レイチェル・カーソン『沈黙の春』(1962)から遡るとすれば、すでに半世紀以上に渡って叫ばれ続けてきた「エコロジー」。この概念や気候変動、環境問題をテーマとした展覧会「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」が森美術館にて開幕した。会期は2024年3月31日まで。企画はマーティン・ゲルマン(同館アジャンクト・キュレーター)と椿玲子(同館キュレーター)、第2章のみバート・ウィンザー=タマキ(カリフォルニア大学アーバイン校美術史学科教授)。
本展のポイントのひとつは、エコロジーを題材とした展覧会であると同時に、環境に配慮した展覧会作りがなされていることだ。展覧会の見どころや出展作品は後ほどふれるとして、まずはそちらを紹介しよう。
展覧会には16ヶ国から34名のアーティストが出展しているが、作品や物資の輸送を減らすために、美術館は作家に来日し国内で作品を制作するよう依頼。出展作品の多くが新作となり、結果として展示スペースの半分以上を新作群が占めることとなった。
会場設営にも注目だ。展示壁やパネルは以前の展覧会で用いたものを一部再利用し、塗装仕上げを省略。100%リサイクル可能な石膏ボードや、再生素材を活用した建材も用いることで、資源の削減が実現した。
展覧会は4章構成。以下では各章のテーマや出展作品について、見どころを紹介していこう。
第1章のタイトルは「全ては繋がっている」。私たちの生活は、商品やデータ、廃棄物はもちろん動植物や微生物まで、様々なアクターに影響を受け、また与えながら営まれている。本章では、直接見たり、聞いたりすることが難しいこの大きなエコロジーという概念を喚起させる作品が紹介される。
スウェーデン出身のニナ・カネルの新作《マッスル・メモリー(5トン)》(2023)は、仕切られた空間の床に貝殻が敷き詰められ、その上を自由に歩くことができるインスタレーション。本作で用いられている北海道産のホタテ貝の殻は毎年20万トン以上が廃棄され、その再利用が問題となっている。来場者の足踏みで粉砕された貝殻は、会期終了後にセメントの原材料として再利用される予定だという。
セシリア・ヴィクーニャは、チリ・サンティアゴ出身の詩人・映像作家。「不安定なもの」と題されたシリーズと《キープ・ギログ》(2021)というインスタレーションを出展している。「キープ」とは、アンデス地方で古代に発明された糸と結び目によるコミュニケーション方法のこと。そこに韓服に用いられるシルク、コットンによるガーゼが吊り下げられている。
アピチャッポン・ウィーラセタクンは、コロニー(集団・植民地)をテーマとした短編映画《ナイト・コロニー》(2021)を出展。本作は、ベッドや蛍光灯の配されたある一室で、多種多様な昆虫が動く様子が収められている。虫の羽音に紛れて、2020年にバンコクで行われた民主化デモの音声が流れては去っていく。
第2章「土に還る」は、ゲスト・キュレーターとしてカリフォルニア大学アーバイン校美術史学科教授バート・ウィンザー=タマキが企画・監修を手がける。
他国同様に、第二次世界大戦後、放射能汚染や自然災害など、深刻な環境問題に直面した日本。国内の美術家たちは、それらに応答するような作品を発表していた。たとえば、本章冒頭で公開されている桂ゆき《人と魚》(1954)や岡本太郎《燃える人》(1955)は、水爆実験の被害を受けた第五福竜丸をモチーフとした作品だ。運動としては、過酷な労働環境や、公害被害者の姿をありのままに写した「ドキュメンタリー写真」の果たした役割も大きい。
本章の焦点は、1950〜80年代に、頻発する環境問題と向き合ってきた日本の作家たち。前衛芸術集団ハイレッド・センターのひとりである中西夏之や戦争体験をもとに彫刻を制作した村岡三郎、出展作が章タイトルにも採用された鯉江良二などの作品が並ぶ。
「四大元素の物質性」と題された後半では、土、水、空気、火といった物質の特性に注目した作品を通じて、ディストピア的な都市・社会観を提示した作品が公開される。
藤田昭子は陶を扱う彫刻家。神奈川県平塚市で美術教室を主催する作家は、《天竺》や《出縄》といった出展作において、支持者とともに捏ねた土を屋外に盛り、儀式的なパフォーマンスを展開した。
ほかにも、花道の流派に所属する谷口雅邦による土やとうもろこしを素材とする立体作品や、原爆を題材とし、自身や家族もその後遺症に苦しんだ殿敷侃(とのしき・ただし)によるオブジェ作品も。
第3章「大いなる加速」では、加速し続ける経済成長や自然破壊、人間中心主義に警鐘を鳴らす作品が並ぶ。スイス出身のジュリアン・シャリエールの《制御された炎》(2022)は、そうした近代からの社会動向を、文字通りスローダウンさせる映像作品。ドローンによる撮影のもと、花火の炸裂をスローで逆再生で映し出す。
