公開日:2007年6月18日

新井啓太 「   」展

絵画における「図」と「地」の関係というのは、一般に考えられているほど自明のものではない。少なくともはじめに「図」があり、それに「地」が付随するという考え方は単なる虚構の域を出ることはない。

それどころかまったく逆に、通常われわれが「図」だと思っているものはそれを周囲で支える「地」なくしては決して存在することができないとすら言えはしまいか。「作品」(エルゴン)がその「付属物/額縁」(パレルゴン)による枠付けなしには存在しえないように、絵画における「図」と「地」は決して切り離しうるものではない。しかも、互いに補いあう二つのパーツのように組み合った「図」と「地」の関係は決して固定されたものではなく、われわれの眼差し方によって容易に反転しうるような関係の「揺らぎ」を常に含み持っている。

「 」展の核をなす新井のタブローもまた、こうした「地」を「図」として見る可能性へと積極的に開かれている。何かを円く取り囲むように配置された数本の薔薇と、何もない空間の中で(あるいは真白い壁面に)宙吊りにされているかのような石塊がさしあたり「図」としてわれわれの前に立ち現れるとき、それを見るものは少なからず奇妙な印象を受けるに違いない。それはいわゆる透視図法で描かれた図像でもなければ、全体が抽象的な筆触、描線によって満たされたオールオーヴァーをなしているわけでもない。ましてやある特権化された対象がタブローの中心をなし、その周囲を「地」としての余白が支えているわけでもない。薔薇と石塊という二つの対象がそれぞれ左右に配置されることによって画布は緩やかに区切られ、タブローにおける「中心」と「周縁」といった見方そのものがそこでは曖昧にされている。

だが、先ほど確認しておいたように、本来「図」と「地」があらかじめ定められたものではなく、われわれの眼差しによって容易に反転しうるものだとしたら、ここで描かれているのはむしろ「余白」の方であり、逆に対象であるかのように描かれた薔薇や石塊こそが「地」としてその余白を支えていると考えられはしまいか。時に余白もまたひとつの「図」であり、その余白は「余白ならざるもの」、すなわち描出された事物によって枠付けられ、力動化することによって「地」から「図」に反転する。そのような仕方で描かれた余白は「かつてあった」ものへの連想を喚起せずにはおかない。そこには「薔薇」および「石塊」と関係を持っていた何かが「あったのではないか」。もちろんそのような解釈めいた仕草に事を収斂させる必要はない。だが少なくとも、ここに描かれている薔薇と石塊はまるで「鍵括弧」のように、本来区切られることはないはずの余白を区切ろうとしているのではないだろうか。「 」によって、その内側と外側を区切ること。それは例えば、「不在となってしまったもの」ないし「関係性の変化」といった不可視の領域を表象するための、ひとつの方法であると言えるだろう。

Futoshi Hoshino

Futoshi Hoshino

1983年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。専攻は美学、表象文化論。哲学/美学における美、崇高、表象といった概念をめぐる問題の研究に従事するかたわら、写真家として過去に「反映と生成」(2006)「複製/複製 ’」(2007)などのグループ展に参加。<a href="http://starfield.petit.cc/">Personal Page</a>