近代社会とともに生まれた美術館は、その誕生から200年以上が経過したいまでも、基本的には近代的な主体としての芸術家が制作した作品を収集・展示している。つまり、美術教育を受けたか否かにかかわらず、人生において継続して制作に取り組む作家が、ある独自性ないしはスタイルを確立した作品であることが暗黙の前提となっている。美術館という場所は、そのような未来に残すべき価値を有した作品を収集・保存するという、見方によってはいささか傲慢な、けれども切実な使命を背負って、日々試行錯誤を続けてきた。
したがって、芸術家ではない人物がある一時期に制作した作品や、子供の手による作品は、特別な理由がなければ、美術館では取り上げられにくい。では、そういった作品に価値がないのかといえば、もちろんそんなことはない。たとえ「芸術家」による作品ではなくても、制作した本人はもちろん、その周囲にいる人々、あるいは遠く隔たっていても同じ体験や記憶を共有する人にとって、それは大切な価値を持ちうる。また、1点1点の自律した作品としての力は弱くとも、大きな運動としてみたときに、歴史上に重要な位置を占めるケースもある。町田市立国際版画美術館で開催された2つの民衆版画運動をめぐる展覧会のサブタイトル「工場で、田んぼで、教室で みんなかつては版画家だった」からは、そんな「私たち」の美術史を紡ぎたいという思いが伝わってきた。
戦後版画運動(1947〜50年代後半)と教育版画運動(1951〜90年代後半)という、戦後に展開された2つの民衆版画運動の広がりを豊富な作品と資料によって浮き彫りしたこの展覧会の意義は、これまで美術館では体系的に取り上げられることのなかった後者を、前者に連なる運動として歴史のなかに位置づけようとした点にある。
戦後版画運動は、1947年に日本に紹介された中国木刻に触発され、戦前のプロレタリア美術や風刺漫画に携わった作家たちが中心となり、各地の労働運動や農民運動、平和運動を木版画で伝えようとした運動と定義されている。他方、この運動のメンバーであった大田耕士が、山形県の中学校教師、無着成恭の主導した、生活を見つめることで社会や現実を認識する力を鍛える「生活綴り方」(作文)に共鳴し、教育のなかに版画制作を定着させようとしたのが教育版画運動である。
両者をつなぐ要素として、2つの運動に関わった大田をはじめとした人的交流だけでなく、版画という複製や持ち運びが容易なメディアの特性を生かしたローカルかつグローバルな活動、社会問題や日々の生活へと向けられたリアリズムに根ざした眼差しといった共通点が、展覧会を通して浮かび上がる構成となっていた。むしろ両者は切り離せるものではなく、プロとアマチュアが分け隔てなく参加した各地のサークル活動の土壌が、教育版画運動へとつながったとみることもできるだろう。
同展図録に収められた主要参考文献の展覧会図録の一覧を見ると、戦後版画運動については、運動の起点となった中国現代版画の展覧会をはじめ、小野忠重や飯野農夫也、滝平二郎、鈴木賢二ら運動に関わった作家たちの個展が、創作版画系の作家に比べればごくわずかとはいえ、80年代以降いくつか開催されてきたことがわかる。また、より視野を広げて、アジアの近代化において木版画運動が果たした役割を明らかにした「闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930s-2010s」(福岡アジア美術館、アーツ前橋、2018)も記憶に新しい。
それに対して、教育版画運動のなかで、全国各地の子供たちが手がけた版画作品が美術館でまとまって紹介された機会はこれまで一度もなかった。また、戦後版画運動のメンバーが「民衆のための芸術」を目指して労働者や農民、若者への版画の普及を図り、全国各地で結成されることになった版画サークルで作られたアマチュアたちの作品も、日の目を見る機会はこれまであまり多くはなかったのではないだろうか。版画運動が歴史化される過程で、作家とそうでない者のグラデーションがあったことがうかがわれる。
また、展覧会や図録でも指摘されているように、女性作家の存在は極端に少ない。そんななか、作家として版画運動に参加した女性であり、群像画によって女性たちが主体となった運動を描き出した小林喜巳子の存在は際立っていた。小林は1946年から女子学生の入学が許可された東京美術学校(1949年より東京藝術大学)の初の女子卒業生のひとりであったという。他方、作家ではないが、サークルに加わって版画を楽しんだ女性や、教員として版画を指導した女性は多かったようで(*1)、作品そのものは失われていても、青森県で農家の女性たちを中心に結成された「働くものの会」など、サークル誌を通してその活動を知ることができた。
およそ400点の作品と資料が一堂に会した同展覧会は、民衆版画運動の全国的な広がりを伝えて余りあるものだった。美術館に収蔵されている版画作品だけではなく、文学館や図書館、作家の保存会や研究会、公益財団法人アジア・アフリカ文化財団、漫画資料室MORI、大学の研究室、全国の子供たちによる冊子を数多く所有する志賀町、各地の教育委員会や学校、そして個人が収集・保存してきたサークル誌、版画集、絵本、写真や印刷物など、運動にまつわる多種多様な資料には、様々な背景をもつ作り手たちや、それを継承してきた人々の熱気が宿っていた。
この充実した展覧会は、企画者である学芸員の町村悠香が過去にartscapeに執筆した記事や図録によると、2018年から続けられてきた研究会「戦後版画運動 機関紙を読む会」でのリサーチにはじまり、長野県南佐久郡小海町鎰掛集落の「カギカケ版画サークル」や、版画教育が盛んだった石川県羽咋郡志賀町での当事者への聞き取りおよび資料調査といった、地道なフィールドワークによって実現したものである(*2)。
そして、膨大な作品と資料を見終えた私たちを最後に待ち受けるのは、子供たちの共同制作による圧巻の大型作品だ。いずれの作品にも彼らの観察力と想像力、そして構図や細部表現の技術がいかんなく発揮されている。のどかな農村風景や労働の様子から、地域のお祭り、工場や造船所、新宿駅前の大都会、そして現実とファンタジーが融合した世界まで、時代や地域に応じて主題も様々だ。それは、展示を通して自分たちの過去や現在と地続きの民衆版画運動に思いを馳せてきた「私たち」鑑賞者にとって、心揺さぶられるフィナーレであった。
*1── 町村悠香「2つの民衆版画運動と「女性」」『彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動』町田市立国際版画美術館、2022年、124頁。
*2── 調査の詳細と企画のプロセスが、artscapeに掲載された町村による3つのキュレーターズノート「戦後版画運動の地下水脈 女性、山村をめぐるケーススタディ」(2019年5月15日)https://artscape.jp/report/curator/10154641_1634.html、「みんな、かつては版画家だった――教育版画運動と大田耕士旧蔵版画集から考える「私たち」の戦後美術史」(2021年12月1日)https://artscape.jp/report/curator/10172818_1634.html、「2つの民衆版画運動と戦争の傷跡、平和運動「彫刻刀が刻む戦後日本展」出品作から」(2022年4月1日)https://artscape.jp/report/curator/10175326_1634.htmlに綴られている。