様々。また人の姿が写っているものもあるのだが、他のイメージが重ねられているため、被写体への注意が散漫になり、どういう人物が写っていたのかという認識がぼやけてしまう。裸体のイメージも背を向けたものや顔が無いものが多い。
その中でも正面を向いた女性のイメージと海辺を写したイメージの作品がある。その作品を眺めていると海辺の風景と女性のイメージが交互に眼に入り、マジック・アイ(単調な模様の中である二点に視点を交差させると、その模様の中にある物体や文字が浮かび上がる作品)を見ているかのように何かが浮かび上がってくる感覚に陥った。さらに、一方のイメージの女性が纏う衣服の色、他方のイメージにいる人物が身につける衣類の色ともとれるような明るい色が用いられて、先ほど述べた感覚がより複雑に湧き上がる。
また、いずれの作品も薄く色褪せた色彩を基調としているせいか、重ねあわされたイメージ同士が激しく衝突することはない。ひとつのイメージに昇華されているようだ。そのイメージをどう表現して良いのか私にはわからないが、どことなく緩やかで、はかなくも曖昧なものである。というのも、どちらかのイメージに集中しようとすると、いつの間にかもう片方のイメージに包み込まれてしまい、何とも捉えどころがなくなってしまうからだ。色褪せた色彩によってイメージが重ねあわされているため、観るものの気分により様々な解釈や印象が生み出せると感じさせる作品が多かった。
タイトルの“Sandwich”という言葉だが本人曰く「サンドウィッチというのは二枚の写真がパンを意味していて、その間に挟む具は見えないけれど、具は君の創造力だよ」と。
その中身は二枚重ねのイメージにより惹起する「新しい時間」と彼は述べていた。だとすれば、色褪せた色彩もイメージのあいまいさも鑑賞者の解釈を限定させないための手法なのか。その手法の背後にはなるべく多様な解釈で「新しい時間」という具を作ってほしいという作者の意図が感じられた。
二枚のイメージは「風景と裸体」と簡単にまとめてしまったが、そうでないものもある。人によってはその二枚のイメージの互いが近しく感じられたり、全く思いつかないような組み合わせだったりするだろうから「挟む具」の幅も非常に広くなるだろう。ただし、パンとなるイメージの多くはソ連時代のものを記者はどことなく感じた。そのため、社会主義時代を懐かしむ眼差しがスパイスとして少々込められているようにも思えた。
蛇足にはなるが、その懐かしむ視線は、彼の青春時代つまり1950年代後半、冷戦時代の「雪解け」期(1955-58年)に向いているように見える。というのもこの時期に発表された絵画には、おしなべてイデオロギー色が弱く、日常風景の中で生活を謳歌するイメージが公で多く登場したからだ。そうしたイメージは、ブレジネフ政権期(1964-1982)のイデオロギー強化により影を落とし、公では再びプロパガンダ調の作品が増えるという経緯があった。
彼が写真に従事する時期(1970年代後半)のイメージを重ね合わされることで、その追いやられたイメージを復活させていると思う。それが「新しい時間」だとすれば、二枚のイメージの重ね合わせだけでなく、写真が撮られた時期と憧憬対象とする時期の時間的なズレという重ね合わせからも生じているのではないか。
「サンドウィッチ」のためのパンは用意されている。具のないその味を鑑賞者の想像力とセンスで重層化されたイメージから濃厚にしてあれこれ考えるもよし、色褪せたイメージから淡泊に色彩の見事さを味わうのもよい。中身が何であろうとも、パンに挟まれば「サンドウィッチ」になりミハイロフ氏の作品になってしまうのだから。