展覧会の説明にあるように、山口はバウハウスの作家モホイ=ナジの造形理論を研究し、それに沿った作品も制作している。「APN」のグラフィックデザインなどは、影と光の効果を強調したり、物質の透過性を強調したりと、20世紀初めのドイツ写真と共有する要素を多分に含んでいる。そこでは、フォト・アウゲ(写真‐眼)という言葉にもみられるように、人間性よりも機械性が注目されているように思われる。
しかし、一方で、山口は「ヴィトリーヌ」という作品群において、人間の視覚のあやふやさを観る者に自覚させるように仕向けている。偏光ガラスを用いた、その作品群は、観る者の眼を凝視させ、はたまた右に左に泳がせ、しまいには体全体を動かさせてしまう。特に、「麒麟」という作品は、斜めから見たり、正面から見たりと、作品の周りを右往左往してしまう。作品自体は、偏光ガラスという特殊な「製品」を用いたり、直線や反復から構成されていたり、機械性を匂わせるものとなっているが、その実、観る者が感じるのは、ひたすら(特に眼の)身体的負荷である。
「港 NO.2」も「ユニヴァース」も、形態的には「機械性」をすぐに連想させるような作品であるが、いずれも人間の眼を刺激することで、人間の眼がいかに肉体と結びついているのか(チカチカして、眼が「疲れる」というのも、肉体と結びついているからである)を明かしている。それは同時に、従来の絵画や彫刻などの芸術が、人間の眼を理想化し、特権化し、脱身体化(遠近法は、人間の眼を固定化させ、その1点から全てを把握できるとする)させていたことを明かしてもいる。
人間の眼はあやふやで、疲れやすいものである。だからこそ、この展覧会を観て、存分に疲れて欲しい。疲れるとは、身体で感じているということなのである。
Bunmei Shirabe
Bunmei Shirabe