展示の前半は、身の丈ほどの高さと幅を持つ真っ白なキャンバスに、筆太のストロークを残した油彩画《風と共に》《照応》シリーズがならぶ。《風と共に》は90年代前半、《照応》は90年代後半以降に描かれた作品であるが、年を追うごとに筆の勢いは穏やかになり、とくに後期の《照応》は、グレーの正方形が精妙な構図をかたちづくるよう配されただけかと錯覚するほどに、その表現は非常にシンプルだ。転じて、展示後半の《関係項》シリーズは、巨大な鉄板が慎重にたてられ、しかれ、たてかけられ、傍らには、石が静かに寄り添う。同シリーズの作品は、館入口付近にも野外展示されている。 「もの派」を代表する作家でありながら同時代のアーティストの擁護者としても活躍した李禹煥は、「事物から存在へ」をはじめとする優れたテキストを数多く著している。その一貫したテーマは主客二元論への問いかけ。活動をとおして作者/作品/鑑賞者の関係を注意深く見つめ続けた。今展では、90年代以降の彼の作品を概観しながら、そうした30年にもおよぶ思考の痕跡に触れることになる。「もの派」の出現がそうであったように、ここでの展示作品もまた、広大な美術史のコンテクストを参照した「美術のための美術」であることは否定できない。消費や体験に基づく美術施設がそのあり様として優位な趨勢をみせるいま、ややもすれば今展は退屈な印象をうけとめかねかい。たとえ作家の見せる卓越した構図が鑑賞者の心を打つとしても、その衝動に持続性を求めるのは困難だ。
すべての展示作品を一通り見終えると、今展覧会のメイキング映像を目にすることができる。そこには作品の姿は映し出されておらず、制作中の作家の体の動き、加工場の職人の働く姿、搬入設営チームの連携が淡々と映し出され、ただ、この展覧会を「つくること」にのみ焦点があてられている。作品を支える人々の動きは、「美術のための美術」を見つめていた合理化された視覚を揺さぶり、その視野を拡げる。その視線は巡り巡って、わずか数分前の記憶の感触をあらたに反芻させる心地よい作用をもたらす。
筆跡が残す細やかな筋と淡いグレーのグラデーションが図形を構成し、その図形の余波は、まさに「余白の芸術」にふさわしい空間を生み出す。同シリーズのウォールペインティングは、無限の「余白」をどこまでも広げ、やがてホワイトキューブへとけ込む。さしずめ周囲を作品に包まれたかのような、視覚経験を超えた強い緊張感をもたらしながら。石と鉄の狭間を漂えば、ささやかな構築性に注がれた膨大な意志とエネルギーの蓄積を想起させる。同時に展示室に設えられたふたつの鉱物の呼応に参加・対応しながら、鑑賞者はその「余白」を永遠に彷徨うことになる。
この余白のなかからは、海辺の体験も天空のスペクタクルも遙か遠い場所の出来事で、36点ばかりの作品は、無愛想にそこに佇むだけだ。なにかを求めて7つの部屋部屋を歩いてみても、おそらく虚しさだけが残るだろう。大きな期待を持たず、わずかな創造力だけで作品に望むことができれば、余白のなかの漂いと、鉄と石による空間のうねりを体験することはできるのかもしれないが。