クウェート国籍を持ち、学生時代を日本で過ごしたモニラ・アルカディリは、新作《恨み言》(2023)を発表。鮮やかなブルーの壁と床に青白い球体が浮かぶ空間のなかでは、「侵入」「搾取」「干渉」「劣化」「変貌」をテーマとするテキストを読み上げる声が響く。作家は私たち人間と自然の関係を「憑依」や「恨み」としてとらえ、5つのテーマはその諸段階を表しているという。文章のプリントも展示空間に置かれているため、声に耳を傾けながらテキストを読むのもよいだろう。
滋賀県に生まれ、国内外で活動する保良雄は、新作《fruiting body》(2023)を発表。自然が長い時間をかけて作り出す大理石と産業廃棄物を高温溶解させることで生じた人工的な非晶体スラグを用いて、「地層」を制作した。鳥の鳴き声をデジタル信号に変換した音声が流れる空間作品を通じて、人間以外の生物や無機物との共存や、脱人間中心主義を提唱する。
展示を締め括る第4章「未来は私たちのなかにある」は、作品が提示してきた環境問題と向き合う観点をふまえて、自然や環境自体が備え持つ美しさや共生性に注目し、人間との新しい関係を模索するパート。エコロジーとアートを語るうえで欠かせないアグネス・デネスの作品も、本章にて公開される。
デネスは1960年代から一貫して、エコロジーを題材とした作品を発表してきた。《小麦畑ー対決:バッテリー・パーク埋立地、ダウンタウン・マンハッタン》(1982)はタイトルの通り、ニューヨークのバッテリー・パークの埋立地から作業廃棄物を撤去し、小麦を植えるという試み。摩天楼がそびえるマンハッタン島南部に小麦畑が広がる風景は、国際貿易が加速し、国家間での不平等が進む状態の縮図を示すかのようだ。
ほかにも、記念碑的なパブリック・アート《生きているピラミッド》(2015)の記録写真や、遺灰の写真とテキストで構成される《人間の塵》(1963/2023)なども鑑賞できる。
ニュージーランド出身のケイト・ニュービーは、光、太陽、雨、風といった要素を取り入れた彫刻作品で知られるアーティスト。本展に出品された《ファイヤー!!!!!!!》(2023)は、人工大理石テラゾの床と藍染の布の垂れ幕で構成される。テラゾは、森美術館と銀座メゾンエルメス(本展の関連展「エコロジー:循環をめぐるダイアローグ ダイアローグ1『新たな生』崔在銀展」が開催されている)のあいだにあるビジネス街で収集されたいっぽう、藍染は青梅市で制作されたものだ。
長野県立美術館での大規模回顧展も記憶に新しい松澤宥の作品も多数出展。自宅にある「プサイ(ψ)の部屋」にて絵画、グラフィック、インスタレーションを制作していた松澤は、1964年に「オブジェを消せ」という啓示を受け、以降は「消滅」をテーマに言葉や概念のみを表現とする「観念美術」を続けた。
代表作《私の死》は、1970年の東京ビエンナーレで公開された作品。空洞の部屋の入口と出口には、死に関する指示が書かれたパネルが配されている。他方で、本展ではその記録写真が公開されているパフォーマンス《消滅の幟》の幟(のぼり)には「人類よ消滅しよう 行こう行こう 反文明委員会」という標語が記されている。
死や消滅といった超越的な観念と向き合わせようとする松澤の作品。徹底してコンセプチュアルなパフォーマンスを体験し、資料から知ることで、彼の頭の中を少し覗くことができるかもしれない。
冒頭でふれたように、本展はその運営において資源の削減を試みている。その試みは注目し評価すべきであるいっぽう、作品や構成といった展覧会の内容に目を向けたとき、エコロジーというテーマを私事として引き受け対峙するというよりも、たんに題材として利用している印象を受けた作品も多かった。
だがそれは作家の問題ではなく、エコロジーや環境というテーマが備える広範さに由来する、ある種の限界を示しているとも言えよう(あるいは、これだけの作家数と出展数を、ひとつのテーマで引き受けようとすることへの限界でもあろうか)。環境問題は社会や地球全体への大規模な影響に基づいた対策が必要ないっぽうで、そのスケールの大きさゆえに私事としてとらえることが、やはり難しい。
展覧会の内容全体に応答するのであれば、そうした限界を感じ、私たちが間接的にできることを考える機会としてとらえるのがよいかもしれない。あるいは、個々の作家や作品といった一部に注目し、その面白さを自分なりに「発明」する必要があるだろう。
本展の開幕と同時に、「MAMコレクション017: さわひらき」「MAMプロジェクト031:地主麻衣子」「MAMスクリーン018: カラビン・フィルム・コレクティブ」もスタートしているので、訪れた際は合わせて見ておきたい。