展示されている作品一つ一つを見ていくと、何か既視感を覚える瞬間がある。入り口入って一番右手にある、「電力館」と書かれた建物の解体現場の写真や建築途中の高速道路の写真などは、ベッヒャー・シューレのアンドレアス・グル スキーやハンス=クリスティアン・シンクを髣髴とさせる。なにより、放射状に広がった白い建物の写真などは、ベッヒャー夫妻の給水塔の写真が、真っ先に頭に浮かんでくる。
また、公園内の黄色い凹版状の大皿の正面に立って、怪訝な顔つきをしている親子の写真は、まるでフラッシュが焚かれたように、二人の人物のところだけ明るくなっている。これなどは、フィリップ‐ロルカ・ディコルシアのシアトリカルな写真を想起させる。
そして、ガリバーの巨大な顔が横たわっている写真は、山田脩二の『日本村』に出てくる、場違いな仏像の写真を連想させ、たくさんの瓶が括りつけられている家の写真は、一世を風靡した「VOW」の投稿写真のようでもある。このように書くと、単なる過去の写真のアッサンブラージュなのではないかと思う人も出てくるかもしれない。しかし、それが私の言いたいことではない。
現代の写真において、過去の写真を、すなわち写真の歴史性を参照しない作品などないといっても過言ではない。それは、作家が意識しようとしまいと、常に写真の歴史性がつきまとうのである。だとするならば、過去の写真を参照し続け、参照し続け、そして限界まで参照し続けたうえで、なお残る「何か」が出てきたとき、それをその作家の「オリジナリティ」とよんでもいいのではないだろうか。
鈴木心の写真には、その「なお残る何か」があるように思われる。それを一番良く示しているのが、先に挙げた公園内の黄色い凹版状の大皿と親子が写っている写真である。フラッシュのようにみえる強い光は、実は写真のフレーム外にある鉄板の反射光であり、まさに偶然の出来事なのである。再度写真の細部をよく見てみると、反射光に特有の光紋のようなものが、地面に映し出されている。彼の作品は、「歴史性」を強く匂わせつつも、「偶然の出来事」と言ってしまうことで、その歴史性を宙吊りにする。まさに、これは現在進行形の写真の在り方の一つなのである。
Bunmei Shirabe
Bunmei Shirabe